「ルスラン」第4部 誕生

第1章   償い 冬にしては珍しく暖かいある日の昼過ぎ、ルスランは東京の都心を通る電車に乗っていた。座席は半分ほど埋まり、なかにはうとうとと眠気を催している者もいた。 その中でルスランは、隣に座っている女の乗客をちらちらとうかがっていた。生後半年くらいの女の赤ん坊を腕に抱きかかえた若い女で、小声でさかんに赤ん坊に話しかけていた。もちろん、女が何を言っているのかはルスランにはわからなかったが、赤ん坊は母親に笑みを見せていた。 ルスランは去年の末にニコライからもらった手紙の内容を思い出していた。妻のスヴェトラーナに男の子が生まれたという知らせで赤ん坊の様子が詳しく書き記され、ニコライの喜びが文面から伝わってきた。それを読んだときは、子供を持つということはそんなにも幸せに満ちたことなのだろうか、とルスランは羨ましく思った。 とりあえず祝いの言葉を返事に書いて送ったが、ルスランはそのことはしばらく忘れていた。 真名は子供を持つことを暗に拒否していたので、ルスランも彼女の意志を尊重していた。真名との二人きりの生活に不満はなかった。 だが、子供には将来があるし、可能性もある。その可能性をさぐりながら子供を育てていくことはおそらく喜びに満ちたことなのかもしれない、とルスランは隣の赤ん坊を見て気づいた。 ルスランが子供の可能性にこだわったのは、この日が不自由になった右足の検査の結果を聞きに行く日だったからだ。ルスラン自身は、右足を完治させることは諦めていた。この点でルスランは、自分の人生において一つの可能性を失くしてしまったのだ。 やがて駅につき、ルスランは電車から下りた。改札口に行くと、真名がそこで待っていた。彼女は病院へ付き添うつもりで仕事を早退していた。 不自由になった右足を是非とも治したいと言い出したのは真名の方だった。彼女はルスランを日本に連れてきた以上、できるだけのことはしたいのだ、と言った。そこでルスランは真名の好意に答えるべく、一週間前に病院で検査を受けたのだ。 駅から歩いて数分の大病院に入り、待合室でしばらく待たされ、二人は診察室に入った。医師は真名に対して説明を始めた。医学用語が多いせいか、真名は医師の言葉を訳してはくれなかったが、彼女の表情を見てルスランは、おそらくモスクワの病院で自分が言われたことと同じ説明がなされているのだろうと推測した。 病院を出た後、二人は近くの公園をゆっくりと歩いた。真名は検査の結果をルスランに伝えなければならないと思いながら、なかなか言葉がでなかった。ルスランは医師との話の内容を察知しているらしいが、結果をきちんと伝えるのが病院にかかることをすすめた者の義務だ、と真名は自分に言い聞かせた。 「あのね、ルーシャ。やはり足は元通りにはならないのだそうよ。こんなことなら、もう一度検査を受けろ、なんて言うのではなかったわ。きっと治るだろうと期待したでしょうにね。ごめんなさい。」 「足のことならもう慣れたから、俺は気にしていないよ。」 「それでも、とても残念だわ。私にとっては治ってほしかった。あなたがもっと、いろいろなことができるようになってほしかったの。」 真名は足を止め、うつむいた。真名が泣き出すかもしれない、とルスランは不安になった。何か真名の気を逸らすことを言わなければ。ルスランは慌てた。 「マーナ、そろそろ子供が欲しいと思っていたんだ。俺の子供を産んでくれる?。」 狙いどおり、真名はひどく驚いてルスランを見上げた。 「やっぱりきみには負担が重くなるかな?。でも、俺も出来る限りのことは協力するから。」 「だけど、もし子供ができたら、あなたにいつでもロシアに帰っていいとは言えなくなるわ。そうなったら子供がかわいそうだし、私もつらいもの。」 「帰らないよ。ロシアに帰るならきみと一緒に帰る。だからそのことは心配しないでもいいんだ。」 今までは子供を持つことに気の進まなかった真名だが、ルスランの言葉を聞いて気づいた。ルスランの足を不自由にしたことについて今の自分にできる償いは、子供が欲しいという彼の願いを聞き入れることしかない、と。しかも自分はこの間、彼のためならできるだけのことはしたい、と言ったはずだ。自分さえその気になれば、彼に子供を与えることができるのだ。 そこで真名は、ありったけの勇気を振り絞って答えた。 「いいわよ。そうしましょう。」 ルスランに対しては懸命に笑顔を向けていたが、真名の心の中は憂鬱だった。これからさんざん煩わしい思いをするかもしれないのだ。 一方ルスランは、口に出して言ったことにより子供を望む気持ちがより強くなったので、真名の返事を聞いて喜んだ。 それから四カ月後、ルスランは真名が妊娠したことを告げられた。 その年の初夏は予想通り、真名にとってつらい日々となった。毎日のように小雨が降って肌寒かったし、だるさと軽い吐き気に悩まされた。ルスランのためにも耐えなければ、と真名は自分に言い聞かせ、かろうじて仕事に出ていた。ルスランがいたわってくれるのだけが支えだった。 しかし、盛夏を迎えるころになると真名の容体は安定し、気分も落ち着いてきた。さらに秋に入って子供が胎内で動くようになると、真名は本心から子供の誕生を待ち望むようになった。 冬になり二人の結婚二周年を祝ってから間もなくして、真名は産休に入った。そんなある日、新がアパートに真名の様子を見にやってきた。 「真名さんは今、いろいろと不安でしょうね。でも生まれた子供の顔を見れば苦労がすべて報われたような気がする、ということですよ。これは友人の奥さんから聞いた話なんですが。その瞬間を楽しみに頑張って下さい。 真名さんは男と女、どっちの子供が欲しいんですか?。」 「どっちでもいいのよ。ルーシャが強く望むからつくった子供で、私はもともとは子供を欲しいと思っていなかったんだから。きっとルーシャは、足が不自由になったことで閉ざされてしまった自分の可能性を子供に見いだしたいと思ったのよね。だから、彼の子供を産んであげることが私の義務だと考えたの。 でも今では、彼と巡り合ったのはすべてこの子を産むためだったのかな、と思っているわ。以前はこういう考え方は嫌いだったけど。だけど私のおなかの中で子供が動いているのを感じると、とてもかわいく思えるもの。」 「そうですね。夫が望んでできた子供なら夫も協力して子供の世話をしてくれるし、妻の方も気持ちのゆとりがでて、より一層子供をかわいがれるようになれるらしいですからね。無事に生まれるように、俺も祈っていますよ。」 一方、広島にいる真名の母親も心配して電話をかけてきた。 「こっちで出産すればいいのに。そうしたら私があんたの世話をしてやれるのに。」 「でもねえ、いろいろな荷物をそっちに持っていったり、持って帰ったりするのは面倒だもの。それに、こっちでいい病院を紹介してもらえたし。だからこっちで出産する。」 「ルスランさんさえ承知してくれれば、私が東京へ行ってあんたたちの世話をしようか?。」 「そんな、お父さんを一人にはできないでしょう?。ルスランがいろいろ協力してくれるから、心配しないで。」 周囲の人間のいたわりに感謝しながら、真名は臨月を迎えた。 「ねえ、ルーシャ。子供が生まれる場面に立ち会ってくれる?。」 「そうか、この国では立ち会いが許されているんだ。実は子供がどんな風に生まれてくるかは興味があったんだ。もしきみさえよければ、立ち会いたい。」 ルスランが強く望んだ子供なのだ。その誕生の瞬間を見せて彼を喜ばせたい、と真名は考えた。 年が改まりひどく冷え込む日の朝、真名は痛みで目を覚ました。実は前の晩から腹部に痛みを感じていた。それでも午前中はいつものようにアパートで静かに過ごした。午後になり、真名は時計で計って五、六分の間隔で痛みがくることを確かめた。 「ルーシャ、いよいよみたいよ。」 そこで真名は広島の両親に電話をいれたあと、ルスランに荷物を持たせ、彼に手をひかれながら病院に向かった。 それから数時間たって分娩室に入った真名は、白衣を着たルスランの手を握りながら、分娩台の上に乗っていた。このとき真名は、今自分の手を握ってくれている男に、モスクワの裏通りで血を流させたことを思い出していた。あのとき自分が彼に与えた苦痛を思えば、いま自分に襲いかかっている痛みにも耐えられる。