「ルスラン」第3部 結婚

第1章   来日

 ジェットエンジンの音が轟く成田空港で、真名は胸を激しく動悸させていた。ルスランが本当に日本に来ると、数日前に電話で告げてきたからだ。彼が乗ると言っていたモスクワからの便は、すでに到着ランプがついていた。
 やがてルスランがゲートから姿を現した。あとでこのことを思い出すたび、真名は顔をひどく赤くするのだが、ルスランの姿を見た真名はとっさに彼に飛びついてしまった。ルスランもそれに応えて真名をしっかりと抱きしめた。
 しばらくして落ち着きを取り戻した真名は、ルスランを連れて東京方面へ行く電車に乗った。真名は隣の席に座ったルスランの顔をじっと見つめた。日本でルスランの顔を見ることができるなんて、信じられないような気がした。
「そういえばね、マーナ。モスクワを発つ前に、ママと会ってきた。」
「それだったら、いっそのこと結婚式に出席していただきたかったのに。」
「そうだったね。俺はなかなかこだわりを捨てきれなかった。
 ママは最終的にはパパを捨てたのだけど、それは一回だけの話ではなかったんだ。何度か浮気していたんだ。ローザの主治医と騒ぎを起こしたこともあった。パパと別れるからママについてきてくれ、と言われたことが二度あった。
 だから、ついにママたちが離婚したときに俺はパパと暮らす方を選んだし、俺には最初からパパしかいなかったようなものだと思い込もうとした時期もあったよ。
 でも、この年になればママの生き方もわからなくはないよ。だからわだかまりを持たず、ママと話をすることができた。
 これからも、ママが会いたいと言えば会うよ。でも、それだけだ。これからの俺にはきみがいるから、それだけで十分だよ。」
 やがて東京に着き、二人は役所に行って手続きをすませた。真名は新居の準備をすっかり整えており、そこにルスランを迎えた。
 次に二人はこれからのことを話し合った。真名はルスランに日本語学校に行くことをすすめたが、ルスランは気乗りがしないようだった。今更学校というものに通うのが面倒に思われたのだ。
「日本語なら、きみから直接教わればいいから、学校には行かない。」
「私が仕事に行っている間は何をやっているの?」
「適当に過ごすよ。」
「でも、早く日本語を覚えた方がいいんじゃないかしら。例えばロシア語を教える仕事なんかはすぐに見つけられるかもしれないし。」
「そんな、大学を出ていない俺が人に何かを教えるなんて無理だよ。ああ、でも、射撃なら教えられるよ。」
「日本では拳銃を持つことが禁止されているから、そういう仕事は多分ないと思うわよ。」
 こうして、二人の新婚生活が始まった。真名が仕事にでかけている間、ルスランはアパートで日本語の勉強をしたり、近所を歩き回ったりして過ごした。
 やがて真名の職場は年末年始の休みに入り、彼女は新婚旅行のつもりでルスランを自分の故郷の広島に連れていった。
「海を見たのは数年ぶりだよ。」
 瀬戸内海を航行する船の上で波をじっと見つめているルスランを見て、真名は幸せを強く感じた。モスクワで広田に脅かされ、ルスランと別れなければならないのかと涙を流したころに比べると、夢のようだった。
 一方ルスランも、離婚した自分の両親も新婚時代はこんな気持ちでいたのだろうか、とモスクワにいる母と天国にいる父を思った。
 その後二人は真名の実家にも顔を出し、彼女の両親と食事をともにした。夫と両親との関係もうまくいきそうで、真名は安心した。
 やがて年が明け、真名の仕事も始まった。真名が外国人と結婚したことで、新しい部署の職員は当初は驚きの様子を見せたものの、大部分の人間が好意的に祝福してくれた。女子職員のなかには、真名の夫に密かに興味を持つ者さえいた。
 その中でただ一人、真名に不愉快な言葉を浴びせた男がいた。岡村という、真名より四、五歳年上の同じ部署の職員だった。
「大野さん。どこの国の男であろうと、ヒモになるような奴にろくなのはいないんだよ。」
 ルスランを侮辱したこの男に真名は反感を抱いたが、とりあえずはそんなそぶりをみせないようにした。

 アパートの周辺を歩き回るのに飽きたルスランは、今度は競馬場に行くようになった。真名は競馬場のあるところは教えてくれたが、ルスランが馬券を買うことには反対した。しかし、ルスランにとっては馬が疾走するところを眺めるだけで楽しかった。騎乗スタイルの競馬はロシアではほとんど見られなかったので、ルスランは騎手たちを羨ましく思った。
 ある日、薬山競馬場でしばし時間を過ごした後、ルスランが帰宅しようと駅への道を歩いていたところ、警官に呼び止められた。
「身分証明書を見せろ。」
 警官に英語で言われたので、ルスランは外国人登録証を見せた。警官は登録証とルスランの顔をじろじろ見た後、無言で登録証を返し、その場を立ち去った。
 ルスランは、自分も警官だった、とその男に言おうかとも思ったのだが、警官があまりにも無愛想だったのでやめた。自分もおそらくモスクワであんな感じだったかもしれないが、警官の無愛想さが気にくわなかった。
 次の日も薬山競馬場に行き、レースが終わって帰ろうとしたところで、ルスランはがらの悪そうな若い日本人の男に英語で声をかけられた。
「やあ、あんた目立つね。昨日もここに来ていただろう?もし時間があったら、俺と一緒に飲まないか?今日は儲かったからおごってやるよ。」
 特に断る理由もなかったことから、ルスランは男の誘いに乗った。それにルスランは男に興味を抱いたのだ。その男はなにか後ろ暗そうな雰囲気があった。ルスランは仕事柄モスクワでよくこういう人間を見てきた。こういう雰囲気はどこの国でも同じなのかもしれない、とルスランは思った。
 二人は近くの居酒屋に入り、日本語と英語を交ぜながら話した。
「あんた、どこの国から来たの?」
「ロシアから。」
「やっぱりね。そうじゃないかと思ったんだ。俺も最近ロシアがらみの仕事をするようになってね。ウラジオストクから?」
「いや、モスクワから来た。」
「へえ。モスクワでは何をしていた?」
「刑務所に入っていたんだ。」
「また、何でそんなことになったんだ?」
「気に入らない奴を殴って、相手に大怪我を負わせてしまったんだ。」
「ふーん、なかなかやるね。そういえばあんた、強そうだもんな。」
 相手はますますルスランに興味をもったようだ。もしかして相手の男は何かを企んで自分に近づいてきたのかも知れない、とルスランは考えた。
「じゃあ、あんたは何のために日本に来たの?」
「妻に一緒に来てくれ、って言われたからだ。観光でもないし、特に仕事の当てがあったわけでもないんだ。」
「あんたの妻って、ダンサーか何かをやっているのか?」
 どうやら相手はルスランがロシアの女と結婚して、二人で日本に来たものと勘違いしているらしい。しかし、ルスランも相手に本当のことを話す気はなかった。
「そうだよ。とてもいい女なんだ。だから彼女を心配して、こんな国にまで来てしまったんだ。」
「羨ましい話だね。彼女たちは本当に色っぽいからな。ところであんたの名前は?」
「ヴィタリー。」
「俺は池田というんだ。もし日本で仕事をしたいと思っているのなら、紹介してやらなくもないよ。あんたにぴったりの仕事があるんだ。まあ、あとはあんた次第だな。」
 これはおもしろいことになるかもしれない。ルスランは池田に好意をもたれるように、愛想よく酒の相手をした。ルスランの努力が実ったようで、池田は別れ際にこう言った。
「もし本気で仕事をする気があるなら、今度船橋競馬場で行われるレースに来いよ。三時に正面玄関で待っているから。」
 ルスランは池田と知り合いになったことは真名には話さないまま、指示どおりに船橋競馬場に行った。レースが終わると池田はルスランをレストランに連れていき、個室に席をとった。
「池田さん。仕事の件、どうかよろしくお願いします。」
「どんなことでもやるか?」
「やりますよ。妻のためにも、俺も稼ぎが欲しいんだ。」
「秘密は守るだろうね、ヴィタリー?」
「絶対に。」
 そこで池田は声をひそめた。
「じつはな、先月俺はロシア製の拳銃を買ったんだ。最近、拳銃に興味を持つようになってね。もちろん違法なんだけど、結構日本に入ってきているんだ。
 拳銃の密輸というのはわりと儲かる商売らしいんだ。日本では拳銃を持つことが許されないんだけど、それだからなおさら拳銃を持ちたいと思う奴はいるし、それにロシア製の拳銃はわりと安いんだ。
 そこで、俺自身も拳銃の密輸をやってみたいと思っていたんだ。ただ、あんたみたいな若いのはともかく、ロシア人で英語を解する奴はそうはいない。それに、連中ときたら何でもかんでも高くふっかけようとするんだ。だから、あんたみたいのがいればいいな、と考えていた。つまり、あんたには通訳と交渉をやって欲しいんだ。」
「池田さん、あんたは実に運がいいよ。この俺ほど、そういう役割にうってつけの人間はいないよ。なぜなら、俺は射撃には自信があるし、拳銃にも詳しいんだ。
 俺は警官を襲って奪った拳銃を使っていたことがあるし、警察を相手に銃撃戦をやったこともある。拳銃のことなら何から何まで俺に任せてくれ。」
 もちろんこれは池田を信用させるための作り話だ。実際は自分が警官として拳銃を扱っていたのだから。だが、池田はルスランの作戦にまんまと引っ掛かり、満足そうな笑みを浮かべた。
「そうか、それは心強いな。じゃあ、拳銃を購入する準備にとりかかろうかな。いずれあんたには一緒に新潟に行ってもらうよ。」
「任せてくれ。粗悪な拳銃を高く売り付けられないように、しっかり交渉してやるよ。
 それにしても、どういう出どころの拳銃が日本に持ち込まれているんだろうか?池田さん、確かあんた一丁持っているって言ったよね。よかったら、近々それを俺に見せてくれないか?
