「ルスラン」第2部 青春

第1章   従姉

 時は、ルスランが傷害事件を起こす七年前まで溯る。
 馬に乗り草原を疾走するのは実に爽快だ。この世にこれほど楽しいことが他にあるだろうか、とルスランは思った。
 いつもベレゾーゼロに来てそうしているように、ルスランは草原を馬でひととおり駆けたあと、馬をつないでニコライの手伝いを始めた。
 ベレゾーゼロに昔から住んでいるニーナ=ゼムツォヴァの甥だというこのモスクワっ子は、ニコライの牧場ができてから、頻繁にこの村に来るようになった。
「この子はすでに姉を亡くしてほかに兄弟はいないし、母親も離婚して家を出ていったんです。どうかこの子をかわいがって下さいね。」
 そういう説明をニーナから受けなくてもニコライはルスランをとても気に入っていたし、彼が来るといつも歓迎して、望みどおりに馬で駆けさせた。ルスランはあっという間に馬を乗りこなすようになった。
 また、彼の話し相手になるのも、ニコライの楽しみの一つだった。
「ねえ、コーリャ。俺は牧場の仕事は大変だとは思わないよ。だから俺にもこういう仕事がつとまると思うんだけど。」
 ルスランがこう言い出すのもニコライにはもっとものように思われたほど、この頃のルスランは馬に夢中になっていた。
「残念だが、この仕事だってそれほど単純ではないよ。単に世話をすればいいというものではない。馬主から預かっている大切な馬については、病気にならないようにひどく気を使わなければならない。それに、馬を売るときの業者との商談だって、これはこれで結構大変なんだ。」
 それから五日たった日の夕方、ニーナがモスクワのルスランたちのアパートを訪ねてきた。ニーナは娘のマリヤの素行について、自分の兄であるアレクセイに愚痴をこぼし続けた。学校から帰ってきていたルスランも一緒になって話を聞いたのだが、マリヤはモスクワの友人のところに泊まると連絡を寄越したまま、もう一週間も家には帰っていないとのことだった。
 マリヤはニーナの最初の夫との間にできた娘だった。マリヤの父親は軍人だったが、彼女が幼いころに戦死してしまった。
 ルスランは従姉のマリヤとは幼いころは仲良しだった。当時はマリヤも朗らかな少女だったのだ。だがニーナがロギノフという酒癖の悪い男と再婚して、ロギノフがニーナとマリヤに暴力を振るうようになると、マリヤは自分の殻に閉じこもるようになった。
 当時ルスランはマリヤのそんな変化に心を痛めていたが、自分にも姉ローザの死や両親の離婚といった災厄が降りかかってきて、マリヤを救うような余裕などなかった。
 結局ニーナはロギノフと離婚したものの、マリヤは以前の彼女には戻らなかった。マリヤはルスランには背を向け、悪い仲間と交際するようになってしまった。
「うちのマーシャに比べると、ルーシャは本当にいい子だから、羨ましいわ。
そういえば、ルーシャはよくニコライさんの牧場に行って馬に乗せてもらっているみたいだけど、危険なことはしてはだめよ。あんたが馬に乗るのが好きなのは私も知っているけど、パパを心配させてはだめよ。パパにはもう、あんたしかいないんだから。
 ところで、あんたはもう恋人ができてもいい年でしょ。恋人はまだいないの?」
 ルスランは顔を赤らめながら首をふった。まだそいう話題は恥ずかしい年頃だった。
「そうなの? マーシャなんか、得体のしれない男をとっかえひっかえしているわよ。今に悪い男に利用されるのではないかと心配だわ。あんたみたいな真面目な男の子とつきあってくれればいいのにね。」
 ニーナはルスランを褒めちぎったあと、マリヤを連れ戻すべく出ていった。ルスランはついでに、父に自分のことについても相談に乗ってもらおうと考えた。
「ねえパパ。俺も話があるんだけど。学校を卒業したあとのことなんだ。ひとつやりたいことがあるんだけど、俺に向いているかどうかわからないし、だから今とても迷っているんだ。」
「そうか。おまえももうそんなことを考えなければならない年なんだな。相談にのってやりたいのはやまやまだが、私はずっと運転の仕事をしてきて他の仕事を知らないし、時代の流れを読む能力もない。
 だから、具体的なことはおまえが尊敬している人か、あるいは仕事を成功させて順調にやっている人に相談にのってもらうといい。おまえのママに相談してもいいんじゃないか?彼女は顔の広い人だしな。おまえがスケートの練習をやめてしまったから、彼女はおまえがどういうつもりなでいるのか、心配しているだろう。」
「ママになんか相談しないよ。ママの話なんかしてもらいたくない。」
 二年前にアレクセイと離婚したルスランの母親は、既に別の男と再婚していた。
「パパは俺がママに会っても平気なのか?」
「もちろん、おまえがママと暮らしたい、とまで言い出したら寂しいよ。だけど、ときどき会うくらいはかまわないよ。わたしたちが離婚したとはいっても、ママがおまえの母親であることにかわりはないのだから。」
「俺はもう子供じゃないから、ママなんて必要ないし、会うつもりもないよ。」
 次の週末に、ルスランは再びベレゾーゼロを訪れた。ニコライに用事があったせいもあるし、ある期待をも抱いていた。
 まずニーナの家に行ってみると、そこには珍しくマリヤがいた。これはルスランの期待どおりだった。
「あら、ルーシャじゃない。随分大きくなったわね。アリョーシャ伯父さんの背丈を越したんじゃないの?」
 ルスランが度々この村を訪れても、マリヤの方が留守にすることが多かったから、二人が会ったのは数カ月ぶりだった。いつもふらふらと出歩いているマリヤも、さすがに一週間も外泊したことを母親にひどく叱られて、しばらくはおとなしく家にいることにしたようだ。
 一方、自分が明らかに子供扱いされていることを感じ取ったルスランは、応戦にでた。
「マーシャは化粧が濃くなったね。老けて見えるよ。なんでそんなに厚化粧するの?」
 この言葉は効果てきめんだったらしく、マリヤは怒ってそっぽを向いてしまった。ルスランはくすくす笑いながら、ニコライの牧場まで走っていった。
 ルスランはいつものように馬の世話を手伝いながら、学校を卒業したら自分をこの牧場で働かせてもらえないか、ということを思い切ってニコライに頼んでみた。
「うーん、あいにくだけど、俺はまだこの牧場をつくったときの借金が残っているし、おまえに十分な給料を払うことはできない。悪いことは言わないから、もっと安定した仕事を探した方がいい。
 おまえにはどんな仕事が向いているかな?おまえは知恵をめぐらして稼ぐというようなたちではないよな。
 馬ならこれからも好きなときに乗せてやるよ。商売用以外に愛玩用にも必ず一、二頭は飼育するから。それが俺の楽しみでもあるし。
 それにしても、おまえは母親からフィギュアスケートの指導を受けていたんだろう?そっちの方面で選手になる方がずっといいんじゃないか?」
「もう練習はしないんだ。どうせ俺は大会で上位に入れるほどのレベルにはなれなかったから。」
「おまえは大学には行かないのか?」
「行かない。ママは行けってうるさく言ってきていたけどね。」
「どうやらおまえは母親に反発しているみたいだな。ママが嫌いだなんていっているうちは、おまえはまだ子供だよ。大人にはいろいろな事情があるんだから、そこのところをわかってやりな。」
 ルスランは舌打ちしたい気持ちだった。マリヤもニコライも好きだけど、何故二人とも自分を子供扱いするんだろうか?
 その後ルスランは夕食を一緒にするよう誘われていたので、ニーナの家に戻った。マリヤはまだ家にいたが、化粧を落として素顔に戻っていた。ルスランはそんなマリヤを美しいと思った。ルスランより二歳年上のマリヤは、既に大人の女の仲間入りをしていた。
 一方、マリヤはルスランの言葉にまだ腹を立てているらしく、食事中にルスランが話しかけても返事をしなかった。ニーナがたしなめても、マリヤの態度は変わらなかった。
 モスクワに戻る前にルスランはマリヤの部屋に入っていった。マリヤと気まずいまま帰りたくはなかった。
「マーシャ、さっきは悪かった。もう許してくれないかな?」
 マリヤの表情は険しいままだった。
「そうね、子供は口のきき方を知らないんだから、こっちが寛大になってあげなくてはならないわね。」  ルスランはまだこういう皮肉を込めた言い方に応える術を知らず、すごすごとモスクワに引き上げていった。

 それから六年がたって、ルスランはモスクワで警官として働いていた。
 このころのルスランには特に悩みなどなかった。父との二人暮らしを続けていたが、ありがたいことに父にも自分にも仕事があった。
 そして、仕事の方は順調にいっていた。ルスランは真面目に職務に取り組んでいて上司にも同僚にも信頼されていたし、悪質な犯罪者に遭遇しても、大抵は相手を負かして捕らえることができた。
 ある日ルスランは、怪我をして入院した同僚を見舞いに病院へ行った。そこで彼は、長い金髪を三つ編みにしている一人の看護婦に目がとまった。その日はそのまま帰ったが、日をおかずに再びその同僚を見舞った。もっともこのときは見舞いは口実で、別の目的があった。
 ルスランにとって幸いなことに、この日も例の看護婦は勤務していた。ルスランは人少なになったところを見計らって、彼女に声をかけた。
「ちょっと教えて欲しいことがあるんですが。」
「何でしょうか?」
「あなたの連絡先を。」
 唐突なルスランの言葉に、看護婦は呆れたような顔をした。
「私は今、仕事中なんですよ。」
「だったら、お仕事が終わってから改めてお会いしましょう。」
 言葉とは裏腹に、看護婦は機嫌がよかった。女としての誇りをくすぐられたのだ。彼女は自分の電話番号を書いてルスランに渡した。
「オーリャよ。」
「ルーシャです。じゃあ、今度どこかにお誘いしますよ。」
 これが、ルスランとオリガとの出会いだった。
 オリガと交際するようになってから間もなくして、ルスランはベレゾーゼロに行ってみた。このころニコライはスヴェトラーナと婚約したばかりで彼女の話をよく聞かされていたので、ルスランもオリガとのことを話した。
「おまえはオーリャと結婚したいと思っているのか?」
「まだわからないよ。知り合ったばかりだし。」
「そうだな。本当は結婚は若いうちにはしないほうがいいんだよな。俺の場合、借金をかかえていたから結婚が少し遅くなってしまったけど、かえってそれでよかったと思っている。今の俺だったら、スヴェータを大切にする自信があるからな。