真名はそれだけを考えるのが精一杯だった。 一方ルスランは、真名の顔や手のひらの汗を拭きとりながら、彼女に励ましの言葉をかけ続けた。 「いくらでも力をいれてもいいからね。」 真名はルスランが驚くほど強く、彼の手を握りしめた。 ルスランが真名の手を取るたびにいつも思い出すことがあった。自分が真名に撃たれて入院していたときに、彼女が見舞いに来たときのことだ。 帰り際に真名はルスランに握手を求め手を差し出してきた。そのことにルスランは、内心は大変驚いた。自分を恐れてもおかしくないはずの相手が、自分に心を開いてさえくれて、そのことに感激したのだった。 あのとき手を差し伸べてくれた真名は、その後も文字通り彼を救い上げてくれた。真名と暮らした二年余りは、ルスランの二十七年の人生のなかで、もっとも幸福に思えた時期だった。 どうか、今真名を襲っている苦しみが少しでも軽いものとなり、彼女が無事に出産を終えられますように、とルスランは祈りながら手を握り続けた。 ついに、真名の赤ん坊が頭を見せた。医師に言われて真名が思いきり息むと、赤ん坊はするりと外にでてきた。医師は赤ん坊を取り上げると、臍の緒を切る前に白い布でくるんで真名の胸に抱かせた。 真名は疲れを見せながらも笑顔を浮かべて、赤ん坊の顔を見た。赤ん坊は片方の目を開けて真名を見つめた。真名が自分の指を赤ん坊に握らせたりしてしばらくの時間を過ごした後、赤ん坊は臍の緒を切られてから身体を洗われ、今度はルスランに手渡された。 色の白い女の赤ん坊で、開いている片方の目は黒かった。ルスランはしばらく赤ん坊の顔を見つめていたが、突然真名たちに背を向けた。彼が赤ん坊を抱きながら右手の指を自分の目元にもっていったことに真名は気づいた。 後産も無事にすみ、ルスランが看護婦と待合室に行ってみると、そこには真名の両親がすでに到着していた。 「無事に生まれました。女の子です。産婦さんも大丈夫ですよ。」 看護婦の言葉を聞いて夏子たちはほっと息をついた。 「ルスランさん、おめでとう。」 「ありがとうございます。マーナは頑張りました。」 ルスランは日本語で答え、夏子たちは赤ん坊の顔を見にいった。一方、ルスランは病室に移された真名のところへ行った。 「マーナ、本当にご苦労さま。きみがひどく苦しそうだったから、俺も気が気じゃなかったけどね。」 「あなたも三年前、モスクワで苦しい思いをしたはずよ。だから私も耐えられた。」 「拳銃で足を撃たれるのなんか、出産に比べれば大したことないよ。きみには大変なお願いをしてしまったね。でもやはり、子供が無事に誕生して嬉しいよ。きみにはとても感謝している。これからもきみを大切にしていくからね。 そういえばおそらくきみには気づかれてしまっただろうけど、さっき赤ん坊の顔を見ていたら、少しだけ涙が出てきてしまった。泣いたのは、パパが死んだとき以来だ。 きみが疲れているだろうから、今夜はもう帰らないと。でも、俺の方は今夜は眠れるかどうかわからないな。じゃあ、明日また来るから。ゆっくり休んでほしい。」 夏子たちが真名と少し話をしたあと、ルスランは彼らといっしょに病院を出てタクシーに乗った。タクシーはまず真名たちのアパートに寄ってルスランをおろし、それから夏子たちはタクシーをホテルに向かわせた。 時刻は真夜中をまわっており、ルスランが夜空を見上げると、雪が舞い散り始めていた。 それはこの年の冬の東京での初雪だった。東京では冬でも滅多に雪は降らず、もし降っても水っぽくて一、二日で解けてしまうということを、この街で三度目の冬を迎えたルスランは既に知っていた。それでも雪が舞い散るのを見ると胸が弾んだ。 「スニェグーロチカ(雪娘)。」 ルスランは生まれたばかりの自分の娘の白い身体を思い浮かべた。 アパートに帰ってもルスランはすぐには眠らず、モスクワから持ってきたアルバムを久しぶりに取り出して眺めた。 かつての自分の家族は四人だった。うち二人はすでにこの世になく、残りの一人は数千キロも離れた街にいて、数年に一度会えるかどうかになってしまった。 しかし今夜生まれた娘を加えて、ルスランの新しい家族の歴史が始まろうとしていた。もちろん楽しいことばかりではないだろう。しかし、それを上回る幸せが必ず自分たちを待っているはずなのだ。 ルスランは、姉や自分が生まれたときの父の気持ちを思った。父にまた一歩、近づいたような気がした。 真名に言ったとおり、ルスランはほとんど眠らぬまま朝を迎えた。雪はそのころにはやんでしまっていた。彼は午後になるのをじりじりと待ち続け、昼過ぎになると病院へ飛んでいった。真名は顔色もよく、笑顔でルスランを迎えた。 真名の両親も病院にやってきたので、彼女は三人の前で発表した。 「子供の名前は万里奈。マリーナ、と呼んでやってね。ロシア語で、海、という意味を持つ名前になるのよ。」 夏子たちは、かわいい名前だと賛成した。一方ルスランは、ロシア風の名前をつけてくれた真名の配慮に感謝した。 次の日、夏子たちは新幹線で広島に帰った。 「赤ん坊は結構色白だったけど、見た目は普通の日本人と変わらないようだから、安心したよ。」 夏子は眉を吊り上げて優治をたしなめた。 「そんなこと、決して真名の前では言ってはいけませんよ。きっと真名は怒りますし、ルスランさんだって機嫌を損ねますよ。」 「そうは言っても、日本で育てられる子なら、ほかの子供と同じ方がいいだろう。目立つ容貌だといじめられるかもしれないからね。だから、少なくとも黒い目の子でよかった。」 数日後、真名は順調に回復して退院した。子供の目の色にこだわらないルスランは、毎日のようにマリーナの瞳をうっとりとながめた。すでにマリーナは両方の目を開けることができた。 ルスラン自身は、自分が父親と同じ灰色の目であることに誇りを持っていたが、マリーナが自分ではなく真名と同じ黒い瞳であっても、娘をいとおしむことにかわりはなかった。マリーナの瞳を見ると、モスクワで真名と出会った事が思い出された。あのころ、ルスランは真名と目が会うたびに胸をときめかせた。 一方、真名もそんなルスランの様子を見て、幸せを強く感じていた。これほど娘の誕生を喜んでくれるとは、苦しい思いをした甲斐があったというものだ。幸いマリーナは健康な身体で生まれてくれた。あと三、四年もすれば、走ることができなくなったルスランの代わりに、マリーナが大地を駆け回るようになるだろう。


第2章   母親 やがて真名は仕事に復帰した。夕方になってアパートに戻ったとき、真っ先にマリーナを抱き上げるのが習慣となった。 「マリーナ、ママが帰りましたよ。今日もいい子にしていた?。」 そう言って真名はマリーナを思いきり抱きしめ、自分が子供の母親になれたのだという喜びを改めて感じた。それを実現させてくれたのはほかならぬルスランなのだ。真名は感謝の眼差しをルスランに向けた。当初は妊娠することを渋ったけど、でも本当に子供を産んでよかった、と。 マリーナはついに一歳の誕生日を迎えた。広島から夏子がかけつけ、真名たちはマリーナの誕生日を祝った。 マリーナは既に自分の足で立てるようになっていたので、ルスランはマリーナの立っている姿も含めて、誕生祝いの様子を写真にとった。そして、普段は滅多に文章を書かない彼が、二日をかけてマリーナの成長の様子を手紙に書き、写真を同封して母のソフィヤと叔母のニーナに送った。 そしてさらに一年たち、マリーナが二歳の誕生日を迎えたときもルスランは写真と手紙をソフィヤたちに送った。 このころから、ルスランは新の父親が経営する店に再び働きにでるようになった。彼が仕事に出る日は、マリーナを託児所に預けた。マリーナはすぐに託児所に慣れ、親を恋しがって泣くことは滅多になかった。 真名はそんな娘の成長を嬉しく思う一方、寂しさをも感じた。自分とルスランだけのものと思っていたマリーナが、確実に外の世界に飛び出そうとしていた。 それから一カ月ほどしてソフィヤから返事がきたが、それを読んだルスランは驚き当惑した。ソフィヤが初夏に日本に行くと書いてきたからだ。もちろんマリーナに会いたいからだろうが、ルスランが十四歳のときに家を出、それ以降ほとんど顔をあわせたことのない母とどんな話をすればいいのか、彼にはわからなかった。 