 そうだな、あんたホテルの部屋を取ってくれよ。そのときに拳銃を持ってきて俺に見せてくれ。そのあと、あんたに俺の妻を会わせるよ。そのとき俺はどこかに消えてやるから。」
「何だって?本当にそんなことをしていいのか?」
池田は驚くと同時ににやけていた。ルスランは池田を完全に信用させるべく言った。 「かまわないよ。俺の言うことはなんだって聞く女だし、それに彼女は俺が仕事にありつけるためだったら、なんだってしてくれるからね。」
 数日後、ルスランは浜松町のホテルに池田を訪ねた。池田は約束どおりに自分の拳銃を持ってきていた。それは古くてしかも粗雑に扱われた拳銃らしく、精度がいいとは思えなかった。
 ルスランは指紋がつかないように布の上から拳銃を手に取り、軽く構えてみた。そして、相手がよく理解できないだろうことを承知で、英語に日本語そしてロシア語を交ぜて専門的なことを長々と説明した。池田はただただ感心してルスランの話に耳を傾けていた。
 拳銃を池田に返した後、ルスランは携帯電話をかけ、ロシア語で二言三言話をしてから池田に言った。
「妻が浜松町の駅についたらしい。彼女を迎えに行ってくるから、あんたはこの部屋で待っていてくれ。彼女はとびきりの美人だからね。だから楽しみにしていてくれ。」
 ルスランは部屋を出るとすばやくフロントに行き、英語で言った。
「六六三号室の客は拳銃を鞄に隠し持っているぞ。早く警察に通報しろ。」
 ホテルの従業員が半信半疑ながらも電話をかけるところを見届けると、ルスランは従業員が止めるのも聞かずにホテルの玄関を出ていった。そのまますぐには帰らず、ホテルから一〇〇メートルほど離れた建物の陰で様子を見守っていた。やがてホテルの前にパトカーが到着したのを確認すると、ルスランは喜々としてその場から立ち去った。
 池田はといえば、呼び鈴が鳴ったのでドアの向こうにはてっきりロシア美女が待っているものと思い、わくわくしながらドアを開けたところ、警察官がそこに立っていたのでひどく驚いた。当然のことながら、池田は拳銃所持の現行犯であっさりと逮捕されてしまった。
 アパートに帰る途中の電車の中で、ルスランは上機嫌だった。彼は最初から拳銃の密輸に加担するつもりなどさらさらなかったし、自分の妻を池田にあてがうつもりもなかった。すべては、拳銃所持の明らかな証拠を得るために策を弄したに過ぎない。自分が警官だったことを隠し、むしろ前科があることを教えたのも、相手を油断させるためだった。
 今回のことでは、日本の警察に貸しをつくってもやれた。真名に話したら、よくやったと喜んでくれるかもしれない。
 ところがこの段階になって初めて池田のことを聞かされた真名は、ルスランの予想に反して怒りだしたのだ。
「拳銃にはかかわって欲しくなかったわ。私があなたを拳銃で傷つけ、そのことでどんなに苦しんだか、あなただってよく知っているでしょう?もし、その男とあなたとの間でもめごとが起きたら、あなたはまた撃たれていたかもしれないのよ。そんなことになったら、あなたを日本に連れてきたばかりにそんな目にあわせてしまった、とまた罪悪感に悩まなければいけないところだったわ。
 それに、もしかしたらあなたも共犯とみなされて、警察に逮捕される可能性もあったのよ。今度は日本の刑務所に入れられるはめになったらどうするのよ?そもそもその男が拳銃の密輸に関わっているとわかった時点で、私に話してくれればよかったのよ。
 もう、これからは怪しい人とは関わらないで。ロシアと同様、日本でだって誰でも信用できるわけではないんだから。」
 そして、真名の予想は当たった。三日後、アパートに刑事が訪ねてきたのだ。
 池田がヴィタリーという名前のロシア人の男とは薬山競馬場で知り合ったと供述し、薬山競馬場の付近を巡回していた警官が、その前の日にロシア人の男に職務質問をしたことを覚えており、名前が異なるものの身体的特徴が一致したことから、ルスランの身元が判明したのだ。
 ルスランは疑いをかけられたと思って機嫌を損ね、一言も口をきかなかった。そこで真名が必死になってルスランの身の潔白を訴えた。
「彼はモスクワの警察官だったんです。ですから今度のことは正義感からしたことで、拳銃の密輸に関わるつもりはまったくなかったのです。」
「それだったら、浜松町のホテルから逃げ出したりしないで、我々の事情聴取を受けてくれればよかったんですよ。どういう意図で通報したのか、はっきり説明してくれればよかったんです。
 我々としては、ご主人が拳銃の密輸に関わった後、なんらかの理由で池田を裏切って通報した可能性があると考えました。池田も通報された恨みを晴らすためかもしれませんが、ご主人が密輸に関与したことを匂わせるようなことを言っていましたしね。
 そこで我々も調べてみたんですが、池田が所持していた拳銃を運んだと思われる、ウラジオストクからの貨物船が新潟に入港したのが、一二月一四日。池田が拳銃を手に入れたと供述した日が一九日。ご主人が日本に入国したのは、二二日。ですから、今回についてはご主人の関与の可能性はないものとの結論に達しました。
 それに、ご主人は自分の名前をはじめ、本当のことを何一つ教えていなかったのですから、多分本気で池田とかかわるつもりはなかったのでしょうね。だから、今回は簡単な事情聴取で結構です。
 まあ、池田という男には三件の恐喝の前科があるのですが、銃犯罪の捜査については今まで浮かんではこなかったので、そういう点ではご主人はお手柄でしたよ。」
「今後は不審な人間には関わらないように、彼を監督します。」
「しっかり監督してくださいよ、奥さん。」
 とりあえず今回はルスランの疑いを晴らすことができた。それにしてもルスランは困ったことをしてくれたものだ。警察に押しかけられるなんて。真名は大きくため息をついた。
 刑事は帰り際、思い出したように言った。
「なんでもご主人の射撃の腕はかなりのものらしいですね。池田にそう自慢していたそうです。それほどの腕を持った方が警察を辞めたなんてもったいないですね。それはやはり、奥さんと日本で暮らすためなんですか?」
 真名が返事をしないのを、刑事は不思議に思ったようだ。そんなことは話せるはずがなかった。このことを日本の警察が嗅ぎ付けて、何かあるたびにルスランに疑いをかけないといいが。ルスランについての真名の心配は当分続きそうだった。


第2章   同胞 春めいてきたある日、ルスランはお茶の水の大通りにいた。真名にロシア語の本が買えるからとすすめられてやってきたのだ。適当な本を三冊買った後、ルスランは駅に戻るつもりで信号が青に変わるのを待っていた。
横断歩道の向こう側でも大勢の人間が信号の変わるのを待っていたが、そのなかに茶色がかった金髪をした長身の女がいて、ルスランをじっと見つめていた。
やがて信号が青になりルスランは横断歩道を渡り始めたが、女の方はそのまま動かなかった。まるでルスランが自分のところに来るのを待っているかのようだった。女の顔を見てあることを予想したルスランは、思い切ってロシア語で話しかけてみた。
「こんにちわ。」
女は嬉しそうに答えた。
「こんにちわ。ああ、やっぱりあなた、ロシア人ね。そうじゃないかと思ったの。ここに何をしにきたの?。」 「本を買いに。」
「私は教会よ。この近くにロシア正教の教会があるのよ。ねえ、もしよかったらゆっくりお話ししない?。」
特に急ぐ用事もなかったことから、ルスランは女の誘いに乗り、二人は近くの喫茶店に入った。
「ルーシャです。二カ月前にモスクワからきたばかりだよ。」
「ナースチャよ。私は一年半前に日本の男性と結婚してこの国に来たのよ。私の出身はニージヌィ=ノヴゴロド。
ねえ、よかったらあなたがいたころのモスクワの様子、聞かせて。私、最近ロシアがとても懐かしくて。」
ルスランも話し相手ができるのは大歓迎だった。ルスランはそろそろ日本の生活に慣れてきたが、だからこそかえって彼もロシアが懐かしいと感じるようになってきたからだ。二人は電話番号を教え合った。
それからルスランはたびたびアナスタシヤから呼び出しをうけるようになった。アナスタシヤはルスランに心を開き、家庭の事情を話すようになっていた。ルスランの方は真名との生活に不満がなかったから、もっぱら聞き役にまわった。
「最近、私は主人に不信感を抱いているわ。出会ったころは彼のこと、とてもやさしい人かと思っていたけど。でもこのごろは、仕事が忙しいからって、ろくに私の話を聞いてくれないのよ。」
「日本では、仕事が忙しいふりをして夫としての役割を怠る男が多いんだって、マーナが言っていたな。」
「日本の男ってずるいわよね。夫としての役割をなんだと思っているのかしら?。あなたはそれが何だかわかっている?。」
「さあ、考えたことがないし、わからないな。」
「あなたはまだ新婚だから。年月がたって夫婦の危機を迎えると、そういうことを考えたりもするわ。
実はね、私、去年の年末に流産したの。とてもつらかったし、だからママに会いたくなってしまったわ。ロシアにも一度は帰りたいと思った。でも、主人は同意してくれないの。仕事が忙しいから、って言ってね。
私は彼の子供を産もうとして、あんなつらい目にあったのよ。私は妻としての役割を果たそうとした。だから彼だって、こういうときくらい私の願いをかなえてくれてもいいはずよ。それが夫としての役割よ。」
アナスタシヤの悩みが深刻なので、ルスランにもうまい解決方法が浮かばなかった。ただ、アナスタシヤを出来る限り慰めたかった。その方法を考えていると、アナスタシヤの方からこんなことを言い出した。
「ねえ、ルーシャ。気晴らしに遠出したいわ。お願いだから、どこかに連れていって。」
「どこがいいかな?。俺はまだ日本をよく知らないから。」
「景色のいいところならどこでもいいわよ。」