 かなり若い男というものは、つまりおまえくらいの年齢の男は、ちょうど女を抱きたい盛りの頃だから、一人の女で満足できないことが多いんだ。
 女の方も、まだおまえと同じ年頃なら、ちやほやしたり世話を焼いたりすることが男の愛情だと思っている。だから、男と女はすれ違うことが多いんだ。
 でも、おまえもあと数年すれば、抱くことそのものよりも女を愛すること自体に充実感を感じるようになるよ。もちろん男だから、女の身体を全く求めなくなるわけではないけど。
 一方女の方は、歳月を重ねると性的快感がわかるようになるから、その分釣り合いがとれるようになるわけだ。そういう状況で相思相愛になれば、これは最高に幸せなことだと思う。
 もっとも相愛になったからといって、相手の女にのめり込みすぎないように気をつけるんだな。男女の間は何が起こるか本当にわからない。人生を狂わせることのないように気をつけないと。」
 ルスランはニコライの言わんとしていることが実感としてはよくわからなかったが、その後もオリガをいろいろな場所に誘い出しては楽しく日々を過ごしていた。
 そんなある日、従姉のマリヤからルスランに郵便物が送られてきた。驚いたことに、マリヤが出演するコンサートのチケットが一枚入っていた。マリヤがいつの間にか歌手になっていたというのも初耳だし、かつてルスランに対しては無愛想だった彼女が自分を招待するというのも意外だった。
 ルスランはオリガにチケットを見せて尋ねた。
「マリヤ=チェルヌィシェフスカヤって俺の従姉なんだけど、こういう歌手がいるって、きみは知っていた?」
「悪いけど、聞いたことのない人だわ。ごめんなさい。」
 それでもオリガが一緒にコンサートに行くことに同意してくれたので、ルスランは当日になって会場のライブハウスでチケットを一枚買い足して、彼女と一緒に入場した。
 小さいライブハウスだったが、中にはたくさんの客がいた。久しぶりに見たマリヤは、もともとの濃い茶色の髪を金髪に染めていた。肝心の彼女の歌声の方は、伴奏の楽器の音量が大きすぎて、よくは聞こえなかった。
 コンサート終了後にルスランは自分が出演者の親戚であると名乗り出て、楽屋に入れてもらった。マリヤは久しぶりに会ったルスランを無表情で迎えた。
「素敵なコンサートでした。とても楽しかったです。」
 オリガが花束を渡しても、マリヤはオリガをちらりと一瞥しただけだったので、オリガは居心地悪そうだった。ルスランの方は、マリヤのこういう態度には慣れていた。
「マーシャ、近いうちにうちに来ないか?パパもきみのことを気にかけていたし、叔母さんのことも含めて、きみとゆっくり話がしたいんだ。」
「それなら、さっさと済ましたいから、明日さっそく行くわね。」
「明日なら、多分パパもうちにいるから、ちょうどいい。」
 次の日になって、マリヤは約束どおりにルスラン父子のアパートを訪れた。父のアレクセイは前の晩から夜勤に出ていて、まだ帰宅してはいなかった。
「話って何?」
 マリヤは部屋に入ってくるなり、めんどくさそうに椅子に身を投げて座った。
「きみが歌手になったとは驚いたけど、昨夜の様子を見ると、なんとかうまくやっているようじゃないか。
最近、ベレゾーゼロには帰っているのか?ニーナ叔母さんのところには、頻繁に顔を出してあげなよ。ほったらかしにしておくなんて、叔母さんがかわいそうだよ。叔母さんはいつだってきみのことを心配しているんだよ。仕事がうまくいっているなら、ときどき叔母さんのところに帰ってあげるべきだよ。」
「あんな程度、うまくいっているうちにははいらないわよ。もっと大きな会場でコンサートをしたり、ディスクが売れるようにならないとね。
昨夜は初めてのコンサートだったのよ。来てくれて、一応はありがとう。でも、あんたを招待するんじゃなかったわね。」
「またそんな意地悪を言う。もっとも今では、そういうことを言われても平気だけどね。」
「あの頼りなさそうなルーシャが警察官になったって聞いたから、私だって驚いたわよ。だから、今のあんたはどんな風になったのかな、と思ってコンサートに招待したけど。
 でもヴァーシャがそのことを知って、あんたを仲間に入れようなんて言い出してしまったわ。」
「ヴァーシャ?誰だよ、そいつ?一体何をやっている奴なんだ?」
 ルスランはマリヤの恋人らしいヴァシリーという男が、どうもうさん臭そうなのを感じ取った。
「プロデューサーよ。」
「そうじゃなくて、奴は裏では何をやっているんだ?」
 マリヤはそっぽを向いて答えなかった。
「とにかく、そんな男と関わっているなんて、きみが心配だ。ニーナ叔母さんからきみの様子を見るように頼まれているし、これからはときどき会わせてもらうよ。いいね?」
「ママがそんなことをあんたに頼んだの?ルーシャ、あんたはばかよ。ママがそんな頼みをしたのは、あんたと私をくっつけて、あんたを本当の息子同様にしようと企んでいるに違いないんだから。
 ママはもともとは男の子が欲しかったの。それに、アリョーシャ伯父さんたちが離婚したときにあんたが伯父さんのもとに残ったことをとても喜んでいたし、あんたを本当にかわいがっていたものね。
 人にはいろいろな思惑があるのよ。それを見抜けないと、相手にいいように利用されるわよ。それがわからないなんて、あんたはまだ子供よ。なにもママの企みにひっかかることはないのよ。」
「叔母さんがそんなことを考えていたとは知らなかった。でも。」
 ルスランは口ごもりながらも、昔マリヤに伝えたいと思っていた自分の気持ちを告げた。
「俺はそれでもよかった。マーシャ、きみを愛していたから。」
「私はあんたのそういう気持ちにはとっくの昔に気づいていたわよ。でも、あんたはローザを亡くし、私はパパを亡くし、ともに親が離婚した。同病相憐れむというのは、惨めな感じがして嫌だったわ。」
「俺としてはあのころ、もっと頻繁にきみと会いたかった。ママがパパを捨てて、さっさと他の男と再婚したって聞いて、とてもやり切れない気持ちでいたから。
 でも、きみが俺をいつまでも子供扱いしていたから、きみに打ちあける勇気がでなかったんだ。」
「私の方は、金のある男をつかまえて贅沢な暮らしをし、情けない子供時代を忘れたい、と必死だったわ。だから、あんたが私に近寄ってこないようにしていた。
 数カ月ほど前、ちょっとした知り合いから歌を歌ってみないかと誘われて、こういう仕事をするようになったの。もし、これからディスクが売れるようになって自分でもそれなりに稼げるようになれるなら、何も金のある男にこだわる必要はない、と考え方を変えたわ。
 それに、あんたも一人前になったようだし、これだった惨めな子供同士が慰めあう、ということにはならないわ。そういうわけであんたをコンサートに招待したの。」
 ルスランは、マリヤの自分を見つめる目がやさしくなったことに気づいた。
「お察しのとおり、ヴァーシャは私の恋人よ。でもあんた次第では彼と手を切ってもよかった。だって彼は妻子持ちなんだもの。でも、あんたはよりによって自分の恋人を連れてきてしまったわね。」
 チケットがたった一枚しか送られてこなかったことには、マリヤの賭ける気持ちが込められていたのだ。しかし、ルスランは何と返事していいものかわからなかった。今の自分にはオリガがいて、マリヤの気持ちに応えるわけにはいかなかったからだ。
「黙っていないで、なにか言ってよ、ルーシャ。」
「俺がきみより年長だったら、きみと叔母さんをロギノフの暴力から守ってやれたのに。子供のころは、そのことがとても悔しかった。今だったら、きみを十分に守ってやることはできるよ。自信もある。」
「それで、本当にそうしてくれるの?昨日連れてきたあんたの恋人はどうするの?」
「わかった。じゃあ、少しだけ考えさせてくれ。」
「いいわよ、考えなくても。」
 マリヤの口元に皮肉そうな笑いが浮かんだ。
「あんたには、私よりあのおとなしそうな女の子の方がお似合いよ。私が今日ここで言ったことは、すべて忘れて。」
「マーシャ、突っ張らないでくれ。」
 ルスランはマリヤをなだめるべく、彼女の腕をつかんで自分の方に引き寄せ、彼女に口づけした。マリヤは意外にもルスランにされるままになっていた。
 ルスランは、マリヤに片思いをしていた少年時代を思い出して胸が熱くなった。マリヤに何度も口づけしたり彼女の髪をなでたりしながら、ルスランは迷った。このままマリヤを抱いてしまおうか?そういえば、もうすぐ父が勤務から帰ってくるはずだった。
 いや、本当にマリヤを愛していれば、父に知られてもかまわないではないか。しかし、オリガのことはどうしたらいい?
 マリヤはルスランが次の行動に出るのを待っていたが、彼が迷っているのを感じ取って身体を離した。
「私、もう帰るわね。」
「いや、せめてパパに会っていってくれ。もうすぐ戻ってくるはずだから。」
「すぐ帰るわ。あんたが迷っているところを見たくないの。」
 マリヤはルスランが止めるのを振り切って部屋を出、玄関のところで振り返った。
「私の代わりにこれからもママを気遣ってあげて。私はベレゾーゼロには帰りたくない。ロギノフと暮らしていた頃を思い出すから。」
「そうするよ。」
「ルーシャ、今日のことは気にしないで。私たちは従姉弟なんだから、これが永遠の別れとなるわけじゃないのよ。
 じゃあね、ルーシャ。また気が向いたら会いましょうね。」
 ルスランはマリヤが帰った後も、まだ間に合うのではないかと悩み続けた。マリヤと交わした口づけが甘くも苦くも思い出された。父が帰ってきても、マリヤが来ていたことは話さなかった。
 しかし、その後オリガと会い続けていくうちに、ルスランのマリヤへの迷いは消えていった。
 ある日ルスランはモスクワ郊外の森にオリガとピクニックに出掛けた。ルスランは野原に寝転がり、オリガは乱れた三つ編みを直すべく、髪をほどいて梳かし始めた。オリガの髪が風に吹かれている様を見て、ルスランは彼女を美しいと思った。
 同時に、たとえ一時であってもなぜオリガと別れようかどうか迷ったのだろう、と後悔した。
「オーリャ、二人きりになれるところへ行かないか?」
 オリガははにかみながらも頷いた。二人は立ち上がり、森の奥へ消えていった。


第2章   裏切り

 早春、ニコライとスヴェトラーナの結婚式が行われ、ルスランも出席した。
 ルスランはウェディングドレス姿のスヴェトラーナを見て、オリガのことを思い浮かべた。オリガは自分との結婚を望んでいるだろうか?