もちろん真名の方も、初めて会う夫の母親を迎えるのには、さまざまな不安を感じていた。人のいいニーナとは異なり、ルスランの話によればソフィヤは自由奔放な女らしい。 やがてソフィヤの来日の日を迎え、ルスランはマリーナを連れて成田空港に迎えにいった。彼の顔を見たソフィヤは、嬉しそうな声をあげた。 「ルーシャ、久しぶりね。四年ぶりかしら。元気だった?。ああ、その子がマリーナね。抱かせてちょうだい。」 ルスランはマリーナを手渡し、ソフィヤは孫娘の顔をまじまじと見つめた。 「本当にかわいい子ね。女の子でよかったわね。機会があるならば、この子にもスケートを教えてあげたいわ。ところで、誰が名前をつけたの?。」 「マーナだよ。マリーナなら、日本人の名前としても通用するんだって。」 「そう。そろそろここを出ましょうよ。私がマリーナを抱いてあげるから、あんたは私の荷物を持ってね。」 そして彼らは東京方面へ行く電車に乗った。 「本当はもっと早く孫に会いにきたかったのよ。でも、どうせならマリーナが言葉を話せるようになるまで待とうと思ってね。だってバーブシカ(おばあちゃん)と呼んでもらいたいじゃない?。当然、あんたはこの子とはロシア語で話をしているんでしょう。」 「もちろん。」 「ならいいわ。孫と言葉が通じないなんて、とても残念だから。そうそう、今回モスクワで絵本を買ってきてあげたから、いずれマリーナに字を教えてあげなさいよ。 それからね、日本に来るのをためらったもう一つの理由は、あんたの妻には会いたくなかったからなのよ。だって、大切な息子の身体を不自由にした女に誰が会いたいと思う?。」 ソフィヤは一瞬、にくにくしげな表情になった。 「ママ、やめてくれ。俺はこの上もなく彼女を愛しているんだ。彼女をそんなふうに言わないでくれ。」 「でも、彼女に足を撃たれたから、あんたはスケートもできなくなってしまったんでしょう?。」 「足を怪我したのは、もともと自分が悪いんだ。彼女は俺と一緒に暮らしてくれるし、俺の娘も産んでくれた。俺はマリーナの誕生の場面に立ち会ったんだ。だから彼女には感謝しているし、微塵も恨んでいない。もしママが彼女を嫌うなら、ママにはこのまますぐにモスクワに帰ってもらうよ。」 「わかったわよ。このことは二度と言わないわ。」 「本当にわかってくれたのか?。マーナは今ママが抱いている大切な孫、マリーナのかけがえのない母親なんだからね。彼女とも親しくなってほしいんだ。」 やがて電車は東京に到着し、ルスランたちはアパートに向かった。そこでは真名が料理を用意して待っていた。 「ソフィヤさん、初めまして。真名です。このたびは遠いところからようこそお越しくださいました。ゆっくりくつろいで下さいね。」 真名はロシア語でソフィヤに挨拶したが、彼女が非常に緊張しているのをルスランは感じ取った。ソフィヤが真名をまじまじと見たことから、なおさらだった。 真名はソフィヤからマリーナの身体を受け取った。マリーナを抱いている真名を見て、ソフィヤはルスランにささやいた。 「孫の母親が日本人だというのは、奇妙な気がするわ。」 「ママ、なんてことを言うんだ。」 ルスランはソフィヤをたしなめ、慌てて真名の様子をさぐった。ソフィヤの言葉が真名にも聞こえてしまったはずだが、真名は表向きは笑顔を浮かべていた。 しかし、ルスランは真名がソフィヤに気兼ねをしていることに気づいた。いつもは日本語でマリーナに話しかけている真名が、この日はロシア語で話しかけていたからだ。自分に知られたくない話をしているんだ、とソフィヤがひがむのを真名は恐れたのだ。それでも夕食のときの雰囲気は和やかだった。 翌日、真名は出勤しなければならなかった。 「明日については休暇が取れましたから、遠くにご案内します。今日はルーシャとゆっくりお話なさってください。」 真名はルスランとマリーナに口づけし、書類鞄を持ってアパートを出ていった。ソフィヤは居間にいて、マリーナをそばに座らせて遊ばせた。ルスランはそんな母の様子をじっと見ていた。 「マーナは昨日から無理に笑っているようだった。ママが意地悪を言ったからだよ。」 「それはあんたの気のせいよ。」 ソフィヤは平然としていた。 「ルーシャ、あんたはここではどんな仕事をしているの?。」 「モデルガンを売る店で働いている。」 「それだったら、いつモスクワに戻ったっていいわよね。ねえ、あんたはモスクワに戻る気はないの?。」 「なぜ、そんなことを聞くんだ?。」 「だって、私の身にもなってよ。たった一人の息子と孫に会うのに、国外にまで行かなければならないなんて。 あんたが日本に行くって聞いたとき、どうせ日本人との結婚生活なんか数年も持つまいと思っていたけど。でも予想に反してあんたは四年も日本に居座ったわね。」 「モスクワに戻るっていっても、マーナはどうする?。彼女は日本でないと仕事がないんだよ。」 「彼女についてはどっちでもいいわよ。」 「じゃあ、マリーナはどうする?。」 「もちろん、絶対にモスクワに連れてきて。だってれっきとした私の孫なんだもの。」 「随分ひどい話だね。マーナとマリーナを引き離す、って言うのか?。自分だって娘の母親だったことがあったくせに。」 「私の娘は、大人にならないうちに神に召された。そんな悲しみにも私はなんとか耐えてきたわ。人生って、大抵のことはなんとかやり過ごすことができるのよ。」 「ローザが死んでからすぐに男を見つけたからだろう?。それとも彼女が死ぬ前から奴と知り合いだったのか?。 ローザが死んだとき、俺は悲しみにくれるママをなんとしてでも元気づけよう、と固く誓ったんだ。だからなおさらママが離婚したり、すぐに他の男と再婚したりしたのが腹立たしかった。ママに裏切られたような気がしたよ。」 やはり母とはこんな話しかできないのだろうか。ルスランは情けなくなった。 「マリーナの前でこんな話はやめよう。ただ、最後に言っておくけど、俺たち三人は何があろうとも、絶対に離れ離れにならないよ。」 ルスランは気まずくなった雰囲気を変えるべく、マリーナをソフィヤに抱かせて言った。 「ほらマリーナ。この人はおまえのおばあちゃんだよ。パパのママにあたる人なんだよ。マリーナにママがいるように、パパにもママがいるんだ。バーブシカって呼んであげるんだ。さあ。」 マリーナはソフィヤの顔をみてもじもじしていたが、再度ルスランに促されてついにバーブシカ、と言った。そのとき、ソフィヤの顔からこぼれるような笑みが浮かんだのをルスランは見た。 この日は天気がよかったことから、ルスランとソフィヤはマリーナを連れて近所の公園に散歩に出掛けた。マリーナの手を引きながらゆっくりと歩くソフィヤを見て、ルスランは今のマリーナと同じ年頃の自分と母親の姿を想像した。おそらく幼子だったころの自分を連れてモスクワの公園を散歩したことが、若い頃の母にはあったに違いない。ルスランの母への気持ちが徐々に和んでいった。 次の日、真名は車を借りてきて、ソフィヤたちを秩父に連れていった。彼らは札所の寺をまわり、ロープウェイに乗った。 「随分山深いのね。」 ロープウェイの山頂の駅から付近の山々を眺めながら、ソフィヤは感心したように言った。 「私はモスクワに行って、平原がどこまでも広がっていることの方が意外に思えましたよ。」 ソフィヤに答えるべく、真名も言った。 ルスランの方は、ソフィヤと一緒に旅行していることが奇妙に思えていた。 「まさか、ママと一緒に旅行する日が来るとは思わなかった。だって、昔はママと一緒に遠出したことがほとんどなかったから。」 「それはね、病気のローザを抱えていたからなのよ。」 「そんなことはわかっている。でも、たまには家族四人で楽しく過ごすときがあってもよかったのになあ。あのころといえば、スケートリンクでママに叱られるだけの毎日だったから。」 「それはあんたがローザと違って健康だったからよ。あんたには随分期待していたのよ。」 「そのことはローザから羨ましがられていたこともあって、俺は自分なりに頑張った。でも結局俺はたいした人間にはなれなかった。ただ、妻と娘のためならいつでも命を捨てる覚悟はできている、というだけが取り柄の男だ。」 最後の方の言葉は、前の日にソフィヤに宣言したことを強調するためのものだった。