「じゃあ、マーナに聞いてみよう。彼女なら日本のことは詳しいよ。」 「今回は彼女抜きで行きましょう。彼女とは、次回ご一緒したいわ。」 そこでルスランは帰宅した後、アナスタシヤのことは詳しく説明しないまま、真名に尋ねた。 「東京の近くで、きみが外国人を連れていくのに一番いい場所だと思うところはどこかな?。」 「何故、そんなことを聞くの?。」 「いや、ちょっとある人に聞かれたから。」 「じゃあ、富士山がいいんじゃないかしら。」 「そこに行く方法を教えてほしい。」 真名は河口湖に行く交通手段を紙に書いてルスランに渡した。ルスランはそこに書かれているとおりに、アナスタシヤを河口湖に連れていった。彼女は子供のようにはしゃいでいた。 「ああ、これが富士山なのね。やっぱり素敵ねえ。」 「富士山を信仰の対象にする日本人もいるそうだよ。」 「それもわかるわ。こんなにきれいなんですものね。」 アナスタシヤの顔は晴れて明るくなり、それを見てルスランも、彼女を連れてきて本当によかったと思った。 ルスランは従姉のマリヤのことを思い出していた。ルスランをいつまでも子供扱いしていたマリヤだったが、ルスランの方も彼女が危なっかしそうに見えた。ついにマリヤのためには何もできなかったが、今回はアナスタシヤの役に立てそうだった。 ルスランは、夏になったらアナスタシヤの夫もロシアに行く気になるのではないかと考えていた。その頃になればロシアも気候が穏やかになるし、彼女の夫も夏の休暇がもらえるはずだからだ。だから、夏が近づいてきたらアナスタシヤにそう教えて、ロシア行きを実現させてやるつもりでいた。 それから四、五日たった夜のこと、ルスランは近所の店に酒を買いにでかけた。真名はアパートに残っていた。そのとき、ルスランの携帯電話が鳴った。 真名は少し迷ったものの、電話にでた。拳銃の密輸を企んでいた池田のような危険な人物と再び関わっていないかどうかが心配だったからだ。 「もしもし。」 「あら?。あの、これはルスランの電話ですよね。もしかして、奥さんですか。」 相手の女の日本語に訛りがあったので、真名はロシア語で答えた。 「ルスランは今ここにはいませんが、すぐに戻ってきます。あとで彼にかけ直させましょう。失礼ですが、お名前は?。ロシアの方ですよね?。」 相手の女は、依然として日本語で話し続けた。 「白井です。じゃあ、彼からの電話を待っていますから。」 そう言って相手はさっさと電話を切ってしまった。 一方真名の方は、電話の相手の様子が気になっていた。相手が真名に挑戦的な口ぶりだったからだ。真名が親切でロシア語を使ったのに、日本語で話し続けたのだ。 ルスランは間もなくアパートに戻ってきて、買ってきたビールを早速飲み始めた。真名は彼の向かい側に座った。 「ルーシャ。さっきあなたのところに白井と名乗る、ロシア人らしい女性から電話があったわよ。」 「白井?。もしかしてナースチャのことかも。」 ルスランは携帯電話の着信記録を確認した。 「確かにこれはナースチャからだ。」 「彼女はどういう人なの?。」 「日本人の妻になって東京の近くの街で暮らしている人だよ。」 「そんなことは日本人の姓を名乗ったからわかるわよ。あなたとはどういう知り合いなの?。ロシアにいたころから知っている人なの?。」 真名はルスランのすすめたビールには手をつけず、彼を凝視し続けた。 「こっちに来てから知り合ったんだ。ちょっと彼女の相談にのったりしているだけだよ。」 「どんな相談なの?。」 「それは言えないよ。いや、そうじゃなくて、ほら、例の富士山のことは彼女に質問されたんだ。そういう他愛のない話をしているだけだよ。」 「そういうことなら、彼女は自分の夫に聞けばいいのよ。何故、日本に来て間もないあなたにそういうことを質問するの?。何かおかしいわよ。 もしかしてあなた、彼女を河口湖に連れていったんじゃないでしょうね?。」 「まさか、そんなことないよ。」 「そうなのね?。うそはつかないで。だって、私に路線図を書かせたくらいだものね。」 真名に事実をするどく突かれたルスランは、慌てて言い訳をした。 「彼女が深刻な悩みを抱えていたから、彼女の気晴らしに付き合って慰めようとしただけなんだ。」 真名は大きく息を飲むと自分の部屋に行き、ルスランの目の前で鞄を取り出して着替えを詰め始めた。 「彼女に同情して一緒に旅行に行ったわけね。結婚三カ月で他の女と旅行に行くなんて、信じられないわ。」 真名の声には怒りがこもっていた。人妻たるアナスタシヤに対して真名がこれほど嫉妬するとは、ルスランは予想していなかった。 「きみが心配するようなことはなにもないよ。彼女は俺が同じロシア人だから信頼しているというだけなんだ。」 真名がすぐにでもアパートを出ていきかねない勢いだったので、ルスランは真名の手首をつかんで彼女の身体を壁に押し付け、自分の身体をその上に覆いかぶせた。 「あなたの顔なんか見たくもない。」 真名は必死でもがいたが、ルスランの身体はびくともしなかった。 「マーナ、落ち着いてくれよ。俺が軽率だった。」 「離してよ。」 「出ていかない、と約束してくれるまで離さない。モスクワでもそうだったけど、きみは興奮すると、すぐ俺を置いてどこかに飛び出していってしまうんだな。この日本できみに置き去りにされたら、俺はどうすればいいんだ?。」 ルスランは頑として動かなかったので、真名の方が根負けしてしまった。 「わかったわ。どこにも行かないから離して。」 ルスランは身体をどけた。真名は床に座り込み、気が高ぶって涙が込み上げてきた。ルスランは慌てて真名の身体を抱き締めた。 「マーナ、泣かないでくれ。俺が悪かった。許してほしい。」 「泣いたっていいじゃない。」 真名は涙声で叫んだ。すぐに気持ちを落ち着けるなんて、できそうになかった。 「人間はおかしいときは声をたてて笑うでしょ。怒ったときは怒鳴るじゃない。どうして悲しいときに泣いてはいけないの?。」 「だから謝っているじゃないか。」 「どうして私は気が済むまで泣いてはいけないの?。」 「きみが泣いているのを見ると、かわいそうでいたたまれなくなるからだ。」 「あなたが女の涙に弱いってことなの?。モスクワでもそうだったけど。」 「そうだよ。いや、違うよ。そんなものじゃないよ。 ローザが生きていたころ、彼女がときどき発作を起こして、ママ、苦しい、助けてって泣きながら言っているのをよく聞いていたんだ。だから泣いている女を見ると、本当につらそうに思えるんだ。 そういうわけで、女が泣くところはあまり見たくない。特にきみについてはなおさらだよ。」 それを聞いた真名は、嗚咽が漏れないように、ぐっと唾を飲み込んだ。 「とにかく、ナースチャと会うのはあと一回だけにする。だから、彼女のことについてはもう心配しなくてもいいからね。」 ルスランがアナスタシヤに電話をかけている間に、真名は涙を拭った。こんな話を聞いた以上、ルスランを苦しめたくはなかった。 その夜、ルスランは真名を求めてきた。愛の証しを刻み付けるかのように、ルスランは真名の頬に、唇に、首筋に口づけした。真名を不安がらせまいとするようにルスランは賢明に真名を愛し、そのため真名の心は和らいできた。 真名は落ち着いてくると、自分は何故あんなにも逆上したのだろう、と恥ずかしくなった。リュボーフィのことを聞かされていたからだろうか?。それもあるし、ルスランがロシアを懐かしんでいるからこそ、ロシア人の女に魅かれていったのではないか、という不安を抱いたということもあった。 真名は、アナスタシヤをルスランの友人として認めるべきではないだろうか、とも考えた。ルスランに対して、逆上したことの償いをしたかったのだ。しかし、ルスランの方は同情の気持ちしかなかったとしても、アナスタシヤの方でルスランに好意を持っていたら、と思うと、真名はついに何も言えなかった。 ルスランもまた、さまざまなことを思い悩んでいた。 死んだ姉のローザが泣いたのは、発作で苦しんでいるときだけではなかった。死ぬ一年ほど前から、ローザはルスランを前にして頻繁に嘆いたり泣いたりするようになった。 「ルーシャ、あんたはいいわね。どこにでも自由に行けるし、ママにスケートを教えてもらうこともできて。」 実際はソフィヤの指導は厳しくて、羨ましがられるようなことではないとルスランは思っていたのだが、ローザの言葉を否定することはできなかった。そして、ローザは涙を流した。自分が成人するまで生きられないことを、既に予感していたのかもしれない。 そんな姉をあわれに思っていたルスランだったが、当時単なる子供にすぎなかった彼は、ローザのために何もすることはできなかった。そしてそのうちにローザは、その短い生涯を終えてしまった。 ローザだけではない。従姉のマリヤにしても、そして今回のアナスタシヤにしても、彼女たちの悩み苦しむ姿を見ても、ルスランは何もしてやることができなかった。ルスランはそんな自分を歯がゆく思った。 しかし、真名については話が違う。自分の妻になってくれた真名については、何もしてやれないなどと悩んでいるわけにはいかないのだ。どんなことをしてでも彼女を幸せにしてやらなければならないし、守ってやらなければならない、とルスランは誓った。 二、三日して、ルスランは電話で約束したとおりにアナスタシヤと会った。 「きみが電話してきたおかげで、一緒に富士山を見にいったことが妻に知られてしまったよ、ナースチャ。」 「そう?。だってあなたの電話に奥さんがでるとは思わなかったから。何も言わずにきってしまえばよかったかしら?。でも、私たちはやましいことはなにもしていないのだし。」 「そうだよ。だけど、このことで彼女に涙を流させてしまった。俺が彼女に不信感を持たれてしまったんだ。だからもう、きみと会うわけにはいかないんだ。 