 オリガと出会って半年ほどがたったが、ルスランはまだ積極的に結婚のことを考えてはいなかった。両親の結婚生活の破綻を見ていたから結婚に期待を持っていなかったし、父にオリガのことを話してもいなかった。
 しかし、そろそろ結婚のことを具体的に考えてもいいのかもしれない。オリガもその話がでるのを待っているかもしれなかった。まずは彼女の意志を確認してみよう、とルスランは考えた。
 しかし、ルスランにとって思わぬ運命の変化が待っていた。
 結婚式に出席してから数日後、警察署でルスランに面会したいという者が現れた。それは長めの金髪をした若い女だった。
「私はカイサロフ法律事務所のミャスコフスカヤという者です。あなたがゼムツォフさんですね?」
 女は西欧製と思われる高級そうなスーツを着て、それが女を上品に見せていた。
「そうです。」
「あなたが昨日逮捕したシーシキンのことなんですけど。彼に接見してきたんですが、彼は逮捕されるとき、あなたから暴行を受けた、と言っていました。」
「それは、奴が抵抗するからですよ。」
「でも彼は、手錠をかけられて抵抗できなくなってからもあなたに殴られた、と言っていました。」
「誰だって、ばかやろう、とか死んじまえ、と悪態をつかれて喜ぶ人はいませんよ。あなただってそうでしょ?」
 どうやらこの女弁護士は、自分のところに抗議に来たらしい。ルスランはやんわりと抗議をはぐらかそうとしたが、女は引き下がらなかった。
「そもそも警察は、法を守り治安を維持するのが本来の役割なのに、私の見たところ、そういう気持ちは持っていないようね。どちらかというと、そこに犯罪者がいるから追いかけて捕まえる、という感じなんでしょう?」
「それはそうかもしれません。確かに、モスクワの市民は警察を信用していないでしょうね。ですが、俺たちはそれなりに必死になって職務についています。そこのところはおわかりいただきたいですね。」
 そしてルスランは声をひそめた。
「俺だったらよかったものの、さっきみたいなことを他の連中に言ったら、あなたは怒鳴りつけられていたと思いますよ。」
「それくらいは私は覚悟していたわ。だってロシア人て昔から順法精神がないから、そのために西欧諸国から遅れをとっているんだ、と思って悔しかったんだもの。
 でも、あなたが思ったより悪い人じゃなくてよかったわ。シーシキンが話していたよりは、ずっといい人みたいね。」
「彼は俺が自分よりも強いから、妬んでいるんですよ。」
 二人は顔を見合わせて笑った。
「まあ、今日のところはもういいわ。これからはほどほどに、ね。」
 ミャスコフスカヤ弁護士が帰ったあと、そばで二人の話を聞いていた警官が不愉快そうに言った。
「生意気な女だなあ。」
 しかしルスランはそうは思わなかった。口ではきついことをいいながらも彼女の目は笑っていて、愛嬌があった。それに彼女からは知性が感じられて、その点がルスランには新鮮に思われた。
 それからさらに四、五日ほどたって、ルスランは再びミャスコフスカヤ弁護士と会った。警察署の玄関ですれ違ったのだ。
「お元気?相変わらず暴れまわっているのかしら?」
 彼女がからかうように話しかけてきたので、ルスランも笑顔で答えた。
「俺は職務を忠実にこなしているだけですから。」
 それだけのやりとりだったが、このことはルスランの心に深く刻み付けられた。ルスランはまた彼女に会いたいと思い、勤務を終えるとカイサロフ法律事務所を訪れた。
 ミャスコフスカヤ弁護士は不在だったので、ルスランは自分の名前と電話番号を事務員に伝えて帰宅した。ルスランが期待したように、しばらくたって彼女から電話がかかってきた。
「一体何の用なの?警官が押しかけてくるなんて何かあったのか、って事務所の人に怪しまれてしまったじゃないの。」
「あなたに相談したいことがあるんです。法律相談じゃなくて、個人的なことです。どうか、知り合いになったよしみで、俺を助けてくれませんか?」
 そこで後日、二人は市内のカフェで会うことになった。
「実は、俺は転職しようかなあ、と思っているんですが。」
「そういうことなら、私よりご両親と相談したほうがいいんじゃないの?」
 ミャスコフスカヤ弁護士はルスランの真意を測りかねていた。しかも、目の前の男はなぜか自分に対してひどく緊張しているようだった。
「俺は結構腕には自信があるんですよ。ですから民間の警備会社に移れば、今よりも収入を得ることができるかな、と考えています。そうすれば、恋人にいくらでも贈り物をすることができますからね。
 あなたような女性でも、恋人から贈り物をもらうと嬉しいでしょう?どうなんでしょう、頭のいい女性を口説くにもやはり贈り物をするのが一番なんですか?教えて下さいよ、リュボーフィさん。」
「そうね、女の心はそんなに単純ではないのよ。高価な物を贈れば女を思いどおりにできると勘違いしている男って多いけど。」
「じゃあ、もしあなただったら、どういうときに男に心を動かされますか?」
「私だったら?私だったら、堂々と男らしく自分の気持ちを打ちあけてくれたら、嬉しいわ。」
「そうですか。じゃあ、聞いてください。」
 ルスランは一呼吸おいて、力強く言った。
「俺はあなたを愛しています。」
 リュボーフィは非常に驚いて、ルスランの目をじっとみつめた。まさかこんな話しになるとは、まったく思っていなかった。
「ええと、その、なんて言ったらいいのかしら?突然のことだし。」
「もちろん、いい返事を聞かせて下さい。後日でいいですよ。今日はあなたはとても驚いていらっしゃるようだし。それに俺も、今日のうちにここまで言うつもりはなかったんです。また連絡します。」
 ルスランは平静さを装って自分のアパートに戻ったが、心の中は喜びで一杯だった。リュボーフィを愛していると気づき、矢も盾もたまらず打ちあけてしまったが、とりあえず彼女は自分を拒否しなかった。
 だが、オリガのことを思い出して、ルスランは悩み始めた。今まではオリガを愛しているつもりだった。しかし、リュボーフィのことも愛してしまった。どうしてこんなことになってしまったのだろうか?母が聞いたら、ルーシャの惚れっぽいところはママ譲りね、と笑い飛ばすに違いなかった。
 ルスランにとって、二人の女とつきあうということはできない相談だった。そこで、オリガとは別れることに決めた。オリガには特に不満はなかったし、彼女との結婚の話をすすめようとすら考えていた。こういうことになってしまって、オリガがあわれに思えた。
 しかし、ルスランはマリヤのときのように迷いはしなかった。なぜならリュボーフィの方がずっと魅力的に思えたからだ。
 ルスランがオリガと別れるためにとった方法は、多くの男たちがやっているように、連絡を途絶えさせるということだった。別れる理由を教えてくれ、と相手の女に頼まれても困るし、女が悲しむところを目の前で見たくはなかった。
 その一方で、リュボーフィにはときどき電話をかけ、あたりさわりのない話題で彼女との繋がりを保ち続けた。
 半月ほどが経過したある日のこと、ルスランが勤務から帰ってくると、父が居間で酒を飲んでいた。離婚して以来、アレクセイは酒の量が増えた。父が一人で飲んでいる様子はとても寂しそうで、ルスランはできるかぎり父の話し相手になるように努めていた。
 このときもルスランは父の酒の相手をしようと、コップをもってアレクセイの向かい側に座った。
「ちょうどよかった。ルーシャ、おまえに聞きたいことがあるんだ。」
 アレクセイはルスランのコップにウォッカを注いだ。
「ルーシャ、おまえはまだ結婚しないのか?実はさっき、オリガという女の人から電話があったんだよ。」
 オリガとは別れると既に決めていたから、ルスランは彼女のことについては何も説明ができなかった。
「オリガはおまえの恋人なんだろう?ときどき家にも連れてきているみたいだしな。もし、彼女さえよければ、早く彼女と結婚しなさい。
 おまえがわたしのことを愛してくれているのはよくわかっている。でも、わたしに遠慮をする必要はないんだ。おまえももう二十三歳だからな。」
「ありがとう。結婚する気になったら、きちんとパパに話すよ。それより、パパこそ再婚しないのか?もう結婚生活はこりたのかな?」
「そういうわけじゃないんだ。」
「じゃあ、なぜ再婚しないの?ママはとっくに再婚したのに。」
「それはな、結婚したいと思える人が、もうどこにもいないからなんだ。」  別れた妻に未練があるのか、とルスランは父に尋ねたかった。その言葉が喉まででかかったが、結局、質問することはできなかった。もしそうだとしたら、あまりにも父があわれだった。そんな父の前で自分が幸せそうに結婚生活をおくるのが、ひどくためらわれた。
 それから二、三日して、ルスランは酔っ払いが住宅街で騒いでいるとの通報を受け、パトカーで現場に駆けつけた。その酔っ払いをなだめて帰宅するよう説得してから、警察署に戻るべくパトカーに乗ろうとしたとき、若い女が近づいてきた。
 それはオリガだった。彼女はたまたま近くにある友人の家を訪ねたのだが、酔っ払いが騒いでいるのを窓から見ていた。そして偶然にもルスランが現場に来たので、オリガも外に出てきたのだ。
 オリガを見たルスランは、とっさに彼女を道の隅に連れていった。予想通りオリガは非難がましい目をルスランに向けた。
「ルーシャ、このごろ全然連絡をくれないじゃない。何故なの?」
「オーリャ、俺は今勤務中なんだ。」
「はっきり言いなさいよ。」
 オリガは声を荒げた。オリガはいままでこんな言い方をしたことはなく、それだけ彼女が思い詰めていたということをルスランは感じ取った。
「もうきみには会わない。許してくれ。」
 オリガの顔が歪んだ。泣き出すな、と思った瞬間、ルスランはその場から逃げ出し、パトカーに飛び乗った。
「あーあ、泣かせたな。」
 パトカーの中から一部始終を見ていた同僚の警官が冷やかすように言ったが、ルスランは煩わしくて返事をしなかった。
 それから少しの間、ルスランはオリガへの罪悪感に悩み、彼女に謝罪の手紙を書こうとも考えた。しかし、結局は彼女への手紙は書くことができなかった。オリガどころでないことが起こってしまったからだ。
 オリガと別れ話をした次の日は夜勤が入っていた。真夜中になってマフィア同士の抗争に端を発した銃撃戦が起こり、ルスランも現場に駆けつけた。まだ雪の残っている道を這いずり回りながら、マフィアたちに向かって拳銃を撃った。連中も警官たちに容赦なく銃弾を浴びせ、そのうちの何発かはルスランの身体をかすめそうになったし、彼のそばにいた警官が一人、肩を撃たれて病院に運ばれた。これほど激しい銃撃戦は、ルスランにとっては初めてだった。
 夜明け近くになって犯人を数名逮捕することができた。そのうちの一人は、ルスラン自身が手錠をかけた。逃亡した連中については、ほかの警官が追跡してくれることになった。逮捕した連中を警察署に連行して後始末をし、ようやくルスランは帰宅することができた。