ソフィヤは、ルスランが真名たちとともに生きていくという強い意志を持っていることを悟った。 そのことを知っておそらくソフィヤが寂しい思いをしただろうと考え、ルスランは母を慰めるように言った。 「とにかく、今回はマリーナに会いにきてくれてありがとう。」 「会いたかったのはマリーナだけではないのよ。」 「わかっているよ、ママ。」 真名は車を運転しながら二人の話を聞いていたが、自分の母親を避け続けたルスランが、再び母親に心を開いてきていることを感じた。 やがて、ソフィヤの帰国の日を迎えた。このころになると真名が懸命にもてなそうとした努力が実って、ソフィヤは彼女に親しみを見せるようになっていった。 「マーナ、お世話になったわね。ルーシャとマリーナをよろしくね。そしていつかは彼らをモスクワに来させてちょうだい。」 「ソフィヤさんもお元気で。」 真名は仕事があったので、ルスランがマリーナを連れてソフィヤを成田空港まで見送りに行った。 マリーナはロシア語で、おばあちゃん、さようなら、と言い手をふった。ソフィヤはそれを聞いて上機嫌で出国ゲートの向こうに消えていった。 これでまたしばらくソフィヤとは会えなくなる。ルスランは、母に自分の思いを聞いてもらえたことが嬉しかった。両親の離婚により一度は遠い存在になってしまった母が、久しぶりに身近に感じられた。 それから半月ほどして、広島の夏子から真名のところに電話がかかってきたので、真名はソフィヤが来たことを話した。 「それなら私を呼んでくれればよかったのよ。私だったら本格的な料理をつくってあげられたのに。どうせ真名はたいしたものをつくれないものね。」 「それも考えたわ。でもまず私のことをお気に召してもらえるかどうかわからなかったから。」 「それで、結局向こうのお母さんとは仲良くできた?。」 真名は少し迷ってから答えた。 「最後の日には機嫌よくお帰りになったわよ。」 すぐに夏子は真名の言わんとしていることを理解した。 「まあ、あんたがルスランさんをモスクワから連れ出してしまったから、向こうのお母さんにとってはおもしろくないわよね。そう思って、あんたが寛大になってあげなさい。それに、向こうのお母さんは、数年に一度しか会わない人だから、気が楽でしょう?。 それにしても、あんたが姑の苦労を経験するとはねえ。あんたは以前、結婚なんかしない、って言っていたから。 でも、今となっては結婚してよかったでしょう?。子供を育てる喜びだって味わうことができたんだから。古くさいと言われるかもしれないけど、女はやっぱり結婚するのが一番幸せなのよ。」 独身のころの真名であれば、母のこのような考えには賛成しなかったかもしれない。しかし実際に自分が母親になってみると、夏子のいうとおりだと感じていた。真名もマリーナには、いずれ幸せな結婚をしてもらいたい、と既に強く望んでいた。少なくとも今の自分が手に入れた程度の幸せだけは、自分の娘にも味わってほしかった。 「真名の場合、結婚したいと言った相手が普通ではなかったけど、でもこれでよかったのね。私の見たところ、あんたたちは本当に仲がいいみたいだから。最近はルスランさんも日本語で話しかけてくれるようになったから、私たちも嬉しいわ。私たちはこの年でロシア語なんか覚えられないもの。 そうそう、夏になったらまたそっちへ行こうかと思っているのよ。そのときに私がマリーナの世話をしてあげるから、あんたはルスランさんと旅行にでもいってきたらどう?。マリーナも連れていこうと思えばいけるだろうけど、まだ手がかかることもあるし、それに旅行に行ったことを覚えていられる年ではないものね。」 「ありがとう、お母さん。そのことはルスランと相談してみるわ。」 夏子との電話を終えた後、真名はマリーナを抱き上げた。 「マリーナ、もうすぐおばあちゃんが来てくれるかもしれないのよ。今度はママのママにあたる人が来るのよ。その人に、おばあちゃん、って呼んであげてね。 バーブシカもおばあちゃんも、マリーナのことをとても愛しているのよ。よかったわね、マリーナ。」 マリーナのお陰で、自分もルスランもそれぞれの母親と心を通わすことができたのだ、と真名は自分の娘に感謝した。


第3章   嫉妬 ソフィヤの訪問から一年近くがたった。マリーナは三歳になり、すくすくと成長していった。ルスランは相変わらず真名に優しくて、二人の間には波風の立つことも滅多になかった。 そんな風になにもかもがうまくいっていると真名が思っていたある春の日、真名は田代という同僚の男性からこんな話を持ちかけられた。田代はまだ新婚で、彼の妻はとある大学の職員をしていた。 「今、妻の勤める大学にニューヨークから短期研修生が来ているんですが、その方はもともとモスクワの出身なんだそうです。それで、妻が大野さん夫婦のことをお話したら、彼女は日本にいるうちに是非、大野さんたちにお会いしたいと言ったそうです。どうしますか?。」 「いいですね。夫はロシア人のお客さんをとっても歓迎するのよ。こちらもその方にお会いしたい、と伝えて下さい。」 真名はすぐに返事をしてしまったが、あとで少しだけ後悔した。ルスランは悩みをもっているロシア人の女にはひどく同情してしまうたちだし、さらには行き過ぎた好意すら抱いてしまうこともあるかもしれない。ルスランが東京に来て間もなくのとき、彼がアナスタシヤと旅行にでたことが、今でも苦く思い出された。 だが、真名はすぐに思い直した。その研修生と会うのは一回だけだし、たとえ彼女がなんらかの悩みをかかえていたとしても、初対面で彼女が自分の悩みをルスランに話したりはしないだろう。 そこで、真名はこのことをルスランにも話した。彼は快く応じ、そして相手が女ならば構わないだろう、とマリーナも同席させることにした。真名は田代を介してその研修生と会う日時を決めた。 約束の日の昼過ぎ、田代が真名のところにやってきて言った。 「今、妻から確認の電話がきたんですがね、例の研修生、ミセス=アラカワは夕方の七時に確かに渋谷のビルに行く、とのことです。」 このとき初めて真名は研修生の名前を聞いた。そして彼女が外国人と結婚したことがきっかけでモスクワを離れたらしいという素性もわかった。 六時半をすぎて真名は渋谷のオフィスビルの玄関ホールに行ってみた。そこに短い金髪の女が長椅子に座っていた。 「アラカワさんですか?。」 「そうです。」 相手は田代の紹介してくれた研修生に間違いなさそうだった。 「お名前と父称は?。」 「リュボーフィ=パヴローヴナです。」 「大野真名です。初めまして。」 「初めまして。お会いできて嬉しいです。」 真名はリュボーフィの隣に腰をおろした。 「私のことはマーナと呼んで下さい。夫はもうすぐこちらに来るはずです。もう少しここで待ちましょう。ところであなたはモスクワのご出身だと聞きましたけど。」 「はい。モスクワで日系アメリカ人である今の夫と知り合って結婚し、それからニューヨークに移り住んだのです。」 「どうやってご主人とお知り合いになったんですか?。」 「私はモスクワでは弁護士をしていました。私の所属していた法律事務所が顧問をしていた会社に、夫が赴任してきたんです。」 真名はあることを思い出していた。忘れようとしても忘れられない話だった。ルスランの以前の恋人だったリュボーフィの職業は、弁護士だった。そして彼女がニューヨークの大学院に通う予定だったということも。 だが、リュボーフィという名前は珍しくない。真名は冷静になって事実を確認しようとした。 「リュボーフィさん、ロシア人の男性とは交際をしたことがないのですか?。」 「学生時代に同級生だった男子学生と結婚したことはあります。ロシアでは学生結婚は珍しくないんですよ。彼とは半年で離婚しましたけど。」 「それ以降はどうなんでしょうか?。」 真名の質問が詳しすぎることを不思議に思いながらも、リュボーフィは答えた。 「弁護士になってから、警察官の男性と交際したことはあります。」 やはり彼女はルスランの恋人だったリュボーフィに違いない。真名は気が遠くなりそうだった。 「マーナ、あなたのことも話して下さい。どうやってご主人とお知り合いになったんですか?。」 「それは、話すと長くなるんです。」 