同じロシア人として、きみを元気づけてあげたいという気持ちがあったのは確かだ。だけど、そのために妻に悲しい思いをさせるわけにはいかない。きみには申し訳ないけど、俺にとって一番大切なのは彼女だから。 もしかして、きみという友人ができたことを早いうちに話しておけば、彼女はここまで怒らなかったのかもしれない。でも、きみが彼女には自分の悩みを知られたくないかもしれないから、黙っていたんだ。彼女は自分の国に帰りたくても帰れない、という状況にいたことがないし、きみの気持ちをわかってやれないかもしれなかったからね。」 確かにこのこともあったが、ルスランが真名にアナスタシヤのことを話さなかった本当の理由は、アナスタシヤがもしかして自分に好意を寄せているのかもしれない、と感じていたことにあった。 「あなたはこの上もなく彼女を大切にしているようね。本当に彼女が羨ましいわ。むしろ妬ましいくらいよ。私も主人に大切にしてもらえた時期があったんだけどね。」 「それはね、きみが以前指摘したように、まだ新婚だからということだけではないんだ。少なくとも俺の方は、彼女に一生忠実でありたいと思っている。詳しくは話せないけど、彼女は命の恩人ですらあるんだ。彼女がいなかったら、俺はここでこうしていられなかったかもしれない。 それから、きみが帰国を望んでいる件だけど、夏になってきみのご主人が休暇をもらえるようになれば、多分一緒にロシアに行ってくれるのではないかなあ、と俺は考えている。だから、焦らずに根気よく彼を説得してみたらどうだろう?。 もし一緒に帰国してくれなかったら、きみのお母さんか姉妹に日本に来てもらってもいいんじゃないか。とにかく、永遠に帰国できないわけではないのだから、あまり嘆かないでほしい。 確かに、帰国したというきみの気持ちはわかるよ。俺もロシアがとても懐かしい。でも、きみも俺もこの国で暮らすことを選んだのだから、お互いに辛抱していこう。」 「あなたに会えなくなると、寂しくなるわね。」 アナスタシヤはすがるような目を向けたが、それを振り切ってルスランは彼女と別れた。 アナスタシヤには元気になってほしかった。しばらくの間ルスランは口には出さなかったが、彼女のことを案じ続けた。と同時に、アナスタシヤと会わないことにしたことで、ますますロシアが遠くなったように感じていた。


第3章   陰謀 ルスランに興味を持っている男がいた。真名と同じ部署で働く岡村である。岡村は何度かルスランのことを真名に尋ねてみたが、彼女は職場で私生活について話したくはないから、とはぐらかし続けた。 ところが、岡村にとって都合のよい展開になった。モスクワの国際原子力管理センターに勤務する広田が、一時帰国したのだ。岡村は以前いた部署の仕事の関係で、広田とは面識があった。そこで岡村は広田に連絡をいれ、居酒屋で会うことにした。 「広田さん、お久しぶりですね。このたびはご愁傷様でした。」 広田の帰国は、父の葬儀を行い相続の手続きをするためだった。 「どうです、久しぶりの日本は?。」 「ああ、やっぱり暖かいね。それから、桜が咲く時期に帰国できて、本当によかった。」 「今日はわたしがおごりますから、ゆっくり飲みましょう。モスクワの話を聞かせて下さい。」 岡村は資産家の息子だったが、次男だったので公務員になった。給料のほかに実家から毎月かなりの額の小遣いをもらっていて、気前がよかった。 広田はすすめられるままに酒を飲み、上機嫌になっていった。頃合いを見計らって岡村は一番聞きたかったこと、つまり真名のことを話題にもっていった。 「広田さんの以前の秘書だった大野さんは今、わたしと同じ部署にいますよ。てきぱきとした仕事ぶりで、わたしも感心しています。彼女がモスクワにいたころも、そうでしたか?。」 「まあな。でもあいつは私生活に問題があったんだ。」 「それはどんなことなんですか?。」 「彼女の悪口になるから、言わないよ。」 「そうですか?。大野さんの私生活と言えば、ロシアから連れてきた男と結婚したことと、何か関係があるんですか?。」 「なんだと?。」 広田はちょうど持ち上げようとしていたコップを取り落としかねないほど驚いた。 「本当か、岡村くん?。」 「本当ですよ。ご存じなかったんですか?。」 「いや、全然知らなかった。」 岡村はこのことを奇妙に思った。日本人がたった三人しかいない職場にいながら、真名は自分のことは一切広田たちに話さないようにしていたのだろうか?。 「じゃあ、広田さんは相手の男のことは全くご存じないんですか?。」 「いや、少しは知っているよ。だって結婚したとなれば、相手はあの男しかいないだろうからな。」 「その男にお会いになったことはないんですか?。」 「一応はあるが。」 「じゃあ、話して下さいよ。大野さんはその男については何も教えてくれないんですよ。ただ、うちの部署の女子職員が大野さんのアパートに押しかけて相手の男に会ってきて、とても素敵な人で羨ましい、って騒いでいましたけど。」 「当然、大野は話せるわけはないだろうな。特に、奴と知り合った理由についてはな。畜生、あの女、よくも俺を騙したな。」 広田の胸に、真名とルスランへの憎しみが蘇ってきた。 「これは俺から聞いたってことは内緒にして欲しいんだけどな。 大野の相手の男というのは、不祥事警官だったんだよ。奴がなぜ警察を辞めさせられたのかは、俺と大野がよく知っている。奴は虫の居所が悪かったからというそれだけの理由で、たまたま見かけた俺に殴る蹴るの乱暴をはたらいたんだ。大野もその現場にいたんだよ。」 「本当ですか?。なんだか信じられない話ですね。なぜ大野さんは、そんな男を好きになったんでしょうね?。」 「そんなのはわからない。自分を殺したか、あるいは強姦したかもしれない男に身を任せるなんて、あの女には自虐的嗜好でもあるんじゃないか。 とにかく、そんな目にあわされたから、俺はいまだに制服警官を見かけるたびにぞっとする。あのとき味わされた屈辱は忘れようとしても忘れられない。できれば奴に仕返ししたい、と思い続けてきた。 ほら、これは俺が襲われたときのことが書かれた新聞記事だ。」 広田は財布からロシア語で書かれた記事の切り抜きを取り出して、岡村に見せた。 「俺はその記事の内容は読めない。だが、奴が社会的制裁を受けたことが実感できて少しは溜飲が下がるような気がするから、その記事を持ち歩いているんだ。」 「広田さん、これはあとでコピーしてもいいですか?。」 「いいよ。ただしこのことは大野には秘密にしておいてくれ。」 ルスランを殺そうとしたことを公表する、と真名に脅かされていたことから、広田は口止めをしたのだ。 「俺はどこに住むかなんてこだわらないし、俺の研究は英語が使えればどこでだってできるから、給料されよければ地球上のどこに行ったってかまわない。でも、こんな目にあうと、さすがにつらいものがある。 なあ、岡村くん。なぜまじめに働いている俺がこんな屈辱を味わされて、あの許しがたい暴力警官がもてるんだろうね?。つくづく世の中は不公平にできているよ。」 「わかりますよ、広田さんの気持ち。」 「本当にわかってくれるかい?。嬉しいね。こんな話ができるのも、日本でだけだな。」 岡村を相手に感情を吐露した広田は、やがて上機嫌でモスクワに戻っていった。一方、岡村の方も思い掛けぬ情報を手に入れて喜んでいた。真名の夫の過去を知ったことにより、岡村の頭のなかである考えが浮かんでいた。 岡村は、同じ部署にいる三浦という女に、真名の夫に会いにいこうと誘った。三浦もルスランがどんな男か興味を持っていたから、すぐに同意した。岡村は、三浦に訪問の約束を取り付けさせた。 週末、岡村は三浦とともに真名たちのアパートを訪ねた。 「初めまして。大野さんの職場の友人の三浦と言います。」 「同じく、岡村です。」 岡村は名刺をルスランに渡し、親しげに英語で話しかけた。 「日本語はだいぶ覚えましたか?。」 「そうですね、こんなに複雑だとは思いませんでした。苦労しています。」 三浦はともかく、岡村もやってきたことに真名は当惑していた。 「大野さんがご主人のことを全然教えてくれないから、思い切ってお邪魔しました。」 岡村は不自然なほど愛想がよかった。一体この男は何を考えているのだろう、と真名は不安になった。岡村は一度はルスランを侮辱したのだ。だからといって、それだけで真名は岡村がルスランに近づくのをやめさせるわけにはいかなかった。 一方ルスランは、真名の職場の人間ならば問題ないだろう、と岡村に気を許していた。池田のときとは異なり、ルスランは岡村についてはなにか企んでいることを見抜けなかった。 次の週末も岡村はルスランを訪ね、自分のアパートに泊まりにくるように誘った。そして本当にルスランがやってくると、岡村は酒や軽食を用意してルスランをもてなした。 「ルスランさんはもう日本には慣れましたが?。」 「はい。確かに、いろいろな面で便利な国ですね。」 「そうですか、それならいいんですけど。 実は日本人というのは島国根性を持ち合わせていて、なかなか外国人を受け入れようとはしないんです。だからあなたがこの国に馴染めるかどうかが、ひとごとながら心配だったんですよ。こんなよそよそしい国民の間で暮らしていこうとするなんて、これからも大変ですよ。」 とりあえず岡村は表向きは親切そうにしながらも、彼がロシアにもどりたくなるように仕向けた。岡村がルスランに近づいた目的はこれだったのだ。 やがてルスランがひどく酔ってきた頃を見計らって、岡村はさりげなく尋ねた。 「ルスランさんは、どうやって大野さんと知り合ったんですか?。」 「モスクワのとあるカフェで、偶然彼女を見かけたんです。すぐに彼女の連絡先を教えてもらいました。」 事件のことを話すことは真名に禁止されていたので、ルスランはこういう返事を用意していた。 