 アパートについたときは、既に太陽は高く昇り周囲は明るかった。ルスランはぼろぞうきんのように疲れきって、居間の椅子にどっかりと腰を下ろした。
 すぐにでもベッドに倒れ込んで眠りたかった。だが、父がまだ起床しないのが不思議だった。アレクセイはこの日、勤務が入っていたはずなのだ。ルスランはアレクセイの部屋の戸を叩いた。
「パパ、仕事には行かなくてもいいのか?」
 返事がなかった。ルスランが部屋の中に入ると、アレクセイはベッドに横になっていた。
「どこか具合が悪いの?」
 アレクセイは微動だにしなかった。悪い予感を覚え、脈をみようとルスランがアレクセイの手をとってみると、その手は冷たかった。ルスランはアレクセイの頬にも触れてみたが、そこも冷たくなっていた。
「パパ、パパ。」
 ルスランは父の身体を揺さぶった。すべてを悟ったルスランの目に涙が滲み、彼は父の身体の上に突っ伏した。

 意外なことに、ソフィヤはアレクセイの葬儀にやってきた。
 ルスランが母と会ったのは七年ぶりだった。両親が離婚したあともルスランはスケートの指導を受けるために、ときどきは母と会っていた。しかし、ソフィヤが再婚してからは、ルスランはかたくなに母と会おうとはしなかったのだ。
 ルスランは目を伏せて、ソフィヤと口をきこうとはしなかった。一方ソフィヤの方も、自分の息子に声をかけられなかった。久しぶりに会った息子は、自分の前夫にひどく似てきていて、そのために気後れがしたのだ。
「伯母さん、来てくれてありがとう。」
 ルスランの代わりにマリヤがそっとささやいた。
「ルーシャがあまりにもかわいそうで。でも、どんな言葉をかけてやったらいいのかわからないわ。あの子は再婚したことで私を恨んでいるみたいだし。」
「そういうところが、ルーシャはまだ子供っぽいんですよね。」
 マリヤの方は、参列者の中にオリガがいないことを不思議に思っていた。しかし気まぐれなマリヤは、数日もたつとそのことを気にしなくなってしまった。
 ルスランは、葬儀に参列してくれたことで、母に対するわだかまりが少し解けたような気がした。それでも、母と交わすべき言葉は見つからなかった。
 父を埋葬したあと、ルスランに以前と変わらない生活が戻ってきた。父と暮らしていたアパートでたった一人で寝起きをし、仕事にでかけた。
 スケートの仕事と姉ローザの看病に忙しかった母とは異なり、父はよく幼いルスランの話し相手になってくれた。父と交わした数々の言葉を思い出しながら、部屋でぼんやりと過ごす日々が続いた。しばらくの間はリュボーフィとも連絡をとらなかった。
 しかし、日がたつにつれて孤独が身に染みるようになり、リュボーフィにたまらなく会いたくなってきた。そこでルスランはリュボーフィの仕事が終わるのを待って、公園で彼女と待ち合わせた。
「しばらく連絡しなくて悪かったね。父が急死したんだ。父と二人だけの家族だったから、なんだか心が半分死んだような気がする。でも、残りの半分がきみを求めているよ。このままきみに連絡しないでいるときみを失うかもしれないと思って、今日は会いにきた。」
「それはお気の毒だったわね。お父さんに神のご加護を。」
 ルスランは、まだ日が沈みきっておらず薄明るい公園を見渡した。春の訪れを実感して、ルスランは父の死の悲しみが癒されるような気がした。
「今度会うときにこそ、きみを俺のものにするよ。リューバ、きみを愛している。」
 ルスランはリュボーフィの身体を抱き寄せ、ためらいながらも彼女に初めての口づけをした。
 その日はそれで帰ったものの、数日たってルスランは自分の言葉を実行した。リュボーフィを自分のアパートに連れてきて、彼女を抱いた。その後も独りぼっちになった寂しさを埋めるべく、彼女を求め続けた。
 その年の春から夏にかけては、白夜の薄明かりのなかでリュボーフィを抱き、少し話をし、その夜のうちに帰ろうとする彼女を送っていく、という日々が続いた。
 リュボーフィはルスランには何も求めなかったし、アパートで会うだけで、どこかに連れていって欲しいとも言わなかった。ルスランが外で会おうと誘っても、特に行きたいところはない、と断った。
 リュボーフィは、ただ抱かれるだけで満足しているように思われた。リュボーフィは無欲な女だとルスランは解釈していた。人前に出たがらない恋人というのはなにか後ろ暗いところがあるのかもしれない、ということに、愚かにもルスランは気づかなかった。
 一度だけルスランはベレゾーゼロにリュボーフィを誘ったことがあった。そのときはリュボーフィもすぐに誘いに応じたが、当日の朝になって急用ができたから、と断わってきた。仕方なくこの日は一人でベレゾーゼロに行き、ニコライにリュボーフィを新しい恋人にしたことを話した。
 やがてルスランはリュボーフィと結婚したい、と考えるようになった。どこか謎めいたところのあるリュボーフィほど愛した女はいなかった。父が死んで一人になってしまったことも、結婚に積極的になった一因だった。
 幸いにも、住むところなら今自分が住んでいるアパートがちょうどいいし、結婚にこれといった障害はなさそうだった。
 そこでルスランは、リュボーフィと付き合い出してから三カ月ほどたったある夜、彼女に結婚の意志があるかどうかを尋ねてみた。残念なことに、リュボーフィの方は結婚に消極的だった。
「実は学生時代に結婚したことがあるのよ。半年しかもたなかったけどね。だからよほどのことがない限り、また結婚したいとは思っていないわ。
 もちろん、あなたのことは愛している。私は今のままでも十分よ。とにかく、結婚はもう少し先になってから考えましょう。」
 こんな返事をされると、ルスランの方はどうすることもできなかった。オリガと別れたばかりということもあって、ルスランはリュボーフィとの関係をニコライ以外には話さなかったし、誰にも相談できなかった。
 それから一カ月ほどたった秋の初めの日、珍しくリュボーフィの方から会いたいと言ってきた。公園で待ち合わせたルスランは、リュボーフィから別れを告げられた。ルスランには思ってもみないことだった。
「どうして別れようなんて言うんだ?俺になにか不満でもあったのか?それならそうと教えてくれればいいんだ。だから別れようなんて言わないでくれ。」
「違うのよ、ルーシャ。ニューヨークの大学院に留学することが決まったのよ。そういうわけだから。」
「留学する?それはよかったね。会えなくなるのは寂しいけど。でも手紙を書くし、できればニューヨークまで会いにいくよ。そして、きみが留学から帰ってきたら結婚しよう。」
「そういうわけにはいかないのよ。」
「どうして?もしかして留学以外にまだ何か理由があるのか?」
 リュボーフィはなかなか訳を言いたがらなかったが、ルスランもしつこく彼女を問い詰め続けた。ついに、リュボーフィは本当のことを打ちあけた。
「実は私、結婚を申し込まれたの。日系アメリカ人のビジネスマンで、うちの法律事務所が顧問弁護士をしている合弁企業の社員の人よ。その人が、私をニューヨークに留学させてくれるというの。」
 思ってもみなかった話だが、これでリュボーフィが外でルスランに会いたがらなかった理由がわかった。万が一にも、リュボーフィがルスランといるところをその男に見られたくなかったのだ。
「驚いたね。つまりきみは俺の他にも恋人がいたってことか?きみはそんな女だったのか?
  確かに俺も、きみと知り合ったばかりの頃は恋人がいたよ。でもきみを選んで彼女とは別れた。どうして俺にもできないことをきみはしたんだ?」
「私、その人のことをずっと愛していたの。でも彼には奥さんがいたから、一度は彼のことを諦めたわ。それが、今年の春に彼が離婚したからって、私のことを誘ってくれるようになったの。
 ちょうどそのころ、あなたがお父さんを亡くされたっていうから、あなたを慰めてあげたいという気持ちもあった。だから、あなたとも会い続けたの。」
「それが俺に対する思いやりだと?今になって裏切るなんて。俺だってきみとの結婚を考えていたことは、きみだって知っているだろう。
 なあ、リューバ。俺にはもう家族がいないから、きみと結婚して新しい家庭が欲しいんだ。だから俺と結婚して欲しい。」
「あなたにはまだお母さんがいるじゃない。ご両親が離婚なさっても、あなたのお母さんであることにかわりはないのよ。」
「母とはもう縁が切れたんだよ。俺はきみと一緒に生きていきたいんだ。」
「お願よ、ルーシャ。わかってちょうだい。」
 いくら懇願してもリュボーフィの決意が変わらないということを、ついにルスランは悟った。
「だったらせめて、奴に一度会わせろよ。」
「だめよ。彼には何も話していないし。それにあなた、もしかして彼に乱暴するんじゃないの?」
「この怒りのやり場をどこに持っていったらいいんだ?俺の大切な女を奪われて、だ。それくらいさせてくれたっていいだろう。」
「それなら、この私を気の済むまで殴っていいわ。」
 明らかにリュボーフィにとってはルスランよりもその外国人の男の方が大切なのだ、ということがわかった。ルスランは苛立ち、皮肉な笑いを浮かべた。
「それはおもしろい。俺がきみを病院送りにしてやれば、奴はきみがなぜそんな目にあったのか聞いてくるだろう。そうすれば奴にも俺とのことがばれるってわけだ。」
 ルスランはいきなりリュボーフィの胸倉をつかんだが、やはり彼女を殴ることはできなかった。すぐにルスランは彼女の身体を放り出した。地面に叩きつけられたリュボーフィは上半身を起こしたものの、ルスランの見幕に脅えて泣き出してしまった。
「帰れよ。さっさと帰れ。」
 泣き声を聞きたくなくて、ルスランは怒鳴りつけた。リュボーフィはすすり泣きながら公園を出ていった。
 あとに残されたルスランはベンチに座り、根が生えたようにそこから動けなくなってしまった。本当にリュボーフィとは別れてしまったのだ。そのことが信じられなかった。あんなにも愛した女だったのに。
 父もかつて他の男に妻を取られてしまったが、自分も同じ目にあってしまった。しかも、よりにもよって外国人の男に。
 どれくらいの時間、そこにいたかはわからない。ルスランがふと通りに目をやると、二人の警官が歩いているのが見えた。夜の巡回をしているのだった。
 彼らと顔をあわせたくなくて、ルスランはすぐに公園を出ていった。ルスランは騒いでいる客のいない静かな酒場を探して入った。他に二、三人の客がいるだけだった。
 店の女主人は一杯目のウォッカは黙って出してくれたが、ルスランが二杯目を頼むと、もう店を閉めるから、と断った。
 かっときたルスランはコップを床に叩きつけ、ルーブリ札を女に放り投げて店を飛び出した。もはやどこにも行くあてがなかったので、地下鉄で自分のアパートに帰った。
 服を着替えずにベッドに倒れ込んだルスランだったが、当然眠れるはずがなかった。うつらうつらと眠りに落ち、いとしいリュボーフィを抱きしめている夢を見ては目を覚まし、リュボーフィを奪っていった、名も顔も知らない外国人の男を殴っている夢を見ては目を覚ました。