「そうですか。じゃあ、彼のお名前は?。」 「アリョーシャ。」 真名はルスランの父親の名前を答えた。彼女に本当のことを教えられるわけがなかった。 このままだとルスランがここに来て、リュボーフィとはちあわせてしまう。真名は彼女に断って、玄関のガラス戸を出たところでルスランに電話をかけた。 「もうすぐそっちに着くよ。」 ルスランは電話の向こうで答えた。 「あのね、例の研修生は急用ができて来られなくなったんですって。だからこのままアパートに帰ってくれない?。」 「なに?。もうすぐそっちにつくから、詳しくはそのときに聞くよ。」 実際、大通りの向こう側にルスランの姿が見えた。彼は右手で携帯電話を持ち、左腕でマリーナを抱えていた。真名はルスランの姿をリュボーフィに見られないように、大急ぎで歩道橋を渡って彼のところに駆けつけた。 「ルーシャ、このまま帰って。」 「何故?。彼女の都合が悪くなったのなら、きみも一緒に帰ろうよ。」 「私はまだ帰れないの。とにかくあなたたちはすぐに帰って。きっとよ。」 真名はルスランたちをそこに残し、急いでビルの中に戻った。 「マーナ、何かあったんですか?。」 「実は、娘が急に熱をだして、それで夫も来られなくなったんです。せっかくあなたに来ていただいたのに、残念です。」 真名はこのあと自分一人でリュボーフィの相手をするつもりだった。ルスランたちはもう帰ったものと思っていた。 ところが、リュボーフィを促して立ち上がらせ、ビルの上層階に入っているレストランに行こうとエレベーターのボタンを押したとき、真名は自分の名を呼ぶ男の声を聞いた。驚いて振り返ると、そこにはルスランとマリーナがいた。真名がひどく慌てていたのを様子がおかしいと感じたルスランが、彼女を追ってビルの中に入ってきたのだった。 ルスランの姿を見た真名は、頭に血が上ってなにも考えられなくなってしまった。とうとうルスランとリュボーフィが顔をあわせてしまった。真名はいたたまれずに、すごい勢いで外へ飛び出していった。 「おい、マーナ。待ってくれ。」 ルスランは真名の走り去った方向を見ていたが、リュボーフィの方はルスランの顔を見て驚いていた。 「どうしたんだろう?。」 「あなたが彼女の夫なの?。」 「そうです。」 真名の行方に気を取られていて、ルスランは相手の顔をよく見ていなかった。リュボーフィは大声をあげた。 「ルスラン=アレクセーイッチ?。」 自分の名前を言われて、ルスランは初めて相手の顔をしっかりと見た。髪が短くなっていたが、見覚えのある女だった。それどころか、ルスランにとっては一生忘れられないはずの女だった。 「リューバだ。そうだ、本当にリューバなんだね?。」 「そうよ。なんだか信じられない。」 「ああ、そうなのか。マーナは気づいていたんだ。だから逃げだしたんだな。」 ルスランは笑いながら言った。 「リューバ、彼女が俺の妻だよ。彼女は興奮すると、どこかに飛び出していってしまう癖があるんだ。彼女とは俺がモスクワで起こした例の事件のときに出会ったし、俺がその事件を起こした理由もよく知っている。だから、彼女を許してやってくれ。」 「もちろんよ。彼女がそれだけあなたを愛しているってことなんだから。」 「ほら、これが俺たちの娘、マリーナだよ。」 「かわいい子ね。目がママにそっくりだわ。」 リュボーフィはマリーナに顔を近づけてほほ笑みかけた。ルスランはマリーナを長椅子の上に座らせた。 「リューバ、裁判のときは上申書を書いてくれてありがとう。」 「私はたいしたことはしていないわ。あなたに証言を断られてしまったし。」 「それはきみを恨んでいたからじゃない。恋人を取られたくらいであんな事件を起こしたなんてことを、公にしたくなかっただけだ。」 「あのときは私も本当につらかった。弁護士たる私が、あなたに罪を犯させてしまった。自分を呪ったわ。その報いを今、受けているのかもしれない。」 「どういうことだ?。」 「なんでもないの。それより、これからどうする?。」 ルスランは携帯電話を取り出し、真名に電話をかけた。 「もしもし、マーナ?。何を気にしているんだ?。戻ってこいよ。リューバだってわざわざ来てくれたんだよ。」 リュボーフィはマリーナの隣に座って話しかけ、ルスランは玄関のガラス戸を見つめながら待っていた。 ルスランは自分がリュボーフィとの再会を冷静に受け止めていることを感じていた。リュボーフィはあんなにも愛した女だが、いざ彼女に再会してみても、憎しみもなければ、我を忘れるほどの歓喜もなかった。リュボーフィによってつけられた傷は、真名によって埋めて余るほど癒されたのだということにルスランは気づいた。 やがて真名がおずおずと姿を現した。 「彼女とは昔のことなんだから、なにも心配する必要はないんだよ。」 真名を安心させるべくルスランは言い、そして彼らはレストランに入った。 リュボーフィの向かい側に座った真名は、改めて彼女を見つめた。リュボーフィの波打った金髪や青みがかった灰色の目が、真名にはとても美しく思われた。襟もとからのぞいている首は透き通るように白くて、真名はルスランの手や唇がそこに触れている場面を想像し、めまいを覚えた。 リュボーフィを値踏みしているように見ているのをルスランにたしなめられたので、真名は無理に笑顔をつくって二人の話に加わった。 やがてマリーナが退屈して眠り込んでしまったので、真名は娘を胸に抱いた。それを見てリュボーフィは言った。 「かわいい寝顔ね、ルーシャ。マーナに感謝しなければならないわね。こんなかわいい女の子を授けてくれて。」 「まったくきみの言うとおりだよ。」 「私もニューヨークに置いてきた息子のことを思い出してしまうわ。もうすぐ五歳になるのだけど。夫の母親が預かってくれると言うんで、思い切って一人で日本に来てしまったんだけどね。」 息子の話を始めたことで、リュボーフィは気が緩んできたらしい。また、ルスランとは昔馴染みということもあって、リュボーフィはだんだん本音を打ち明けるようになった。 「あなたたちは夫婦仲がうまくいっているみたいで羨ましいわ。ときどきは喧嘩することもあるのかしら?。」 「最近はほとんどないよ。」 「そう。私の方は、喧嘩どころか離婚するかもしれないの。ちょうど日本の大学への研修の話がきたから、夫との生活の最後の記念に、彼の先祖の祖国を見てみようと日本に来たの。だからもうこれで満足よ。 離婚すれば私も自分の祖国に帰れる。でもすぐには離婚できないわ。息子の親権は絶対に夫には渡さないつもりだから。モスクワに帰るときは必ず息子を連れて帰りたいの。」 「そうか、きみも大変なんだね。きみ自身が弁護士だったのだから、頑張って子供の親権を勝ち取りなよ。」 真名は気が気ではなかった。恐れていたとおりこんな話を聞かされてしまって、またルスランが相手の女に同情的になってしまわないだろうか?。しかも相手はあのリュボーフィなのだ。 レストランを出た後、別れ際にルスランはリュボーフィに尋ねた。 「いつ、合衆国に帰国するんだ?。」 「明後日よ。」 「そうか。今日は久しぶりにきみと話ができて楽しかった。今度はいつ会えるかわからないけど、元気でいてくれ。さようなら。」 リュボーフィの姿が見えなくなると、真名は黙り込んでしまった。ルスランは真名の機嫌が悪いことに気づいた。 「マーナ、いつまで気にしているんだ?。」 「彼女とモスクワで一緒に暮らせるかもしれないわね。よかったじゃない。でもマリーナは渡さないわよ。彼女自身の子供がいるんだから、そんな女にマリーナを任せるわけにはいかないわ。」 「わけのわからないことを言うなよ。」 「リューバに離婚を思い止どまるようには言わなかったじゃない。」 「何があったかわからないのに、思い止どまれなんて無責任なことを言えるわけないだろう。」 真名はルスランがいまいましくてならなかった。できれば彼を振り切ってしまいたかった。しかし重い書類鞄を肩にかけ、しかもマリーナを抱いていたことから、真名は早く歩くことができなかった。 「ほら、マリーナを寄越しなよ。重いだろう。」 その言葉を無視したままでいるのが、真名には精一杯だった。 その後、ルスランが真名の機嫌をとり続けたので、真名の気持ちもだいぶ和らいできた。