「つまり、出会ってすぐに親しくなったんですね。それで、結婚を申し込んだのはどれくらいたってからなんですか?。」 「そうだなあ、知り合ってからわずか一カ月くらいあとだな。われながら随分急いだものだとは思うけど、彼女に帰国の話が持ち上がったものだから。」 「それで、彼女はすぐに承諾してくれましたか?。」 「日本に来てくれるならいい、という返事を貰うことができました。」 「そうですか。じゃあ、すぐに承知してもらえたんですね。 実は、大野さんはモスクワの原子力管理センターの広田さんの恋人だったってうわさを聞いたことがあります。だから、大野さんは広田さんと結婚するのかなあ、と思っていたんですがね。多分、うわさが間違っていたんでしょう。」 岡村はなんでもないことのようにさりげなく言ったが、それを聞いてルスランは口数が少なくなってしまった。 ルスランはモスクワで広田を暴行したような男だから、今度は嫉妬から真名に暴力をふるうようになるだろう。そして二人の夫婦仲は冷え、ルスランは帰国する気になるかもしれない、と岡村は企んだのだ。どうせルスランを嫉妬させるなら、彼が少しは知っている男の方が効果があるだろう、とも岡村は計算した。 少したって、ルスランは部屋の隅で自分の携帯電話を使って真名に電話をかけた。 「俺がモスクワで暴行したあの男はきみの恋人だったのか?。どうなんだ?。」 あまりにも唐突な質問の内容に困惑した真名は、とっさには答えられなかった。 「なぜ、そんなことを聞くの?。」 真名がすぐに否定しなかったことから、ルスランは岡村の話は本当なのだと考えた。 「だから、奴は俺ときみを別れさせようとしたのか。畜生、あの男、本当に殺してやればよかった。」 「ルーシャ、そんなことを言ってはだめ。どうか私の話を聞いて。」 だが、ルスランはさっさと電話をきってしまった。 そのままルスランは岡村のアパートに泊まったが、なかなか眠れなかった。自分は何のために日本に来たのだろう、とルスランは情けなさを感じた。日本に来てしまったからこそ、できれば知りたくはなかった真名の過去の男のことを知ってしまった。真名と広田が恋人同士でいる姿が具体的に脳裏に浮かんできて、ルスランは苛立ちを覚えた。真名がひどく憎らしかった。 翌朝になりルスランは思い切って岡村に頼んだ。 「しばらく彼女とは距離をおきたいんです。申し訳ないんですが、俺を当分ここにおいてくれませんか?。この国ではあなたしか頼れる人がいないんです。」 「それは、大野さんの昔の恋人のことを気にしているからですか?。すいませんね、ルスランさん。俺がうっかり余計なことを言ったばっかりに。でも昨夜も言いましたが、うわさが本当かどうかはわからないんですよ。だから、大野さんにきちんと確認してみてはいかがですか?。」 いったん広田のことを吹き込まれてみると、ルスランには事件のとき、真名は広田のために必死だったように思われてきたのであった。岡村もまた広田からもらった新聞記事の内容は読めなかったし、だから真名がルスランを撃ったことも知らなかった。岡村の吹き込んだでたらめは、彼が予想した以上の効果をルスランに及ぼしたのだ。 「確認なんかする必要はありません。多分、それで間違いありませんから。」 「それでしたら、気のすむまでここにいて結構ですよ。俺にも責任がありますし。あなたが当分帰らないことは、一応大野さんに話しておきましょうか?。」 「そんなことはしなくてもいいです。」 岡村は思わぬ展開に当惑していた。ルスランはさっさと真名のところに帰って彼女を責め立てるかわりに、よりにもよって自分のところに居座ると言い出したのだから。 確かに以前のルスランは、かっとして暴力をふるうことがときどきあったが、彼は女に対して手をあげたことはなかった。この点は岡村の誤算だった。 夕方になって岡村は、ちょっとした用があるから、と外出した。彼は次の手を打つべく、沙織という名前の若い女を近所の喫茶店に呼び出しておいた。 沙織は岡村のかつての恋人の妹だった。岡村は沙織とは二、三度関係をもったことはあるが、どちらかというと二人は友人だった。時間を持て余すと岡村は沙織を誘って飲みにいくことがしばしばあった。沙織の方も自分の恋人に対して不満を抱いたりすると、岡村に愚痴をこぼしたりしていた。 「沙織にちょっかいを出してほしい外国人の男がいるんだが。」 「外国人?。どこの奴?。」 「ロシアだ。」 「ロシア?。へえ、珍しいわね。」 「うまく奴をおとせたら、成功報酬として三万円やろう。たまには毛色の変わったのを相手にするのもいいんじゃないか。」 「おもしろそうね。その話、引き受けてもいいわよ。それにしても、何故そんなことを頼むの?。」 「俺は奴の妻をいつかは手に入れたいんだ。去年の秋、彼女が俺のいる部署に配転になって、彼女のことを気に入ったと思ったら、その三週間後には別の男と結婚しちまったんだ。 ただ、相手の男の過去を調べてみたところ、どうやら少しつつけば二人の仲を裂いてやれると確信した。だから俺はいろいろと手段を講じている。あんな奴にはさっさと自分の国に帰ってもらいたいんだ。 奴がきみに溺れて夫婦仲が壊れればそれでもよし、そうでなくても、一度きみたちが関係を持てば、それを利用して奴の妻に揺さぶりをかけてやることができる。だから、きみには役に立ってほしいんだ。」 「わかったわ。協力してあげる。」 「奴は今、俺のアパートにいる。今夜は深夜まで帰らないようにするから、きみにはすぐに奴のところへ行ってもらおう。」 沙織は指示どおりに岡村のアパートへ行った。ルスランがドアを開けて彼女を部屋に通したが、突然の訪問客に困惑した。どうやらこの女は岡村の恋人らしいから、岡村が帰宅したら、自分はここから出ていかなければならないかもしれない。しかし、ルスランはまだ真名のところに戻る気にはならなかった。 しばらく二人は向かい合わせのまま無言で座っていた。やがて沙織は苛立たしそうに英語で言った。 「岡村さん、遅いわね。退屈しちゃうわ。」 そして沙織はルスランの隣に移り、身体をもたれさせた。 「岡村さんに悪いよ。」 「私の姉が彼の恋人なの。だから私は何をしようと構わないのよ。」 それを聞き、ルスランは沙織の身体を押し倒した。真名への苛立ちから、投げやりな気持ちになっていた。 そのとき玄関の呼び鈴が鳴った。沙織は放っておくように言ったが、ルスランはドアを開けにいった。もしかして、岡村が鍵を忘れたか落としたのかもしれないと考えたのだ。 ドアの外には、意外なことに真名が立っていた。夕方になっても帰らないルスランを心配して、真名は彼を迎えに来たのだ。 ルスランが広田のことでおかしなことを言い出したことから、真名は岡村がルスランに対し、広田についてなにか吹き込んだことに察しをつけていた。そこで真名は以前岡村と同じ部署にいた職員に電話をし、岡村と広田が顔見知りだったことを昼間のうちに確認しておいた。 真名は岡村に抗議するつもりで、尋ねた 「岡村さんはいるかしら?。」 「まだ帰っていない。」 女と二人きりでいることを悟られないように、ルスランはあえて無表情を装った。それが真名には、ルスランがあくまでも自分と広田との関係を疑い続けているという印象を与えた。 「ルーシャ、私の話を聞いて。私は広田さんと恋人同士だったことはないのよ。」 それでもルスランは表情を変えなかったので、真名は彼を睨みつけた。 「私が信じられないというなら、離婚してあげるわよ。だから、あなたはさっさとロシアに帰ればいい。あなたの居場所は、こんなところではないはずよ。」 真名は怒ってその場を立ち去り、ルスランは沙織のところに戻った。さきほどの続きをすべく、沙織はルスランの服を脱がせにかかったが、彼は上の空だった。真名が実際に離婚という言葉を出してきたことに、ルスランは動揺し始めていた。ルスランは自分が真名とまったく別れる気がないことを改めて実感した。 さきほど自分を睨みつけた真名の目が、ルスランの脳裏から消えなかった。自分が今やっていることを真名に非難されているような気がし、ルスランは不安にすらなった。 結局、ルスランは女の身体の中に入ることはできなかった。満足を得られなかった沙織はふて腐れてさっさと帰ってしまったが、ルスランはもはや彼女のことはどうでもよかった。真名を裏切ることにならなくて、かえってよかったと思ったくらいだった。 沙織は携帯電話で岡村を呼び出し、事の次第を報告した。 「もう少しというところまで漕ぎ着けたのよ。でも、肝心なところであの男は役に立たなかったわ。」 「そうか、じゃあ二万円やるよ。」 「途中であの男の奥さんらしいのが来たわよ。それでうまくいかなかったのよ。二人が何を話していたのかは、ロシア語だったからわからなかったけど。ただ、岡村さんと、あと広田って人の名前だけは聞き取れたわ。」 いまいましそうにしていた沙織も、岡村から金を受け取り機嫌を直して帰っていった。 翌朝、ルスランは礼を述べて岡村のアパートから出て行った。 その日出勤した真名は岡村と二人で話す機会を狙っていたが、職場では他の職員に話を聞かれるおそれがあったので困っていた。もう一度岡村のアパートまで行ってみようとも思ったが、ルスランから帰宅したとの電話が入ったので、自分のアパートに飛んで帰った。 「マーナ、すまなかった。きみを信じることにしたよ。」 「信じてよ。だって本当に私は広田さんを愛したことなんかないんだから。」 「本当かどうかはともかく、それから過去のことかどうかもともかく、きみが他の男を愛したのかもしれない、と考えるだけでとても苦しかった。こんな思いはもうしたくない。だからきみの言葉を信じることにしたし、きみの過去にもこだわらないようにするよ。 俺のことを許してくれるだろうか?。」 「許すわよ。だってお互いさまだもの。