 夜が明けてもルスランはそのままベッドの上に横たわっていた。何も食べず、何もせずにずっとリュボーフィのことを考え続けていた。だが、夕方になって出勤すべき時間がきたので、仕方なく起き上がった。この日は夜勤が入っていた。
 この後ルスランの身に起こることを思えば、仮病でも使って勤務を休んだ方が彼のためにはよかったのかもしれない。しかしルスランは、リュボーフィ以外のことを考える気力を失っていた。無意識に支度をしてアパートを出た。
 いつものように警察署に入り、制服に着替えた。点呼を受けた後、保管庫から取り出された拳銃を身につけ、ルスランはパトカーに乗った。その夜ルスランと巡回に出ることになったのは、ブレーニンという男だった。
「ゼムツォフ、どうしたんだ?なんだか機嫌が悪そうだなあ。今度、俺の兄がやっている店に飲みに行かないか。おごってやるから、機嫌をなおせよ。」
 ブレーニンの兄は何件かの飲食店を経営していたが、マフィアとの関係が取り沙汰されていた。だから同僚の警官たちの間では、ブレーニンは捜査情報を得るために警察に送り込まれたんだ、と冗談ともつかないうわさが流れていた。
 はしゃいでいるブレーニンの話を要約すると、前の晩に彼の兄が経営する店で気に入った女が見つかり、彼女と一晩中飲んで騒いでいたらしい。
 パトカーはモスクワ一といえるほど上機嫌な男と機嫌の悪い男を乗せて夜の街を走った。そのうちブレーニンは助手席でうとうとと居眠りを始めた。ルスランはリュボーフィとその婚約者のことを思い詰めながら、無意識にパトカーを運転し続けた。
 パトカーがカメンスカヤ通りにさしかかったとき、ちょうど一人の東洋人が車を止めて下りてくるところが見えた。
 もうこれ以上、モスクワに外国人がうろつくことは我慢ができない。そう思ったルスランは発作的にパトカーを止め、その男の後を追いかけていった。


第3章   罪人

 殺される。
 あの日本人の男は、憎しみを込めて自分に銃口を向けた。その男が自分を憎む理由はわかっていたし、男はまちがいなく本気で自分を殺すつもりに違いなかった。
 しかも、男は至近距離にいることもあって、もし引き金を引いたら、確実に自分の身体に弾丸が当たるはずでもあったのだ。
 ルスランは警官になってから、死ぬかもしれないと思ったほどの危険な目にあったことは何度かあった。しかし、今回は事情が違った。もう父もいない。リュボーフィもいない。自分は死んでもよかったのかもしれない。それでもなお、死は恐ろしかった。
 その自分を救ってくれたのは、女の方だった。彼女は男と自分との間にふさがり、なにやら日本語で叫んで、そのお陰で男も諦めて拳銃を握っていた手を下ろしてくれた。
 そういうわけでルスランは女の方には心を許したし、だから女が自分の足にハンカチをしばったり、布で傷口を押さえて止血しようとしたときも、彼女にされるがままになっていた。
 先程までの苛立ちは、撃たれたことで消えてしまった。正気に戻ったといってもいい。自分は取り返しのつかないことをしてしまった。虚脱感から、ルスランは逃げ出す気も起きなかった。
 通報を受けてからやってきたブレーニンも何もしなかった。ブレーニンには事態がよく飲み込めなかったのだろう。彼は英語がわからなかったし、ルスランも何も説明しなかったのだから。
 ルスランが救急車に乗せられるとき、手当をしてくれた女はその様子を心配そうに見つめていた。女のスカートが自分の血で汚れていることに、ルスランは気づいた。
 病院で手当を受け病室に運ばれるまで、医師や看護婦たちは自分にやさしかった。多分彼らは、ルスランが正当な職務を遂行している最中に犯罪者に撃たれたのだろうと思って、同情しているに違いなかった。
 この時点になるとルスランは、リュボーフィの婚約者については気にならなくなってきた。肉体的な痛みが心の悩みを和らげたのだ。傷は熱く燃えるように痛み続けたが、それでもルスランは眠りに落ちることができた。なにしろ事件のせいで疲れきっていたし、前の晩もろくに眠れなかったからだ。
 翌朝になってルスランは強引に揺り起こされた。目を開けると、ベッドのそばに二人の男が立っていた。彼らが刑事であろうことは、容易に察しがついた。
「横になったままでいいから、質問に答えろ。」
 二人はベッドの横に椅子をもってきて腰掛けた。
「昨夜、カメンスカヤ通りの現場で何があったのか、順を追って説明しろ。おまえは事件について報告する義務があるんだぞ。」
 年配の刑事が強い口調で命令したが、ルスランは視線を天井に向け、黙っていた。すると今度は若い方の刑事が、穏やかに尋ねた。
「おまえは誰に、どんな理由で撃たれたんだ?」
「俺を撃ったのは、女の方です。女が俺の拳銃を手にしたので、俺はそれを取り返そうとしました。だから女は俺に発砲したのです。」
「そもそも女は、どうやっておまえの拳銃を手にいれることができたんだ?おまえが拳銃を落としたのか?それとも、連中に奪われたのか?」
「奪われたんです。」
「何故、奪われたんだ?その経緯を詳しく話してくれ。」
 ルスランは再び黙り込み、それを見て年配の刑事が怒鳴った。
「あの現場にいた二人の日本人は単なる観光客じゃない。国際機関で働いていて、外交官に準じる地位にある連中なんだ。日本大使館からいずれ抗議がくるはずだ。怪我人だからといって大目には見られないんだぞ。」
 刑事の様子からすると、自分のしたことは既にあの二人の口から明らかにされているに違いなかった。発作的にしてしまったことを隠し通せるはずがない。ルスランは抗しきれず、語り始めた。
「日本人の男の方に暴行したのは、この俺です。」
 もうこれで自分はおしまいだ、とルスランは絶望的な気持ちになった。
「私生活において不愉快なことがあったので、俺は苛立っていました。昨夜、巡回中にちょうどあの現場で外国人を見かけたので、憂さ晴らしの格好の標的になると思い、パトカーを下りて男の後を追いました。そのときブレーニンは、助手席で居眠りをしていました。
 男が人気のない裏通りに入っていったのをいいことに、俺は彼に殴り掛かりました。すると彼は大声をあげて助けを求めました。その声を聞き付けて、男の連れと思われる日本人の女が現場に駆けつけてきました。
 俺が女を脅すために拳銃を抜こうとしたところ、男は俺の拳銃を奪おうとしました。俺が拳銃を取り返そうと引っ張ったときに勢い余って拳銃を放り出してしまい、それを女が拾いました。
 女は俺に向かって銃口を向けました。しかし女は発砲をためらっているようでもあり、また、俺は意地でも拳銃を取り返して事が発覚するのを防ぎたかったのです。そういうわけで女に近づこうとしたところ、女は本当に発砲しました。
 俺が怪我を負っておとなしくなったのを見て、女は通報しました。これが事件のすべてです。」
 年配の刑事が立ち上がって、若い方に言った。
「わたしはいったん署に戻る。調書はあと二、三日してから取ろう。サマーリン、おまえは残って彼を見張れ。あとで交替の人間も決めておく。」
 ルスランはうつろな視線を天井に向けた。見張りがつくということは、自分はもう犯罪者として扱われるのだ。
 年配の刑事は病室から出ていき、若い方の刑事が指示どおり残った。疲れを覚えたルスランは、再び眠りに落ちた。目の前の現実については考えたくはなかった。これからの自分に降りかかることを。
 サマーリンは夕方まで病室にいたが、いったん他の刑事と交替して帰宅したらしい。交替の刑事は次の日の朝までルスランを見張り、再びサマーリンが病室にやってきて、ルスランの見張りについた。
「ゼムツォフ、人事から聞いたんだが、おまえの家に電話しても誰もでないらしい。家族はどうしたんだ?」
「四カ月前に父が死んでから、俺に家族はいない。」
「それはまずいな。面倒をみてくれる人はどうしても必要だ。看護婦におまえの世話をなにもかもさせるわけにはいかないだろう。ほかに親戚でもいないのか?」
こんなことになってしまって、どうしてニーナやマリヤに会えるだろうか?ルスランは黙ってサマーリンに背を向けて目を閉じた。
 サマーリンはその後は何も言わずにルスランを見張り続けていた。午後になって、ルスランを訪ねる者がいた。ニーナがベレゾーゼロからやってきたのだ。
「ルーシャ、本当だったのね。ああ、なんてことなの、神様。」
「叔母さん、俺のことが新聞に載ったんだね?だからここに来てくれたんだ。」
「余計なことは気にせずに、傷を治すことだけを考えなさい。」
 サマーリンもニーナに話しかけた。
「来てくれてよかった。彼が、自分には家族がいないなどと言うものだから、どうしようかと心配していたんです。多分、署の更衣室に彼のアパートの鍵があるはずだから、着替えを持ってきてやって下さい。」
ニーナが病室を出ていこうとしたとき、ルスランが呼び止めて言った。
「叔母さん、ママに俺に会いにこないように言ってくれ。」
「そんな、ルーシャ。何故なの?」
「いいから、会いにくるなって必ず伝えて欲しい。なによりもまず、そのことやって欲しいんだ。」
 ニーナはしぶしぶながらも承諾して、病室を出ていった。
「どうして、母親に来てもらいたくないんだ?」
サマーリンが尋ねたが、ルスランは背中を向けて答えなかった。 「おまえの母親は今頃きっと心配しているぞ。せめておまえの姿を一目でも見たいと思っているはずだ。会ってやるべきだよ。」
「母は既に再婚して別の家庭があるんだ。俺が関わると迷惑をかけてしまう。」
「そんなことはないだろう。再婚したっておまえの母親であることにかわりはないんだ。おまえの様子を知るまでは安心できないに決まっている。だから今度叔母さんが来たら、やはり母親にも来てもらうように言うべきだ。な?」
「放っておいてくれ。」  ルスランは怒鳴って、頭から毛布を被ってしまった。しかし、ニーナやサマーリンの思いやりが身に染みて感じられていた。なぜ自分はたかが女に捨てられたくらいで、この世の終わりが来たみたいに悲嘆にくれていたのだろうか。自分を大事に思ってくれる人が他にもいたにもかかわらず。
 ニーナは夕方になってもう一度ルスランのところに来て服を着替えさせ、次の日も病院に来て彼の世話をした。
 そしてさらに次の日、ルスランが手当を受けたあとにやってきた年配の刑事が再び病室に来て、事件についての調書を取った。事件について細かい点をいろいろ聞かれたため、ルスランは疲れを覚えて眠ってしまった。
 ちょうどそのとき、ルスランのところへ面会を希望する者がやってきた。女は自分がルスランに怪我を負わせた張本人であると打ちあけたので、サマーリンは迷った。
 サマーリンは口にはださなかったが、ルスランに同情していた。ルスランが傷害事件を起こしたことをひどく後悔していることは、サマーリンにも伝わってきていた。しかもルスランは何かに追い詰められ、自棄になって事件を起こしたらしいのだ。ゼムツォフは署でも優秀な警官だといううわさも聞いていただけに、サマーリンはなおさらルスランが気の毒だった。