しかしルスランはリュボーフィが合衆国に戻る日の朝、真名が出勤するのを待ってリュボーフィに電話をかけた。 そしてルスランはリュボーフィとの約束どおりに駅に行き、彼女とともに成田空港行きの電車に乗った。 「ルーシャ、マリーナはどうしたの?。」 「きみとは込み入った話になるだろうから、託児所に預けてきた。」 「そんなことをしたら、マーナが怒るんじゃないの?。」 「もう機嫌が悪くなっているよ。きみが離婚の話なんかするから、彼女をなだめるのが大変だったんだ。でもね、彼女は普段は明るくてやさしい女なんだよ。」 「そんなことはわかっている。私が彼女でも多分、心穏やかではなかったでしょうね。 でも、あなたが幸せそうで本当によかった。あんなにもきれいな人を奥さんにできたし、かわいい娘さんにも恵まれたしね。そのことを知ることができただけでも、日本に来た甲斐があったわ。そういえば、彼女とはどうやって知り合ったの?。」 ルスランは真名に拳銃で撃たれたことを含めて、彼女との出会いから結婚するまでのいきさつをすべて正直に話した。リュボーフィはますます、真名について感心したようだった。 「彼女はとても献身的な女性ね。それに、大胆なところもあるみたいね。」 「俺たちのことはそれくらいにして、きみの離婚の方はどうなんだ?。そのことを話してもらおうと思って、今日はきみに会いにきたんだ。幸い今日は仕事が入っていなかったから。 きみについては、たとえひどい仕打ちをされようとも、一度は愛した女だから幸せになってほしいし、もしそうでないなら、なんらかの形で役に立ちたいと思っている。 まあ、俺なんかたいして役に立つような助言はできないけどね。でも、本当に離婚するつもりなのか?。何が原因なのか、話してみてくれないか?。」 「実は、夫には愛人がいたの。同じ会社の同僚の女性みたいでね。彼女が家に押しかけてきて、私はロシアに帰れ、って罵しられたわ。それ以来夫とは別居していたし、日本への研修の話が持ち上がったとき、これ幸いとばかりに応募したの。」 「俺もね、自分の国に帰れと言わんばかりの嫌がらせをされたことがある。でも、こういう輩については黙って耐えるしかないだろう。問題はきみたち夫婦の関係だ。どうしても夫を許せないなら、がまんせずにモスクワに帰ればいいんだよ。きみならモスクワで仕事を見つけられるだろうし。」 「そうね、本気でそうしようかと思っていた。でも、私が別居したのみならず日本にまで来てしまったことに夫が慌ててしまったらしいの。彼は日本人の血をひくくせに、日本に来たことがないんですって。そういうわけでここ数日、何度か謝罪の電話がかかってきたわ。特に今朝は、必ず空港に迎えに行くから、なんて言っていたわね。 だから、ニューヨークに戻ったら、夫と話し合ってもう一度やりなおそうかと思っているわ。息子のためにも。そういうわけで、少なくとも今回は離婚にはならないと思う。心配をかけてごめんなさい。」 「そうか。それならそれでいいんだよ。きみに離婚されたら、俺が一度は人生を破滅させたのは何だったのだろうと思ったから。よかったね、リューバ。」 「ありがとう。やっぱりあなたはやさしいわね。多分、夫よりもあなたの方が私のことをより愛してくれたのかもしれない。その点は、私は間違っていたのかも。」 「でもね、俺が今一番愛しているのはマーナだよ。」 「そんなことはよくわかっているわよ。ただ、これだけは言わせて。あのころ、私は決してあなたを愛していなかったわけではないのよ。あなたに抱かれたときは、女としての喜びに浸りきることができたから。」 ルスランは困ったような顔をして返事をしなかった。しかし、彼のリュボーフィへの思いが少しずつ呼び覚まされていった。やがて電車は成田空港についた。 二人はロビーの長椅子に座り、飛行機の搭乗時間が来るのを待った。リュボーフィはしばらくの間、何かをためらっているようだった。 「ねえ、ルーシャ。夫は愛人ときっぱり別れてくれるかしらね。」 「きみと本気でやり直す気があるなら、別れるだろうな。」 「もし愛人と別れても、私は夫を許せるかしら?。」 「それはきみ次第なんじゃないか。」 「じゃあ、夫を許すためにも、私はささやかな復讐をしたい。それにはあなたの協力が必要なの。あなたしかできないことなの。協力して、お願い。」 リュボーフィはルスランの目をじっと見つめた。彼女が何を言わんとしているかはルスランにはすぐにわかったが、しばらくためらっていた。しかし、自分の気持ちを押さえ切れなくなったルスランは、とうとうリュボーフィに口づけした。 そしてルスランは立ち上がり、リュボーフィのトランクを持ち、彼女をロビーのすみに連れていった。 「きみは卑怯だ。俺の気持ちを見抜いているんだろう?。」 ルスランはリュボーフィの身体を激しく抱きしめた。モスクワで彼女と恋人同士だった頃を思いだし、胸が熱くなった。白夜の薄明かりの中で見たリュボーフィの白い身体を思いだし、再び彼女を得たいという衝動に駆られた。 「飛行機はいつ離陸するんだ?。」 「四十分後に。」 「ああ、あと二時間あればなあ。もっと早くきみと連絡をとればよかった。飛行機を遅らせることはできないのか?。」 「できないわ。だって夫が空港に迎えに来てくれるって言っていたから。」 「きみをこのまま帰したくはない。」 そのまま二人はしばらく抱きあっていたが、ついにリュボーフィが出国ゲートにむかわなければならない時間がきてしまった。 「ルーシャ、ありがとう。私はもう行くわ。」 そう言ってリュボーフィはゆっくりと身体を離した。 「またいつか、きみに会いたい。必ず会いたい。」 「私もよ。それまで元気でね。さようなら、ルーシャ。」 「さようなら、リューバ。」 リュボーフィを引き止めたくなる気持ちを押さえながら、ルスランは彼女の姿が出国ゲートの向こうに消えていくのを見つめていた。リュボーフィを乗せた飛行機が遥か彼方の空に消えていったのを見届けてから、ルスランはやっと空港をあとにした。 夕方になって真名が仕事から帰ってくると、ルスランはすぐに彼女に言った。 「今日、リューバから電話があったよ。やはり離婚はしないことにしたって。帰国したらご主人ときちんと話しあうからって。これできみも安心できるだろう?。」 「そうなの。」 ルスランはこのこと以外では口数が少なく、心ここにあらずという感じだった。ただならぬものを感じた真名は、マリーナを自分の部屋に連れていって、小声で尋ねた。 「マリーナ、今日は何をしていたの?。」 「ゆきちゃんと遊んだ。」 ゆきちゃんというのは、託児所でのマリーナの友達だった。だが、この日マリーナを託児所に預けたことは、ルスランからは聞いていなかった。 ルスランは大切な自分の娘を他人に預けて、昔の恋人に会いにいったに違いなかった。なんて情けないことなんだろう。真名はマリーナをきつく抱きしめた。マリーナも自分もとてもあわれに思えた。 それでも、このことでルスランを問い詰めてはいけない、と真名は自分に言い聞かせた。マリーナの前で諍いたくはなかった。 そんな母親の不安を感じ取ったのかどうかはわからないが、その日の深夜、マリーナが久しぶりに夜泣きをした。眠れなかった真名はすぐに飛び起き、マリーナを抱えて自分の部屋に行った。しかし、真名はマリーナを泣き止ませるわけではなく、娘の身体をかかえてじっとしていた。 「マリーナ、怖い夢でも見たの?。かわいそうにね。 ねえ、ママも一緒に泣いてもいい?。実はね、パパがママと目をあわせてくれないのよ。」 真名の目からも涙があふれてきた。 「パパはよその女の人を愛しているのね。でも、そんなパパでもママはとても愛している。ねえ、ママはどうしたらいいの?。」 マリーナの泣き声に紛らわせながら、真名も忍び泣いた。