ほら、スモーレンスカヤ通りであなたが警察に連れていかれたときのことがあったでしょう?。」 「あの頃はもう、リューバなんてどうでもよかったのに。」 「でもね、過去のことでも苦しむことはあるのよ。今、あなたがそう言ったじゃない?。」 ルスランがよりにもよって広田と自分の関係を疑ったことに、真名は腹を立てていた。それと同時に、これは自分では認めたくはなかったが、真名は嫉妬されたことに喜びすら感じていた。 今までリュボーフィやアナスタシヤのことで嫉妬してきたから、真名にはその苦しみはよくわかっていた。それでもなお、嫉妬されることで自分が彼に愛されていることを改めて実感できて、嬉しかった。 もっとも真名はそのことには触れなかった。ルスランの苦しみに喜びを感じた自分に後ろめたさを感じ、だからこそ一層、自分のところに戻ってきた彼をやさしく受け入れた。 しかし真名は岡村を許すことはできず、次の日の夕方に再び岡村のアパートに行った。岡村の方も真名が来るのを待っているかのようだった。 「よく来たね、大野さん。ま、あがって。」 「ここで結構よ。」 「でもねえ、玄関で話をされると隣に聞こえるんだよね。」 「そんなことを言える立場なの?。本当は夫がお世話になりました、ってお礼を言うべきなんだろうけど、私は抗議しに来たのよ。 よくも彼にでたらめを吹き込んでくれたわね。一体なんのつもりなの?。それに、広田さん対しても失礼じゃない。」 「あの男には苦労させられるだろう。早くロシアに帰ってもらえばいい。きみなら、ほかにもいい人がすぐに見つかるよ。」 「大きなお世話もいいところだわ。そもそも何の権利があってそんなことが言えるのよ?。」 「俺はきみのためを思って言っているんだよ。きみはあの男を本当に愛しているのか?。」 岡村は広田からもらった新聞記事のコピーを真名に見せた。内容を読んだ真名の顔色が変わった。 「なにこれ?。どうしてこんなものを岡村さんが持っているの?。誰にこのことを聞いたの?。」 「こんな男と一緒になって、幸せになれるわけがない。だからきみが心配だよ。」 「もしかして、広田さんから聞いたのね?。広田さんもひどいわ、こんなものを渡すなんて。そんなにルスランが憎いの?。」 「俺は逆に、なぜこんな男を好きになったのかを聞きたいよ。」 「そんなことは、岡村さんに話す必要はないわ。私はなにもかも承知で彼を日本に連れてきたのよ。なにがあろうと、彼をロシアに追い返したりしないわ。絶対によ。」 なかなか自分の思いどおりになろうとしない真名に、岡村は苛立ちを感じ始めた。 「大野さんはさ、ああいう男と結婚して羨ましいなんて女子職員の間では言われているけど、このことを庁内で公表したらだれもそんなことを言わなくなるだろう。日本人を暴行した元警官なんて、みんな怖がるだろうからね。」 「公表ですって?。私の前科じゃないのに、なぜ私の職場で公表するの?。卑怯だわ。」 真名は岡村を激しく睨みつけたが、岡村は平然としていた。 「幸い、新聞記事という確かな証拠があるからね。みんな信用するだろう。もし公表されたくなければ、奴にロシアに帰ってもらいなよ。」 「そんなことをしたら、お返しに広田さんの秘密を公表するわよ。」 「なんだよ、秘密って?。本当に広田さんと関係ができていたのか?。」 「違うわよ。公表されると広田さんだけが困る秘密よ。この秘密を公表して、私がそんなことをしたのは岡村さんのせいだって広田さんに言ってやるわ。さぞかし広田さんは岡村さんを恨むでしょうね。あの人は本当に執念深いんだから。 嘘だと思うなら、広田さんに聞いてみなさいよ。大野に弱みを握られていますか、って。広田さんは絶対に否定できないわよ。今、モスクワは三時前。広田さんはスモーレンスカヤ通りの事務所にいるはずよ。さあ、電話番号を教えてあげるから、すぐにでも広田さんに電話して聞いてみなさいよ。」 真名は脅迫などしている自分が薄汚れた犯罪者のように思われた。なぜ、モスクワでのみならず今回もこんなことを言わなければならないのか、と情けなかった。それでもルスランを守るために、真名は必死だった。 一方、岡村はこの件について広田に口止めされていたことを思いだし、真名が秘密を握っているというのは本当かもしれない、と考えた。さすがの岡村も、広田をこれ以上巻き込むことはできないと悟った。 「わかったよ。このことはもう二度と言わないでやるよ。ただ、あんたらもこのまま仲直りってわけにはいかないだろうな。昨夜、奴はきみには何も言わなかったんだろう?。」 岡村は真名の顔色をさぐりながら、皮肉な笑いを浮かべた。 「一昨日の夜、俺の知り合いの女がここに来たんだ。奴と何時間か、二人きりでいたらしいよ。俺の言いたいことがわかるよな?。それで気が済んだから、奴はあんたのところに帰る気になったんじゃないのか?。」 「それもどうせでたらめなんでしょう?。私は騙されないわよ。」 「でも、きみも一昨日ここに来たことを彼女は知っていたよ。」 真名はかろうじて平静さを装いながら岡村のアパートをあとにしたが、心の中では大きな衝撃を受けていた。 そのままルスランの顔を見れば、彼を激しく問い詰めてしまうことは間違いがなかった。真名は気を静めるために、深夜まで営業している喫茶店に入った。 自分はどうしたらいいのだろうか?。事実を確かめることが賢いやり方でないことはわかっていた。ルスランとは仲直りをしたばかりなのだ。 そうは言っても、素知らぬ顔でルスランと仲良く暮らしていけるかというと、それも真名には難しいような気がした。もし本当に過ちがあったのなら、どうしたって彼を許すことはできなかった。 真名は悩み続けたが、もし本当にルスランが岡村の知り合いの女と関係を持ったとしても、一回だけの過ちのためにモスクワに帰れというわけにはいかない、という結論に達した。モスクワに帰ってもルスランには、少なくともしばらくの間は住むところも仕事もないのだ。そんな彼を追い返すような無責任な真似は、真名にはできなかった。だから真名はこの件には触れないまま、ルスランのところに戻ることに決めた。 真名は自分に冷静になるよう言い聞かせながら帰宅の途についた。すでに時刻は深夜に近かった。 「随分遅かったね。心配したんだよ。仕事が長引いていたのか?。」 真名を出迎えたルスランの声はやさしかったが、真名にはそれが過ちを犯したことによる後ろめたさからきているように思われた。岡村の陰謀は予想通りの効果を真名に及ぼしたのだ。 「ルーシャ、一昨日の夜。」 「なに?。」 尋ねてはならないと思いながらも、真名は自分の不安を押さえられなくなった。 「一昨日の夜、女の人と会ったんでしょう?。」 「彼女とは少し話をしただけだ。」 真名を安心させるためにも多少の嘘はやむを得まい、とルスランは思った。しかし、一昨日の夜、真名が現れなかったら自分はあの女と最後までいったかもしれないことから、ルスランも動揺を隠しきれなかった。 一方真名はルスランのそういうわずかな心の動きさえ感じ取ってしまい、一層の不安に襲われた。真名の目に涙が浮かんできたのに気づいたルスランは、慌てて言った。 「きみを裏切るようなことはしていない。信じてくれ。」 過ちがあったとルスランに認めてもらいたくはない。しかし、過ちがなかったと否定されても、真名にはその言葉も信じられなかった。 ルスランはなだめるべく真名の身体を抱き寄せたが、かえって彼女は激しく泣き出した。岡村の口から真名にどういう説明がなされたかわからず、ルスランはもはや何も言えなくなってしまった。 ルスランの胸の中で、真名は泣きじゃくった。次から次へと涙があふれ、真名はそれを止めることができなかった。そんな真名をルスランは苦り切った顔で抱きしめていた。


第4章   約束 梅雨に入り雨の日が続いたある日のこと、ルスランが一人の若い男をアパートに連れてきた。若林新という、ロシア語を専攻している大学院生だった。ルスランの友人としてはこれ以上の最適な人間はいないだろう、と真名は感心した。 「どこで知り合ったの?。」 「ルーシャが俺の働く店に来たんです。ロシアの方だと思ったので、俺が話しかけてみたんですよ。」 ルスランに近づいてくる人間に悩まされ続けた真名だったが、新は素直で裏のなさそうな男のように思えたので、真名はとりあえず安心した。真名が仕事に出掛けている昼間、ルスランは新とたびたび会っているようだった。 ルスランの過ちを疑ったあの夜からしばらくの間、真名は彼を避けていたが、時間がたつにつれて彼を許す気になっていった。一方、あれから岡村は二度とルスランに会いにこなかったし、職場でも真名とは必要最低限しか口をきかなかった。もう岡村は二人に嫌がらせをしてくる気配はなかった。 ルスランとの生活に平和を取り戻したある日、真名は新からこんな話を持ちかけられた。 「滝沢美紀という推理作家がいるんですが、ご存じですか?。今度、モスクワのマフィアを扱った作品を書こうとしているらしいですが、彼女がルーシャのことを知って、是非とも彼から警官時代の体験を聞きたいと言ってきました。どうしますか?。」 「ルーシャ本人が同意するならいいんじゃないの。」 「同意していますよ。ただ彼は真名さんの承諾も必要だと言っていました。あとで真名さんを怒らせたくはないそうですよ。」 そこでルスランは新を通訳に伴って、その推理作家が所有する那須の別荘に行くことになった。約束の日、ルスランは朝早くからアパートを出た。新が通訳として同行してくれるものの、真名はまだ小さい息子を旅に出すような寂しさを覚えた。 夜になってルスランが帰宅すると、真名は尋ねた。 「どうだった?。」 「きみには聞かせられないようなモスクワの暗部についてたくさん話してきたので、疲れた。でも、今日行ったところは景色のいいところだったよ。牧場があって、久しぶりに馬に乗せてもらった。