 ルスランの家族でも友人でもないこの女を彼に会わせてもいいものだろうか。ルスランは実の母親とさえ、会うことを拒んでいるのだ。 しかし、サマーリンは女をルスランに会わせることにした。女がルスランを気遣う気持ちは本物のようであったから、サマーリンは賭けにでたのだ。この女の謝罪を受ければ、ルスランは元気づけられるかもしれない、と。
 そこでサマーリンは女のパスポートを改めた後、彼女をルスランの病室に案内した。
 驚いたことにルスランはその女を好意的に迎え、しかも自分から謝罪した。ニーナやサマーリンの前で見せた卑屈な態度は微塵も感じられなかった。
 ふたりのやりとりの中で気になったことがあったので、女が帰ったあとサマーリンは尋ねた。
「今の話でおまえが殺されそうになったと言っていたが、どういうことなんだ?」
「なんでもない。俺のやったこととは全く関係ないことだ。」
 ルスランはもとの無愛想な彼に戻っていた。サマーリンは女が持ってきた花束を適当な瓶に差してやった。
 ルスランはときどきその花束を眺めていることがあった。そういうときのルスランは、なんらかの感情を抑えているようにサマーリンには思われた。おそらく女が見舞いにやってきたことが、ルスランをひどく感激させたに違いなかった。
 次にルスランを見舞ったのはニコライだった。彼はあえて事件のことは触れないように、と最初は陽気に振る舞っていた。
「リューバが来てくれたんだね。」
 ニコライは枕元の花束を見て、そう思ったらしい。
「リューバはもう来ないよ。彼女は外国人と結婚して合衆国へ行く、って言っていた。」
 ルスランが無表情なまま説明し、ニコライは顔をこわばらせてつぶやいた。
「それはひどい話だな。」
 サマーリンはそれを聞いて、ルスランが事件を起こした背景にはそのリュボーフィなる女が関わっているんだろうと察し、ますますルスランに同情的になった。
 他に見舞いに来たのは、警察の同僚ではルスランと一番親しくしていたユーリだった。彼は一カ月後に結婚式を挙げる予定であり、ルスランも招待されていたから、自分が式に出席できなくなったことを謝罪した。
 意外なことに、マリヤも数日たってからルスランのもとを訪れた。マリヤは他の見舞い客のように、事件の話題について避けようとはしなかった。
「何故こんな事件を起こしたの?オリガが悲しむじゃない。それとも、彼女とはうまくいっていないの?」
「きみこそ、ヴァシリーとはまだ続いているのか?」
「今は私のことを話しているんじゃないの。」
「今度のことはオーリャは関係ない。ちょっと頭にきたことがあって、それでつい、人を殴ってしまったんだ。」
「それって、子供のけんかみたいじゃない。いやになっちゃうわね。一体あんたは何を考えているのよ?」
 マリヤの口のきき方は相変わらずだと、ルスランは思った。
 サマーリンはルスランの母親が病院に来ることを期待していたが、ついにソフィヤが姿を現すことはなかった。ルスランの方は密かにリュボーフィが来てくれることを期待したが、彼女も病院には現れなかった。
 ルスランが杖を使って歩きまわれるようになると、警察の上層部は強引に彼の退院を決めた。退院が決まったことは、ルスラン本人には内密にされた。サマーリンはルスランに聞かれないように、廊下でニーナにそのことを打ち明けた。
「ニーナさん、彼の退院が明日に決まりました。退院したあと、彼は拘置所に送られます。彼のために支度をしてやって下さい。」
「ああ、なんてことなの。かわいそうなルーシャ。」
 ニーナは嘆きながら病院を出ていった。サマーリンも同じ気持ちだった。
 翌日ニーナは着替えを渡した後、ルスランを抱き締め、涙を浮かべながら病室を出ていった。入れ替わりに担当の医師が病室に入ってきて、ルスランに退院を告げた。
 突然のことにルスランは戸惑った。こんな早くに退院させられるとは予想していなかった。医師はさらに、口ごもりながら言った。
「もしかしたらあなたの足には後遺症が残るかもしれません。まあ、機会があったらもう一度検査を受けてください。」
 医師はルスランに何か質問をされるのを恐れるべく、さっさと病室を出ていった。
一方ルスランは、今聞かされた言葉に呆然としていた。後遺症とはどういうことなんだろうか?自分は二度と歩けなくなってしまうのだろうか?
 サマーリンもルスランの気持ちを察して胸が痛んだ。しかし警察の迎えが来る時間が近づいていたので、ルスランにニーナの持ってきた服に着替えるようにせかした。
 ルスランは無意識に着替えをしたあと、ベッドに腰掛けながら医師の言った言葉の意味を考え続けていた。そんなところに刑事が入ってきた。
 刑事は逮捕状を読み上げて、それをルスランの目の前に呈示した。戸惑っているルスランの手首を刑事はつかみ、手錠をかけた。今まではルスランが手錠をかける立場だったのに、皮肉にも自分が手錠をかけられることになってしまった。
 力無く立ち上がったルスランを車椅子に座らせ、サマーリンがそれを押して病室を出た。そのときから、ルスランの囚人としての日々が始まった。

 間もなくルスランは起訴され、弁護士を選ばなければならなくなった。
 リュボーフィに弁護を頼むのはどうだろうか?。彼女なら行きがかり上、報酬を支払わなくても自分の弁護をしてくれるかもしれない。もし彼女に自分が事件を起こしたときの心情を詳しく話せば、彼女は責任を感じて自分と結婚してくれるかもしれない。
 ルスランはそんなことを考えている自分を情けなく思った。結局彼は、国選弁護人を頼むことにした。接見にやってきたのは、ジョルトフスキーという初老の男だった。
「俺は起訴状に書かれている事実関係を争うつもりはありません。」
「そうですか。では、情状酌量を狙っていきましょう。まず、あなたが普段は善良な市民で、真面目に警察官として勤務していたことを証言してくれる人はいませんか?」
 ルスランはユーリの名前をあげた。
「それから、犯行の動機に、私生活において不愉快なことがあった、とありますが、一体何があったんですか?この点についても証言してくれる人がいれば、証言を頼みましょう。この件がなければあなたが事件を起こすはずがなかった、ということを主張しなければなりません。」
 ルスランは少し迷った。リュボーフィに証言を頼めば、再び彼女と会う機会がつくれそうだ。
「それにはまず、カイサロフ法律事務所のミャスコフスカヤ弁護士の承諾を得ないと。彼女の承諾がなければ、何があったかは話せません。」
「わかりました。彼女のところにも交渉にいきます。」
 次に接見したとき、ジョルトフスキーは満足そうに言った。
「喜んで下さい。リュボーフィさんは、証言することを約束してくれましたよ。」
 確かにリュボーフィからわずかばかりの情けでもかけられれば嬉しかった。しかし、ルスランは考え直した。
「もういいんです。彼女の証言は必要ありません。」
「どうしてですか?せっかく彼女の承諾を得たのに。」
「とにかく、もういいんです。」
 ジョルトフスキーはとても残念そうだったが、それ以上は追及しなかった。彼も既にリュボーフィから事情を聞いていたので、ルスランの気持ちを察することができたのだろう。
 ルスランが断ったのは、自分が手錠をかけられたり足を引きずったりするようなみっともない姿をリュボーフィに見られたくない、ということもあった。しかし一番の理由は、リュボーフィへの未練を断ち切りたいということだった。リュボーフィのことでこれ以上苦しみたくはなかったし、そのためにも、もう二度と彼女に会わない方がいいのだ。
 そのうちに公判が始まった。検察側の証拠調べの際に、被害者側証人としてあの二人の日本人が呼ばれていた。まず男の方が証言台に立ち、続いて女が証言した。
 女は、見舞いにきたときはロシア語を上手に話していたにもかかわらず、日本語で証言して通訳に訳させていた。ルスランは通訳が話すロシア語よりも、女の口からでてくる彼にとっては意味のわからない日本語の方に耳を傾けていた。
 と同時にルスランは女の後ろ姿をじっと見つめていた。女は長めの黒髪を首の後ろの方で結んでいたが、ルスランはその紐を解いて、彼女の髪をいじってみたいと思った。すぐにルスランはその考えを打ち消し、苦笑した。
 女が証言を負えて傍聴席に戻ろうとするとき、二人の目があった。先に証言した男の方は、ルスランをまるで汚いもののように思っていたようで、けっして彼の方に視線を向けようとしなかった。しかし女の方は事件のときと同じように、心配そうな目をルスランに向けた。しかしそれは一瞬のことで、すぐに女は目を伏せてしまった。
 次の公判の前に、ジョルトフスキーが再び接見に来た。
「リュボーフィさんが上申書を書いてくれました。これを判事に提出します。」
 ルスランは事件を起こした動機を公にして恥をさらしたくはない、と思った。そんなルスランの気持ちを察してジョルトフスキーは言った。
「大丈夫ですよ。上申書なら、あなたと彼女の関係は必要最低限の当事者にしか知られませんから。むしろ法的拘束力がないから、役には立たないのではないかと心配です。」
 上申書が役にたったかどうかはわからないが、結局ルスランには一年の刑という判決が下った。刑期がもっと長くなることをルスランは覚悟していたから、ジョルトフスキーは報酬のない国選弁護人としてはよくやってくれたのだ。
 判決後の接見でルスランはジョルトフスキーに礼を述べた。
「私がどこまで役に立ったのかはわかりません。あとは一日も早く、あなたに社会復帰をしてほしいと願っています。
 実は私は若いころ、国を捨てて亡命したんですよ。合衆国で弁護士資格を取って、長い間あちらで働いていました。だけど、ソヴィエト政権が消滅してからロシアに戻ってきたんです。祖国でもう一度暮らしたい、とずっと望んでいました。
 確かに、モスクワでは収入を得られません。あえて儲からない仕事を引き受けているというせいもありますが。儲けよりもむしろ、この国の若者のために役に立ちたいと思っています。
 だからルスランさん、出所したら必ず立ち直って下さい。あなたはまだ若いのだから。決して悪の手に落ちていかないように、私は神に祈っています。それから、あなたの足の怪我が早く治るようにも。」
 ここにも自分を案じてくれる者がいた。ルスランは必ずジョルトフスキーの好意に報いようと思った。だが、ルスランにはもう一つの試練が待っていた。
 刑務所に送られて一カ月ほどたったある日、ルスランは監獄医から怪我の治療がすべて終わり、もう薬をつけたり包帯を巻いたりする必要のないことを告げられた。ルスランにとってついに恐れていた瞬間がやってきたのだ。病院の医師が言ったように本当に後遺症が残るのか、はっきりとさせなければならない。
「足はもとどおりになったのでしょうか。」
「わたしにはこれ以上のことはわからないね。ここには検査のための設備もないし。」
 年老いた監獄医は自信がなさそうに答えた。
 狭い監獄房の中をうろうろ歩き回っている限りは、自分の右足は以前のように動かせるようだった。痛みもない。だが広い場所でもう少し早く歩いたらどうなのだろうか?あるいは、走ってみたらどうだろう?