第4章   大地 リュボーフィが帰国して一週間ほどたったころ、真名は新を呼び出し、とある喫茶店で彼に打ち明けた。 「私たち、この間、あのリュボーフィに会ったのよ。」 「そのことならルーシャから既に聞いています。だから、真名さんから会いたい、って言われたときは、おそらく用件はリュボーフィのことだろう、と思い当たりました。 彼女はどんな人でしたか?。俺も会ってみたかった。」 「きれいな人だったわ。」 真名はため息まじりに答えた。 「やっぱり女の人はそこが一番気になるんですね。真名さんだってきれいな人ですよ。」 「まあ、いいわ。それより、ルーシャが彼女のことをどう思っているか言っていなかった?。」 新にならルスランがリュボーフィへの気持ちについて本当のことを打ち明けているのではないか、と真名は考えたのだ。 「別に何も。ただリュボーフィと偶然再会して、そのため真名さんに激しく嫉妬されたということだけしか、彼は話しませんでした。」 「じゃあ、彼女が離婚するかもしれない、ということは?。」 「それは聞いていません。そうですか、それで真名さんは心配になったんですね。リュボーフィが離婚してモスクワに戻れば、ルーシャも彼女と一緒になるべくモスクワに帰ろうとする、と考えたんでしょう?。それはあまりにも飛躍しすぎですよ。いくら昔の恋人でも、一度再会したくらいで、簡単によりを戻せるものではないでしょう。 いや、そんなことよりも、どうして真名さんはそんなにルーシャを信じられないんですか?。俺と彼の付き合いは五年になろうとしていますが、俺のみたところ、彼はこの上もなくあなたを愛し続けてきたじゃないですか。」 真名はうまく答えられなかった。この間渋谷のレストランで見ただけでも、二人はいまだに心を通じ合っているということに真名は気づいていた。そして、彼女が帰国した日にルスランの心の中で生じた微妙な変化のことも。 「仮に、妻としての勘でなにかを感じ取ったとしても、一番夢中だったころに別れざるをえなかった恋人については、あとあとまで思いを引きずるものなのですから、そこのところは大目にみてあげて下さい。」 「そうなのかもしれない。だからといって、すぐには寛大になれないけどね。 それにしても、こんなふうにルーシャのことをこそこそ調べようとするなんて、さぞかし私のことを呆れたでしょうね。私も自分がとても恥ずかしい。」 「そうは思っていませんよ。彼がロシアに帰りたくなったら、いつでも帰国させてあげる。これは一時は真名さんの口癖でしたね。今回のことで、もし彼がリュボーフィを追ってモスクワに帰るつもりなら、潔く彼を見送ろう、と考えたのですね?。真名さんは強い人ですよ。」 「そんなことないわよ。私はすぐに感情的になるし、それに新さんもご存じのように、すぐに泣く女よ。」 「いいえ、強いですよ。いざというときには度胸がすわる、それが真名さんのいいところです。だからモスクワでルーシャの手当をしたり、病院に謝罪に行ったりしたんじゃないですか。それから、日本に戻ってきてから彼の前科のことで脅されても、毅然とした態度で対処することもできましたし。 ルーシャもあなたのそんな面をわかっているから、甘えているんですよ。でも、本当に女を愛している男なら、甘える一方ではなくて、いざというときには女を守ろうとするんです。男と女は、支え合うべきものなんです。 だから、リュボーフィと再会してしまっても、真名さんは自信をもっていいんですよ。リュボーフィよりもあなたのほうが、ずっと強い絆で彼と結ばれているんですから。」 新の言葉にはいつも納得させられる。やはり彼にリュボーフィのことを話してよかった、と真名は思った。 「新さんも、強い女がいいと思っているの?。」 「思っていますよ。だって、強くあらんとする女はいじらしいじゃないですか。ひたむきで健気で、戦友みたいにお互いに堅く信頼しあえる女が理想です。」 「それで、そういう人は見つかった?。」 「いいえ。俺の場合は女とつきあっても、長続きしません。まだ、理想の女に巡り合っていないんだな、と自分では解釈してきました。でも、もうすぐ三十歳になるので、そろそろ見合いをしようかなとは考えています。俺もマリーナみたいなかわいい子供は欲しいんです。」 「そういえば、今年の夏はロシアに行こうかと考えているの。ルーシャの叔母にあたるニーナさんという人に、マリーナを会わせたいのよ。これはルーシャが以前から強く望んでいたことなの。」 「いいですね。羨ましいなあ。 ところで、今日ここで俺と会ったことは、二人の間の秘密ということにしてください。ルーシャは真名さんに関することだけは俺を信用していませんから。あなたと二人きりで会ったなんて知られたら、俺はルーシャに殺されてしまいますからね。」 真名を励ますつもりで新はそう言ったのだろう。彼と秘密を共有することで、真名はルスランにささやかな復讐をしたつもりになり、彼への恨みが少し和らいだ。 一方、マリーナは父の恋心も母の悩みも知らずすくすくと成長し、両親に愛されて毎日を楽しく過ごしていた。そんなある日、ルスランの仕事が長引いたため、珍しく真名が託児所にマリーナを迎えにいった。 部屋に入ったとき、マリーナは床にひっくりかえって泣きわめいていたので、真名は非常に驚いた。これほど激しく泣く娘を真名は見たことがなかった。 保母の説明によれば、マリーナの三つ編みした髪を託児所の男の子の友達にひっぱられたということだった。このような乱暴狼藉に、幼いながらも女としての誇りを傷つけられたマリーナは、相手の男の子に取っ組み合いのけんかをしかけた。保母たちがすぐに二人を引き離し、相手の男の子に謝らせたが、マリーナの方はどうしても気がおさまらないらしかった。 真名は泣きじゃくるマリーナの手を引いて託児所を出た。多分、ルスランも間もなく帰宅するだろうが、こんな状態のマリーナを彼に見せるのはためらわれた。真名はマリーナを近所の公園に連れていき、彼女をぶらんこに乗せて押し続けた。マリーナの気持ちが静まるのを待つつもりでいた。 マリーナが泣きやむには時間がかかった。子供を見ていると自分や夫のことで再発見をすることがあるが、マリーナの気の強さは二人のうちのどちら譲りなんだろうか、と真名は考えた。自分もルスランもかっとするところがあるからだ。 マリーナがようやく泣きやむと、真名はまず彼女の顔を公園の水道で洗ってやった。次に、取っ組み合いでくしゃくしゃになったマリーナの三つ編みをほどき、彼女の黒みがかった茶色の髪を梳かしてやった。 そして真名はマリーナを公園のベンチに座らせ、自分もその隣に座った。 「マリーナ、もう悲しくないわね?。もう涙はでないわね?。」 「うん。」 「じゃあね、マリーナが今日大泣きしたことは、パパに言わないって約束して。」 マリーナが、寂しいとかひもじいとかという幼子の本能からではなく、具体的な感情を持って泣くようになってきたことを真名は感じ取った。マリーナがそれだけ成長したということだろうが、娘の泣く姿を見てルスランはどう感じるだろうか?。ともあれマリーナがあんなにも泣きわめく場面に現れたのがルスランでなく自分でよかった、と真名は思った。 「絶対言わないのよ。それからね、マリーナ。これからもパパの前では泣かないようにしてちょうだい。何故かというとね、パパはマリーナのことをとても愛しているから、マリーナが悲しんで泣くと、パパはマリーナの悲しみを想像して、同じ悲しみを味わってしまうのよ。だから、パパを悲しませないために、マリーナはパパの前では泣いてはいけないのよ。」 マリーナは自信がなさそうにうなずいた。まだマリーナには理解できないことかもしれないが、それでもルスランのためには言わずにはいられない真名だった。 「でもね、ママだけしかいないところでは泣いてもいいわよ。」 「どうして?。」 マリーナはひどく驚いたようだった。それは当然だろう、さっきとはまったく反対のことを言われたのだから。子供を混乱させると思いながらも、真名はマリーナ自身のために言わずにはいられなかった。 「それはね、女の子は涙を流すことで、悲しいことや苦しいことに耐えられる力が出てくるからなのよ。パパは男だから、そのことがわからないの。ママの前では思いきり泣いてもいいわよ。そのかわり、悲しいことや苦しいことに立ち向かっていけるよう強くなりなさいよ、マリーナ。」 真名は自分のことを振り返っていた。ルスランの気持ちがリュボーフィに傾き、そのことで真名は忍び泣いたが、そのため彼を静観することができてかえってよかったのだ。真名が問い詰めることなくじっと耐えているうちに、ルスランの心はいつの間にか真名の方へ戻っていた。リュボーフィへの思いは結局、一時的なものだったのだ。 