今度はきみといっしょに行きたいね。」 「それなら、夏の休暇がとれたら北海道に行こうかと思っているのよ。広い牧場があって気候がロシアに似ているし、仕事で来ているロシア人がたくさんいるのよ。」 「それはいいね。楽しみにしているよ、マーナ。」 ルスランは嬉しそうに真名の顔を見た。真名も自分が彼に笑顔を向けたのが久しぶりであることに気づいた。 「この間はきみを悲しませて本当にすまなかった。でも、どうやら俺のことを許してくれたみたいだな。そう思ってもいいね?。」 「ええ。もう気にしないわよ。」 「よかった。きみに恨まれるのは本当につらかったから。」 それから半月ほどたって作家の滝沢美紀から電話があり、ルスランでなく真名に、都内にある彼女の仕事場に来てもらいたいと言ってきた。仕事が終わってから真名は言われたとおりに、彼女が仕事場にしているアパートに立ち寄った。 「ああ、奥さん。わざわざ足を運んでいただいてすみませんね。」 「いいえ。先日は夫がお世話になりました。」 「ご主人の話はとても興味深いものが多かったです。参考になりました。是非ともいい作品を書きたいです。 それから、せっかく那須まで来ていただいたから、別荘の近くにある牧場に案内したんですが、彼は昔は随分馬を乗り回したようですね。この間もとても楽しそうに乗っていました。これはそのときの様子を撮ったんです。」 美紀は十数枚の写真を真名に渡した。 「わざわざすみません。何とお礼を言ったらいいか。」 「だったら、お礼の代わりに、あなたと彼の出会いや結婚を決意した経緯を話してくれるかしら?。」 美紀が探るような視線をこちらに向けた。この女は意外と不躾ではないだろうか。真名は少し迷ってから答えた。 「私と彼が出会って結婚するまでには、文字通り血も涙も流してきました。興味本位で私たちを見てもらいたくはありません。」 「それはそうでしょうね。周囲の反対もあっただろうし。でもね、私は興味本位で質問したわけではないの。きちんとした理由があるのよ。 それなら、ルーシャが新くんとどうやって知り合ったか、知っている?。」 「大体は聞きました。」 「新くんのお父さんはモデルガンの店をやっているのよ。作品を書くときに銃の知識が必要となることがあるから、私は今まで若林さんにいろいろと協力してもらっていたのよ。それで今回、モスクワで警察官をしていた男がいるって教えてもらったわ。 それで、そもそもルーシャが若林さんの店に来た理由はね、日本では本当に拳銃の所持が許されないのかを確かめたかったらしいのよ。新くんとは言葉が通じることがわかって、そういう質問を彼にしたらしいのね。 ルーシャは射撃を教える仕事が日本で得られないものか、もし無理でも自分が射撃の練習をすることができないのか、と考えたんだって。 当然、彼の望むようなことは無理なんだけど。でも、ルーシャがもう少し日本語を覚えたら、若林さんの店で働かないかという話がでたのよ。 新くんはルーシャにとっても惚れ込んでいるわよ。それに若林さんもルーシャの経歴をおもしろがっているしね。彼はモスクワの警官のなかでもかなりの射撃の腕だったってね。それに彼はロシアで兵役を務めたことがあるし、お店のお客さんでそういう話を喜んで聞きたがる人も多いみたい。 ルーシャにとってはとても運のいい話だと思う。でも、あなたが以前、彼に拳銃には関わるな、ってこっぴどく叱ったらしいから、彼は迷っているわよ。それを聞いて私は、モデルガンくらい大したことないじゃない、って笑い飛ばしたわ。 でも、事はもっと深刻みたいね。モデルガンを扱うことそのものじゃなくて、ルーシャが拳銃を撃ってみたいと考えたこと自体がまずいみたいね。新くんはその辺の事情を知っているようだけど。」 それはつまり、ルスランが自分の起こした傷害事件のことを新に話してしまったということなのだろうか。真名は、二人が自分の考えている以上に心を許しあっていることに気づいた。 「ねえ、ルーシャはかつて警官として日常的に拳銃を扱っていたのよ。そんな彼に、拳銃に関わるなとまでいうのは何故なの?。あなたたち二人の過去に何かあったのかしら?。そこで、あなたと話がしたいと思ったわけ。 そういえば血を流したって言っていたけど、彼の足が悪いのは拳銃で撃たれたからなの?。でも、ルーシャ本人は拳銃に接することは平気らしいから、多分、あなたの方に理由があるのかしら?。もしかしてあなたが拳銃で撃たれたことがあるの?。モスクワって、結構危険なところがあるみたいだものね。そこを警官だったルーシャに助けられ、それが二人の出会いになった、とか?。 それなら仕方ないわね。ただ、ルーシャは自ら行動して自分の役割を求め、日本に根を下ろそうとしているのよ。あなたとこれからも一緒に暮らしていくためになのよ。若林さんの申し出を受けてあげたら。彼はまだ若いのよ。日本での毎日を無為に過ごさせるのはかわいそうだわ。それだと、ロシアが懐かしくなるのも無理はないわよ。 私としても、ルーシャには日本にいてほしいわ。だって、また何か参考になる話を聞かせてもらいたいもの。」 何がルーシャだ、なれなれしい、と真名は思った。 「彼が日本語を覚えたら、仕事を探してあげようと思っていましたから、滝沢さん。なにも、一生飼い殺しにするつもりで彼を日本に連れてきたわけではありません。」 「それはもっともだわ。でも、ルーシャの考えにも耳を傾けてあげたら。自分の価値観のなかに彼を押し込めるのはよくないことよ。 新くんだって、そもそもロシア軍の戦闘機にあこがれてロシア語の勉強をするようになったんだって。男はこういうものが本当に好きなんだから。だからその辺は寛大になってあげなさいよ。 きついことを言ってしまったわね。ごめんなさい。でもね、相手を理解しようという努力をしないと、夫婦の仲は長続きしないわよ。離婚経験のある私が言うんだから、間違いはないわ。だからルーシャと話し合って、彼が何を望んでいるか理解してあげて。そして彼に自信を持たせてあげて。 私のでしゃばりを許してくれるかしら?。多分、私は奥さんにはすっかり嫌われてしまったでしょうね。」 「本当に、必要のないご配慮でしたわ。若林さんのところで働く件についてはルスランが私に話してくれれば、私としては頭ごなしに反対するつもりはありませんでしたから。」 「でもねえ、ルーシャはあなたにひどく気を使っているようだったから、彼が気の毒だったの。」 真名はすぐにそこから立ち去った。重い足取りでアパートに帰ると、ルスランはいなかった。それを幸い、真名は自分の部屋の暗闇の中で泣き出してしまった。さまざまな思いから、涙があふれた。 美紀の差し出がましい忠告がひどく苛立った。見ず知らずの女によって夫婦仲に口出しされることは、なんと腹立たしいものだろうか。売れている作家だと聞いたが、きっといつでも自分の意見を押し通せるものだと思い上がっているに違いない、と真名は思った。 それにしても、何故自分はルスランと関わる女たちに次々と悩まされないといけないのだろうか?。 そして、ルスランが事件のことを新に話したらしいことにも衝撃を覚えた。この国でルスランが頼りにするのは自分一人だと思っていたのに、真名の知らないところでルスランには心を許す人間ができてしまった。真名は女たちに対するのとはまた別の意味で、新が妬ましかった。 さらに真名は、ルスランが再び拳銃を撃てるようになりたい、と考えたことも悲しかった。ルスランが警官としての自分に誇りを持っていたことはとっくにわかっていたが、そもそも彼の警官としての人生を終える遠因をつくったのは、ほかならぬ自分なのだ。 もし事件の夜、自分が広田などに送ってもらわずさっさと一人で帰宅していたら、ルスランと広田がカメンスカヤ通りの現場で顔をあわせることもなく、そして彼が警察を辞めさせられることもなかったはずだ。真名は自分が情けなくなった。 しばらくすすり泣いていると、ルスランがアパートに帰ってきてしまった。真名は泣き声をたてるのをやめ、暗闇の中で息をひそめた。泣いた痕跡が消えるまで、ルスランが自分に気づかないことを祈った。しかしルスランは、真名の部屋に入ってきてしまった。 「マーナ、帰ってきているんだろう?。一体何をやっているんだ?。」 ルスランは部屋の明かりをつけたが、真名の目が赤いことにはすぐに気づいた。 「また泣いていたのか?。何があったんだ?。」 「新さんのところで働くという話を聞いたんだけど。」 やっとの思いで真名がそこまで言うと、ルスランは声を荒げた。 「泣くほどいやなのか?。だったら断るよ。俺はきみを悲しませるだけなんだな。」 ルスランはひどく機嫌を損ねて部屋から出ていった。真名は再び泣き出したい衝動にかられた。こんなことが続いてルスランが自分に愛想をつかし、ロシアに帰る気になってしまったらどうしよう?。 その数日後、新から真名のところに電話がかかってきた。 「今度の土曜日の夕方に、お宅にお邪魔してもいいですか?。」 真名はすぐに承諾した。新の父親の店でルスランを働かせてもらう件について、一度詳しく聞いておかなければ、と考えていたからだ。 真名が泣いていたことでルスランは本当に怒ったらしく、ここ数日は彼女に対しても無愛想だった。だからこの話をすすめることによってルスランに機嫌を直してもらいたかった。 約束の日時に新がやってきたときは雨が降っていて、ルスランもアパートにいた。 「なんでも俺のことが原因で、真名さんたちの仲をぎくしゃくさせたようですね。だから責任を感じて謝罪に来ました。実は、ルーシャが俺の父親の経営している店で働くことを断ってきたんです。真名さんがこのことを知ってひどく悲しんだからだそうです。」 「それは違うわ。その件についてはすでに滝沢さんから聞いたのだけど、私としては認めてもいいと思っているの。」 「そうですか。真名さんもあの人にお会いになったんですか。 