 ルスランは悩んだあげく、比較的温厚な看守に懇願した。
「足が完全に治ったか知りたいから、広い場所で走らせてほしい。」
「それだったら、今度の運動の時間に参加すればいいだろう。」
「他の連中には見られたくないんだ。」
 看守は所長と相談してから、ルスランを監獄房から出してくれた。そして彼は、運動場として使われている中庭に連れていかれた。空は雪雲がかかって薄暗かった。
「いいか。逃亡の様子がみえたら、すぐさま銃で撃つからな。」
 ルスランは頷いて、思いきり走りだした。右足が重く、引きずられるような気がした。ルスランは身体の均衡を崩し、地面に倒れた。
 すぐさま彼は起き上がり、再び走りだした。こんな中庭ではなく、早く出所して好きなところを自由に歩いたり走ったりしたい、と思いながら。だが、再び彼は倒れた。どうしてうまく走れないのか。諦めずにルスランはもう一度立ち上がり、走りだし、倒れた。さらにもう一度。
 やはり自分の右足は、以前のようには動いてくれないのだ。絶望的になったルスランは二度と起き上がれず、地面に横たわったままきつく右手を握り締めた。彼の身体は雪まみれになり、服に水がしみ込んできた。
「もうやめろ。」
 後をついてきていた看守が、ルスランの腕をつかんで助け起こした。看守はルスランの心の内を察し、彼が自棄を起こす前に、と腕をつかんだまま監獄房まで引きずっていった。
 ルスランは濡れた服も着替えずに、放心したまま監獄房のなかでじっと座り込んでいた。もう以前のようには走れない。母が教えてくれたスケートも、もう二度とできない。
 夜になってルスランは食事に手をつけないまま、床についた。当然のことながら眠れなかった。こんな苦しさは、リュボーフィと別れた夜以来だった。
 事件の夜にあの女さえいなければ。ルスランは自分に向かって発砲した日本人の女の顔を思い浮かべた。自分の人生をめちゃくちゃにしたのはリュボーフィでも誰でもない。自分の足を不自由にしたあの女だ。あの女がこの世で一番憎い、と思った。
 それでもルスランは明け方近くになって、ようやく浅い眠りに落ちることができた。
 夢の中でもルスランは、走ろうとしては転び、再び走ろうとしては転んでしまっていた。その点は前の日の出来事と同じだ。ただし、夢の中のルスランはまだ三、四歳の子供だった。
 何度走ろうとしても、必ず転んでしまう。嫌気がさしたルスランは、うつ伏せに倒れたまま泣き出してしまった。悔しくてたまらず、思いきり声を張り上げた。
 そこへ父が、もちろん若い頃の父がやってきて、ルスランを抱き上げた。
「よしよし、ルーシャ。いい子だから泣くんじゃないよ。」
 父に身体を揺すられ、頭をなでられたのがとても心地よかった。夢の中のルスランは間もなく泣きやんだ。
 夢の中の光景はこれだけだった。目覚めかけた意識の中でルスランは思った。父はこの自分をあんなにも愛し、かわいがってくれた。その自分が今、不幸に陥ってみじめな思いをしている。そのことを知ったら、父はどんなに悲しむだろうか。あまりにも父が哀れだった。
 その日、偶然にもニーナが面会に来てくれた。これはおそらく、父が自分の身を案じてニーナを遣わしたに違いなかった。
「ルーシャ、ここでの生活はどう?」
「大丈夫だよ。もう慣れたから。」
 ルスランはニーナを心配させないように笑顔で答えた。
「叔母さん。実は俺の右足の怪我は完全には治らなかった。出所してからもう一度検査を受けてみるけど、走ったりスポーツをしたりすることはできなくなったみたいなんだ。でも、歩くことだけは普通にできる。それだけでもよかったと思う。」
「かわいそうなルーシャ。」
 ニーナは涙を浮かべた。ルスランはニーナの気持ちが落ち着くまで待った。
「ねえ、叔母さん。今朝、久しぶりにパパが夢にでてきた。パパはきっと天国で俺のことを心配しているだろうね。パパを心配させないためにも、俺はここを出た後、必ず人生をやりなおしてみせるよ。」
 父のためにも自分は不幸になってはならない。それがルスランの決意だった。


第4章   救い

 翌年の秋、刑期を二カ月残してルスランは出所を許された。
 ルスランはモスクワに戻ると、さっそくリュボーフィの様子を探った。適当な名前を名乗ってカイサロフ法律事務所に電話をかけてみたが、リュボーフィはすでにそこを辞めていた。おそらく本当に結婚してニューヨークへ行ってしまったに違いなかった。
 リュボーフィはもうモスクワにはいない。ルスランは改めて喪失感を覚えた。
 次にルスランは病院へ行って右足を再度診てもらった。こちらの方も、元通りになる見込みはないと言われた。前年の冬の段階で覚悟を決めたものの、専門家に改めて指摘されると、ルスランは再び失望せざるをえなかった。
 しかしルスランは気を取り直して、新しい仕事探しにとりかかった。護身術に自信のある警察官が警備会社に転職することはよくあることなので、ルスランもそちらの方で仕事を得るつもりでいた。
 二件目の警備会社の採用面接を受けたとき、ルスランと同じくらいの若い男が面接に応じた。
「警察を辞めてから一年たっているけど、その間何をしていたの?」
 聞かれたくないことを質問されてしまった。うまい言い訳を思いつけずに、ルスランは正直に答えた。
「服役していました。」
「何をやったんだ?」
「傷害罪です。」
「ふーん、やはりな。あんたの名前には覚えがある。俺も一年前は警察にいたんだ。
 あんた、傷病歴をなにも申告していないけど、確かあの事件であんたは撃たれたはずだろう?怪我は完全に治ったのか?」
「大体は。」
「本当に?以前のように身体を動かせる?」
「大体は。」
「大体、じゃ困るんだよ。あんたは犯罪歴も傷病歴も隠そうとした。信用できないよ。だから当社では採用できない。
 それから、前科はともかく、身体のどこかが不自由になったのなら、この業界で働こうなんて無理だよ。あんたも知ってのとおり、この仕事には危険がつきものなんだ。マフィアを甘くみると命取りになるよ。悪いことを言わないから、他の仕事を当たりな。」
 相手の男に悪気があったわけではないだろうが、無能扱いされたことでルスランはひどく苛立った。
 そのまま帰宅する気にはなれずに、ルスランは警官時代の同僚のユーリの住むアパートに向かった。玄関の呼び鈴を押すと、見知らぬ女が出てきた。
「ルスラン=アレクセーイッチといいます。初めまして。あなたがユーラの奥さんですね。」
「はい。アンナ=フョードロヴナです。初めまして。」
 アンナはルスランを今に招き入れ、お茶を出した。
「ルスランさん、あなたのことはユーラから聞いていますわ。」
「そうですか。あなたがたの結婚式には出席できず、失礼しました。ところで、ユーラは仕事ですか?」
「はい。今夜は夜勤が入っていますから。」
 それを聞いてルスランはひどくがっかりした。今のやりきれない気持ちをユーリに聞いてもらいたかった。このままでは苛立ちがおさまりそうになかった。
 それ以上そこにいる理由がなかったのだが、ルスランはすぐに帰ろうとはしなかった。
「あなたのような美しい人を妻にするなんて、ユーラが羨ましい。」
 ルスランは飢えたような目をアンナに向けた。彼が若い女と二人きりになったのは一年ぶりだった。
「俺のことをユーラから聞いているなら、俺が傷害事件を起こして、逆に相手に撃たれてしまったこともご存じでしょう?あのときの怪我がもとで、俺の足は不自由になってしまったんです。そのお陰で仕事も見つからない。今日も一件断られたんですよ。」
 ルスランはアンナの同情を引こうとしたものの、それで彼女が自分の言いなりになるはずがないことはわかっていた。自分を押さえ切れなくなったルスランは突然立ち上がり、アンナに抱きついた。
「やめて。」
 アンナは必死になってもがいたが、ルスランは彼女を抱く腕にますます力を込めた。アンナのつけている香水の匂いが、ルスランにはたまらなく思われた。
「我慢できそうない。許して下さい。」
 アンナは諦めたのか、おとなしくなった。ルスランは彼女の身体をベッドに引きずっていった。
 アンナを抱いた後、ルスランは手早く服の乱れを直した。すぐそばにいるアンナとの間に漂う沈黙が気まずかった。すぐにでも逃げ帰りたかったが、この件をどうにか繕わなければならない。ルスランが悩んでいるうちに、アンナの方が先に口を開いた。
「今夜のことはあなたを部屋に通した私の落ち度です。ですから、このことでユーラに謝罪したりしないで下さい。絶対に彼には知られたくはないんです。」
「それはこちらの方がお願いしたいくらいだ。あなたには申し訳ないことをした。でも、このことはユーラには黙っていて欲しいんです。」
「絶対に言いません。だから、あなたも言わないと約束して下さい。ただ、あなたが今夜ここに来たことだけは彼に話します。」
「いや、俺のことは一切言わないで欲しいんだが。」
「そういうわけにはいきません。このアパートの住人があなたの姿を見たかもしれないし。それに、ユーラはあなたのことをとても気にかけていたんです。
 ですから、あなたがここにいらして、足が不自由になったことを嘆いておられたことだけは、ユーラに話しておきます。そのつもりでいてください。」
 自分のアパートに戻ったルスランは、ひどく疲れを覚えてすぐに眠りについた。次の日の昼近くに目が覚めてもルスランはすぐには起き上がらず、ベッドに横たわったままぼんやりしていた。
 昨夜、もしアンナにひどく抵抗されていたら、自分はまた刑務所に送られるところだった。それに、ユーリにもひどく恨まれたことだろう。
 もしかして、自分はこのまま堕ちてしまうのではないだろうか。酒や麻薬に溺れてしまわないか。あるいはマフィアの使い走りにでもなり下がってはしまわないか。
 人生をやり直す、といっても自信がない。刑務所を出てから、自分は何をやってもうまくいかない。大学も出ておらず、外国語も話せず、足が不自由になった自分になんの仕事ができるだろうか?