真名がマリーナを連れてアパートに帰ると、すでにルスランも戻っていた。 「遅かったね。俺がマリーナを迎えにいった方がよかったのかな?。」 「そうじゃなくて、たまにはマリーナと二人きりでゆっくり話したいと思ったから。女同士の話を、ね。そうよね?。マリーナ。」 「うん。」 マリーナの顔には笑みが浮かび、泣いた形跡はもはやなかった。 やがて本格的な夏がやってきて、真名たちがロシアへ行く日が近づいてきた。真名は長い休暇がもらえず、ロシアには五日しか滞在できそうになかった。そこで真名は自分は先に帰国し、ルスランとマリーナにはさらに数日間ロシアに滞在することをすすめた。 そして六年ぶりにやってきたモスクワは、相変わらず排気ガスの匂いがたちこめていた。 「マリーナ、ここがパパの生まれ育った街なんだよ。」 久しぶりに故郷を目の当たりにして感激したルスランが説明すると、マリーナはぐるりとあたりを見回した。 彼らはまず、ルスランの母親のソフィヤのアパートを訪ねた。マリーナに会ってソフィヤが大喜びしたことは言うまでもない。このときルスランは初めて母の再婚相手と会ったが、穏やかに握手を交わすことができた。 次に彼らは、ルスランの警官時代の友人のユーリのアパートを訪ねた。ユーリは既に一人の男の子の父親となっていた。ルスランがユーリの妻のアンナと会ったのは、彼女を犯したあのとき以来だった。 ルスランは、アンナがいまだに自分を恨んでいることを感じ取った。彼女はひととおりの挨拶をしただけで冷ややかな態度を取り、ロシア語を解する真名やマリーナにも話しかけてはこなかった。 アンナの産んだ男の子と遊ぶマリーナを見て、ルスランは心が痛んだ。マリーナが成長して一人前の女になったときに、アンナのような目にはあってほしくない、と強く願わずにはいられなかった。だが、同時にそれが自分の身勝手だということもわかっていた。 二人の子供の歓声と、ユーリと真名との間では親しく会話がなされたことから、アンナの沈黙はルスラン以外の誰にも気づかれなかった。 それから三人は、ルスランの父と姉の墓に詣でた。晩年の父の寂し気な様子を思いだし、ルスランは是非とも生前の父にマリーナの顔を見せてやりたかった、と強く思った。そのマリーナは墓のまわりを無邪気に歩き回っていた。一方真名は、墓地の周囲に広がる草原を眺め渡していた。 「ルーシャ、あなたはやはり、ここのようなロシアの大地に葬られたいわよね。」 「そうだね、是非ともそうしてもらいたいな。きみは?。」 「私?。私もロシアは好きよ。だからロシア語を学んでモスクワに赴任させてもらったのよ。それであなたと巡り合うことができた。 でも、生まれ故郷の日本に葬られたいという気持ちもあるの。できれば海の見えるところがいいな。ほら、私は港町で育ったから。だから、どちらの国で眠りにつきたいかということは、まだ決められないわ。」 「つまり、俺たちは死んだら離れ離れになってしまうかもしれないのか。」 「生きている間に離れ離れにならないことの方が大切よ。」 真名のこの言葉は、ルスランの心に深く刻み付けられた。まったくそのとおりだ、とルスランは思った。 成田空港でリュボーフィに再び恋心を抱いたときですら、ルスランは彼女のために真名と別れようとは、まったく考えていなかった。ルスランはそのことを真名に知ってもらいたいと思ったが、結局何も言わなかった。もう二度と、リュボーフィのことで真名の心を乱したくはなかった。 その後、彼らはヤロスラヴリ駅から近郊列車に乗ってベレゾーゼロへ行った。まず彼らはニコライとスヴェトラーナの夫婦と、そしてマリーナ誕生のきっかけになった彼らの息子に会った。 次に三人はニーナの家を訪れた。ソフィヤと和解したとはいえ、やはりルスランにとってニーナは懐かしい母親のような存在だった。 マリーナを見たニーナは、本当の孫に会ったかのように感激して彼女を抱きしめた。それを見たルスランも心のつかえが取れたような気がした。ニーナの息子同様に彼女に孝養を尽くすと誓いながらも、日本に行ってしまったためにそのことを長い間果たせなかったからだ。 そしてルスランは、以前から気になっていたことをニーナに訪ねてみた。少し前にニーナは、マリヤにも子供がいると日本のルスランに手紙で書いて寄越したのだ。 「あんたが日本に行って二年くらいたったころ、マーシャがいきなり男の赤ん坊を連れてここに来たのよ。でも父親がどういう人かは、決して話してくれないのよ。多分、正式に結婚しているのではなくて、誰かの愛人になっているんじゃないかと思うわ。マーシャも子供も、着ているものは上等なのよ。だから相手の男は羽振りがいいんだろうけどね。」 「父親がどこのだれであろうと、叔母さんの孫には変わりないじゃないか。」 「そうよ。でも相変わらずマーシャのことは悩みの種なのよ。あんな様子ではいつまでたっても私は安心できないわ。せめてあの子の実の父親が生きてくれたら。そうでなければ、あんたがマーシャと。」 ニーナは真名を慮って、それ以上を言うのをやめた。 三人はそのままニーナの家に滞在していたが、やがて真名一人が先に帰国する日が来て、ルスランは彼女を駅まで見送りに行った。 「ルーシャ、あなたも必ず帰ってきてね。」 真名は不安げにルスランを見上げた。結婚してルスランが日本に来て以来、二人が遠く離れてしまうのは初めてのことであることから、真名は感傷的になっているようだった。 「絶対にきみのところへ戻るよ。」 ルスランは真名を安心させるべく彼女を抱き寄せ、口づけした。そして真名はやってきた列車に乗り、窓から手を振った。ルスランもそれに応えて手を振り、列車が見えなくなるまでホームに立っていた。 その二日後、マリヤがニーナのところに来ることになった。数日前ニーナはマリヤに電話をかけ、マリーナがどれほどかわいい女の子かを話して聞かせたのだ。それで対抗意識を燃やしたのかどうかはわからないが、マリヤも自分の息子を連れてルスランに会いにいくと言い出したのだ。 「マリーナ、ニーナ叔母さんの孫にあたるイリユーシャという男の子が、今日ここに来るんだって。マリーナにまた友達ができるね。」 「うん、嬉しい。」 「イリユーシャと彼のママは、もう少ししたらここに到着するって。そうしたら一緒に駅まで迎えに行こう。それまで外で遊んでいようか?。」 ルスランはマリーナを家の裏にある草原に連れ出した。ルスランは地面に腰を下ろして座り、マリーナは彼のまわりを歓声を上げながら転げ回った。 ルスランはそんなマリーナを見つめながら真名のことを思い出した。彼女はもうあの蒸し暑い東京に戻って、役所に出勤しているかもしれない。こちらは既に秋の清々しい風が吹いていた。 「マリーナ、遠くへ行くんじゃないよ。」 マリーナは思いきり走り回り、ルスランはそんな娘を羨ましく思った。確かに自分は七年前のあの夜から走ることができなくなった。だが、そんなことで自分は不幸になってしまっただろうか?。 ルスランは亡くなった父のことを思い浮かべた。自分の娘には先立たれ、その後、妻にも去られてしまったアレクセイのことを不幸な人だった、とかつてルスランは憐れんでいた。 しかし、愛する女とともに生き、そして自分の子供を持つという、この二つの喜びを味わえただけでも、人生は十分満たされたものになる、ということにルスランは気づいた。アレクセイにだって、ソフィヤと穏やかに暮らしていた日々もあれば、ローザと自分という二人の子供の誕生に歓喜したときもあったのだ。父もこの二つの喜びを味わってきたはずだ。 だから、父も自分では悪くはない人生だったと思っていたかもしれない、とルスランは考え直していた。そういえば父は亡くなる直前、自分に結婚をすすめていた。 これからの自分の人生においても、何が起こるかはわからなかった。しかし、真名と暮らし、マリーナが誕生したときの思い出さえあれば、何が起こっても自分の人生を悔いることはないだろう、とルスランは思った。
(終)





〜postscript〜
私が初めて書いた(正確には、完成させた)物語です。
最初でいきなり、大河ドラマを書いてしまったような感じです。



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