彼女が自分の作品で拳銃のことを書くときに俺の父がいろいろと資料を用意してやったりして、あの人とは深いつきあいがあるんです。そういうわけで彼女も遠慮なくルーシャのことをいろいろと聞いてきたんですよ。だから滝沢さんは真名さんと会う気になったんでしょうね。 それで真名さんとしては、ルーシャがうちのような店で働くことは、本当にお嫌なんですか?。」 「いいえ。彼がそれを望んでいるなら、私が反対することではないもの。」 「でも、この話を聞いてお泣きになったことは事実なんですよね。 実はルーシャは前々から俺に相談というか、愚痴をこぼしていました。彼の悩みは二つです。まず一つは、自分が日本になじめるかどうかということ。もう一つは、真名さんが自分と結婚したことは幸せではなかったのか、ということです。 今日はルーシャのためにも、真名さんとはじっくりとお話ししたいんです。いいでしょうか?。」 これは思ったより深刻な話になるかもしれない。もしかしてルスランは本気でロシアに帰る気になったのだろうか。真名は恐ろしくなった。 「ルーシャは日本に来てから知り合った連中との間で、もめごとが何度もあったそうですね。だから彼は、自分が日本でやっていけるかどうか不安だ、と言っていました。 彼が日本に居着くことができるようにするために、俺も出来る限りのことは協力したいんです。それで彼にうちの店で働いてみないか、と持ちかけたんです。警察を辞めた後、ルーシャはモスクワでは職探しに苦労したようですが、うちでは彼がもう少し日本語ができるようになったら、彼を雇ってもいいと思っています。でも、真名さんが快く賛成してくれるかどうかという問題が残っています。。 真名さんはルーシャに拳銃に関わって欲しくないそうですね。彼の身を案じてそう言ったことはわかっています。ですが、理由はそれだけではないような気がします。実は、彼は自分の過去、つまりモスクワで傷害事件を起こしたことを俺に打ち明けてくれたんです。」 ルスランも傍らで新の話にじっと耳を傾けていた。おそらく新の話の内容に察しがついているに違いなかった。 「真名さんがルーシャに罪悪感を感じるのは当然です。真名さんの気持ちは、俺もよくわかります。でも、真名さんの罪悪感が強すぎることが、彼にとって足かせになっているのではありませんか。だから、これから話すことをよく聞いて下さい。 そもそも警官が拳銃を携帯する理由は、自分の身を守るためです。でもルーシャは事件のとき、あなたに拳銃を突きつけようとしました。つまり、護身のためではなく、あなたに危害を加えるために拳銃を使おうとしたんです。 ただ、彼はあなたに向かって発砲する気はなかったそうです。それはあなたのためではなく、後で銃痕を調べられて、彼が民間人を傷つけるために拳銃を使用したことが発覚するのを恐れたからです。 とはいっても、拳銃がルーシャの手にある限り、彼がそれを利用して真名さんを脅し続け、そしてあなたにとっても最悪の結果になっていたでしょう。 それが、偶然にも拳銃が真名さんの手に渡ったおかげで、あなたは最悪の事態を免れることができました。ルーシャにとっても、確かに右足に後遺症が残ってしまいましたが、こうやって真名さんと幸せに暮らすことができたのです。 武器はそれ自体が悪なのではありません。使う者次第でその役割は変わります。拳銃が最後までルーシャの手にあったら、彼もあなたも不幸になっていたでしょう。でも、あなたが拳銃を撃ったから、二人とも救われたんです。 彼が足のことであなたを恨んだ時期がたとえあったとしても、今では彼はこのことを十分わかっています。だから真名さんも気を楽にしてはいかがですか?。彼への罪悪感と拳銃へのこだわりを捨ててほしいのです。 足が悪くなった自分にとって残された取り柄は射撃だけだ、と考えたルーシャは俺の父がやっている店にやってきました。俺と彼が知り合った経緯は、そういうことなんです。 そこで俺も警察に問い合わせてみたんですが、外国人に拳銃の所持が許されることはまずありえないそうです。ルーシャのためには、本当に残念です。 その代わりに、彼には仕事につけるようにしてあげたいんです。ただ、それには彼が再び拳銃を撃ってみたいと思ったことを話さないわけにはいかなかったし、真名さんの気持ちを考えて、ルーシャはこのことで悩んでいました。 真名さんが拳銃のことを思い出すのもいやだ、とおっしゃるなら、俺はこの話を無理にはすすめません。ですが、彼も悩んでいたということをわかってあげてください。」 かつてモスクワで、ルスランはすがりつくように真名を求めてきた。そして、真名と別れたくない、というただそれだけの理由で、彼は何も知らない日本にやってきた。真名はそんなルスランをあわれにすら思っていたし、だからこそ、真名のほうが一方的にルスランに尽くしているつもりになっていた。 しかし、それは自分の思い上がりだったのだ。この間、美紀に言われて真名はそのことに気づいた。真名の知らないところでルスランの方でも彼女を思いやり、彼女のために悩んでくれていたのだ。 事件の夜ルスランに向けて拳銃を撃ってからしばらくは、あれは正当防衛だったのだから、と真名はそのことを気にしないようにしていた。しかしそれから一年して、足が不自由になり警備の仕事につくことさえできなくなったルスランを見て、たった一発の銃弾がどれほど人の人生を狂わせるものか、と恐ろしくなってきた。そして真名は拳銃に関する一切のことから遠ざかろうとした。 しかしルスランはそんな真名の気持ちを見抜いてくれていたのだ。真名は改めてルスランの自分に対する愛を実感し、感激せずにはいられなかった。このことがわかって、真名は十分報われたような気がした。 だから、これからはルスランの望むようにさせたいと思うようになってきたし、そうすることで彼の愛情に報いたかった。 「わかりました。もう拳銃にはこだわらないわ。だから新さんの店で彼を雇ってもらう話も、彼のためには喜んであげなくてはね。新さん、ルーシャをよろしくお願いします。」 「それを聞いて安心しました。俺も友人として、ルーシャが日本に馴染めるように支えていきます。 それから、もう一つ彼が悩んでいることなんですが、彼は真名さんと結婚したことが自分にとってはよくても、真名さんにとっては幸せではないのだろうかという疑問を抱いているというのです。 なんでも真名さんはルーシャのことでは頻繁に泣かされたそうですね。」 「私としては、泣いてばかりいたつもりはないのだけど。」 「多分、そうだと思いましたよ。俺が見たところ、二人はとっても仲がよさそうですからね。 ただ、女が泣くのをひどく嫌う男はいます。ルーシャもそうなんでしょう。俺だったら女に泣かれても平気ですけどね。女は感情を発散させることができて、羨ましいくらいですよ。 真名さんが泣くのを見てルーシャの自信が揺らぐとしたら、それはあなたが償いのために彼と結婚すると言ったことがあるからではないですか?。真名さんが自分を犠牲にするような印象をルーシャに与えたのはよくないですよ。 だからルーシャは、真名さんは日本人の男と結婚した方が幸せになれたのかもしれない、と思うようになってしまったんですね。彼自身が真名さんのために何かをしてあげることができないからこそ、なおさらそう感じるのかもしれません。 でも、俺はルーシャが真名さんにとって役立たずだとは思っていません。真名さんだってそうでしょう?。今まで涙を流してきたのはすべて、彼を愛しているからだったはずです。 どうか、その気持ちを彼に伝えてあげてください。真名さんにとってもルーシャが必要だから、ロシアに帰らないでずっと日本にいて欲しい、と言ってあげて下さい。」 「でも、私は彼に、ロシアに帰りたくなったら引き止めない、って約束をしてしまったの。」 「彼が自分の国を懐かしむ気持ちを思いやっているのはわかります。しかし、そんなことを言っている場合ではありません。 ルーシャだって本心は、あなたを日本人の男に渡したいわけでも、自分一人でロシアに帰りたいわけでもありません。ただ、彼の不安を取り除いてあげればいいんです。彼が自信をもって、あなたを愛することができるようにしてあげてください。」 「自信?。」 「そうです。もう俺は帰りましょうか?。あとは二人で話し合って下さい。」 「まだ帰らなくていいわよ。すぐに彼に言うわ。」 真名はルスランの方に視線を向け、改まった声で言った。 「ルーシャ、私はときどき泣いてしまうことがあっても、あなたのそばにいられればそれだけで幸せなのよ。そのことは決して忘れないでほしいの。でもあなたを困らせたくないから、もう泣かないわ。約束する。」 それを聞いて、ルスランは本心から喜んだようだった。 「ありがとう。だったら俺も約束する。この国に馴染めるように努力する。そしてずっときみのそばにいるよ。」 ルスランは愛しげに真名を見つめていた。このままだともしかしてルスランに口づけされるかもしれない。新の前でそんなことをされるのは恥ずかしい。そう思った真名は慌てて新に言った。 「今夜はうちで一緒に食事をしていってください。私は料理がうまくないけど、ルーシャが結構おいしいものを作れるのよ。」 「いや、もう帰りますよ。」 「遠慮しないで。私たちのことでは新さんに心配をかけてしまったから。私、これから買い物に行ってきます。」 新はルスランを信用して任せられる男のみならず、真名自身にとっても信頼できる友人になってくれるかもしれない。そのことが真名には嬉しかった。 ルスランたちに留守番を頼んで真名が外に出ると、すでに雨はやみ、周囲は蒸し暑かった。本格的な夏がすぐそこまで来ていた。

(続く)




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