 ルスランは傷害事件を起こしたころと変わらず孤独で、支えになってくれる人がいなかった。友人はいることはいるが、彼らには仕事も家庭もある。そんな彼らは、ルスランの寂しさや空しさに気づくことはできなかった。
 アンナは昨夜のことを秘密にする、と言ったが、それは決してルスランを庇おうとしたのではなく、自分の夫を苦しめたくないからなのだ。妻とはなんと健気なものなんだろうか。ルスランはユーリに妬ましさすら感じた。
 せめて、父さえ生きてくれたら。そうでなければ、たとえ人妻になっていてもいいから、リュボーフィがときどき自分と会ってくれたら。
 それでもルスランは起き上がった。前年の冬に刑務所で誓ったように、父のためにも、どんなことをしてでも立ち直らなければならない。ルスランは身支度をしてアパートを出た。
 売店で新聞を買い、求人広告にさっと目を通した。もう、仕事の内容にはこだわらないつもりだった。ペソーチナヤ通りに事務所を構えている会社が数件、広告を出していた。ペソーチナヤ通りは小さな会社の事務所が多いところだというのは、ルスランも知っていた。
 ルスランはそのうちの二社に電話をかけて訪問の約束を取り付け、地下鉄でペソーチナヤ通りまで移動した。まだ約束の時間まで間があり、家でなにも食べてこなかったことから、通りにある適当なカフェに入った。
 席につき、ルスランは窓際の席に座っている女に目がとまった。見覚えのある日本人だった。黒髪を首の後ろで結んでいるところは、ルスランが裁判所で見つめた後ろ姿にそっくりだった。
 ルスランはためらうことなく女に近寄って話しかけた。病院に見舞いに来てくれたときの雰囲気から、自分が話しかければ応えてくれるだろう、という信頼を女に寄せていた。
 女が自分のことを覚えていてくれたので、ルスランはいそいそと彼女と同じテーブルに移動した。ひどく人恋しくなっていたので、話し相手になってくれる者がいて、ありがたかった。
「法廷で証言なさっていたとき、日本語を使っていたんでしょう?あなたはロシア語がお上手なのに、それはなぜだったんです?」
「あの頃はモスクワに来てからまだ一カ月ちょっとで、ロシア語に自信があったわけではないの。裁判の証言だから、万が一にも間違いがないように、通訳してもらったわけ。」
 そんなあたりさわりのない話をしながら、ルスランは女が自分に気づいた瞬間のことを考えていた。女は自分を見て、心底嬉しいといったような表情をした。ほんの一瞬のことだったが、彼女がいかに自分のことを案じてくれたかが伝わってきて、ルスランは胸が熱くなっていた。
 そういうわけでルスランは、とっさにこんな言葉を口にだしてしまった。
「あなたにお礼がしたいから、連絡先を教えてくれませんか。」
 女はややためらってから、自分の連絡先を紙に書いた。ルスランも自分の連絡先を書いて、それを彼女と交換した。
 その後ルスランは採用面接を受けてから自分のアパートに戻り、真名からもらった紙切れを見ながら考えた。どうしたら、真名に喜んでもらえるだろうか?
 女を喜ばせることといったら、贈り物をすることくらいしか思いつかなかった。しかし仕事のないルスランには、高価なものを買うことができない。
 ルスランがあれこれ悩んでいると、玄関の呼び鈴がなった。訪ねてきたのはユーリだった。ユーリを居間に通した後、ルスランは彼と目を合わせなくてすむように、ウォッカの瓶やコップを出したり、何か軽く食べられるものを探して台所を歩き回ったりした。
「ルーシャ、昨夜は来てくれたんだってね。留守をして悪かった。」
「いや、俺の方こそ突然訪問して悪かった。昨日は警備会社から採用を断られてがっかりしたものだから、おまえに話し相手になってもらおうと思って。」
「そのことは妻から聞いたよ。撃たれた方の足が不自由になったんだってな。」
「日常生活をおくる分には支障がないんだ。でも警備の仕事には就かせられないと言われたよ。」
 ルスランはユーリの向かい側に座り、おそるおそる彼と目をあわせた。ユーリの視線をいつまでも避けるわけにはいかなかった。
「そうか。それなら俺の方でもおまえの仕事を探してやるよ。ただ、妻の弟の就職を頼んだばかりだから、いい仕事がほかにあるかどうかはわからないけど。
 そうだ、ルーシャ。今度うちに食事に来いよ。そのとき正式に妻を紹介するから。いつがいい?」
 ルスランは必死になって断る言い訳を考えた。そのとき、真名の顔が浮かんだ。
「せっかくだが、当分は無理だな。就職先を早く見つけたいし、それに会わないといけない人がいるんだ。」
「それは残念だな。じゃあ、都合がついたら連絡をくれ。」
 ユーリが帰った後、ルスランはほっとため息をついた。もう少しだけ時間がたてば、ユーリとも平気で会えるようになれるかもしれない。
 その日面接を受けた会社からは採用を断られたが、ルスランはもうひどく落ち込むようなことはなかった。街中の事務所での仕事には執着していなかったということもあった。それに今度こそ、子供のころ夢見ていたように、馬の飼育や調教をする仕事についてもいいと考え始めたのだ。ニコライに就職先を頼んでみようかと思ったところで、真名をベレゾーゼロに連れていくのがいいと思いついた。
 かの地で彼女を馬に乗せて森の中を走れば、きっと喜んでくれるに違いない。外国人である彼女は、おそらくそんなことをしたことはないはずだ。
 ルスランは真名に電話をかけ、ヤロスラヴリ駅で会う約束をした。電話のあと、ルスランは自分の恋人を遠出に誘ったかのような錯覚を覚えた。ルスランはリュボーフィをよく自分の家に招いた日々を思い出したが、と同時に、彼女のことを考えても胸が痛まなくなった自分に気づいた。
 二、三日してルスランはモスクワの近くにある観光用の馬を飼育する牧場に行って、自分にできる仕事がないか尋ねてみた。そこでは人手は足りているから、とあっさりと断られしまったが、ルスランはここでも、落ち込むようなことはなかった。次の日にベレゾーゼロに行くことになっていたからだ。
 翌日の朝、ルスランは少なからず胸をときめかせながらアパートを出た。それは一年ぶりに馬に乗れるからだ、と思い込もうとしたが、ヤロスラヴリ駅で真名を目の前にすると、彼女に魅かれていることを認めないわけにはいかなかった。
 列車の中で真名の向かいに座り話をしながらも、彼女の柔らかそうない頬に口づけしたいとずっと思っていた。真名の黒い瞳が自分に向けられるたびに、胸を締めつけられるような愛しさがわいてきた。
 ルスランは当初、自分の真名への思いについては黙っているつもりだった。感謝の気持ちを表すために彼女を誘い出したのだ。下心を抱いていると真名に思われ、軽蔑されたくはなかった。
 しかしルスランは、自分が素知らぬ顔をし続けられるかどうかに自信がなかった。ひとたび孤独と絶望を味わったからこそ、ルスランはなおさら真名を強く求めずにはいられなかった。

 それから数週間たって真名に結婚を申し込んで、逆に日本に来てくれ、と頼まれたとき、ルスランはあっさりと承諾した。
 真名ははっきりとは言わなかったが、どうやら日本に行ったあと、自分は彼女に養われるらしかった。少なくともしばらくの間は。しかし、そんなことにこだわるつもりはもはやなかった。
 真名を一人で日本に帰してしまえば、そのまま日本の男と結婚してしまう可能性だってある。リュボーフィのときのように、恋人を他の男に取られるのは二度とごめんだった。それに、自分はついにモスクワでは仕事を見つけることはできなかった。
 日本で暮らすなどとは、今まで一度も考えたことはなかった。しかし、自分の救いとなってくれた真名の申し出ならば、二人の幸せのためになることなのだろうから、と信頼していた。
 冬に行われた真名とルスランの結婚式に、マリヤは出席しなかった。代わりに短い手紙と自分の歌が入ったディスクを送ってきた。
「ルーシャへ。
 私はあんたの花嫁と仲良くするつもりはないのよ。だから、式にも出ません。
 それでも一応は、お幸せに、と言っておくわ。」
 ユーリについては、ルスランは覚悟を決めて結婚式に招待した。アンナが口実をもうけて欠席してくれたので、正直言って助かった。パーティーの席でユーリは、真名の両親に事件のことを悟られないように、ルスランにそっとささやいた。
「この間、ヴラジーミルさんから問い合わせがあった。おまえが出所してからどうしているか、と。」
 病院でルスランの見張りをしていたヴラジーミル=サマーリン刑事のことだった。
「おまえが結婚することを話したら、とても喜んでいたよ。」
 ルスランはサマーリンとは親しく口をきいたことはなかったが、彼もまたルスランの行く末を気にかけてくれたのだ。ルスランは心の中でサマーリンに感謝した。
 結婚式を挙げて真名たちを空港で見送った後、ルスランは出国の手続きを始めた。そんなところへ、ニーナから電話があった。
「ルーシャ。あんたのママから電話があったわ。あんたが出所してからどうしているか、って聞いてきたわよ。だから、あんたが結婚してもうすぐ日本へ行くことを話したら、あんたに会いたいって。ねえ、ママに会っておあげなさい。このままだと、ママがかわいそうよ。」
 ルスランはもう迷わなかった。確かに、これからは母と会うことが今まで以上に難しくなるのだ。翌日、ルスランはソフィヤが指導をしているスケートリンクに出掛けた。しばらくルスランは待たされたが、休憩時間になってソフィヤもコーチの控室にやってきた。
「ルーシャ、久しぶりね。元気だった?
 あんたのことはずっと心配だったのよ。あんたが事件を起こしたときに、会いにくるなってニーナに言わせてきたから、まだ私のことを恨んでいるのかと思って悲しかったわ。」
「そういうわけじゃないよ。ママに迷惑をかけたくなかったから。新聞沙汰になった息子のせいで、ママが今の亭主に対して立場を失くすんじゃないかと思ったんだ。」
「何を言うの?あんたはママのたった一人の子供なのよ。今日だって、アパートに来てくれてもよかったのに。
 あんたが出所したら、今度こそあんたの面倒をみるつもりだったのよ。確かもうそろそろ出所するかなと思ってニーナのところに電話したけど、あんたはとっくに出所していたのね。
 それはいいんだけど、あんた結婚したんですって?しかも日本人の女と?一体、何故そういうことになってしまったの?」
「彼女はいろいろと俺のことを助けてくれた。彼女がいれば俺は立ち直れそうだ。
 彼女は日本の役人なんだ。帰国命令が出てモスクワにはいられなくなったから、だから俺が彼女についていくことにしたんだ。」
「まだ間に合うわね。考え直せないの?だって、日本なんてあんたはもともと興味を持っていなかったんでしょう?」
「俺には彼女が必要なんだ。彼女といられるなら、どこで暮らしてもいい。」
「仕方がないわねえ。いつ出発するの?」
「出国の支度がすんでアパートの件が片付いたら、すぐにでも。」
 ルスランの決心が変わらないことを知り、ソフィヤは寂しげにため息をついた。
「ルーシャ、あんたは二十歳を過ぎてから本当にアリョーシャに似てきたわね。アリョーシャの葬儀であんたを見たとき、とても驚いたわよ。
 あんたは小さいときからパパに似ていると言われると、とても喜んでいたわね。でも、今言ったことはお世辞でもなんでもないのよ。この私が言うんだから。間違いはないわ。
 そうそう、最近はスケートをしているの?日本にもスケートリンクはあるのよ。」
「もうスケートはしないんだ。」
「どうしてよ?昔、あんなに習わせてあげたのに、もったいないわ。」
「そうじゃなくて、もう滑れないんだ。」
「何故?やはり事件のときの怪我が原因なの?」
 ソフィヤは顔色を変えた。それを見て、ルスランは母の自分への思いを感じ取った。今のルスランにとってはそれだけで十分だった。
 八年ぶりの母との話し合いを終え、ルスランはアパートに戻った。
 そして数日後、パスポートとヴィザ、そして家族のアルバムを入れた鞄を持って、ルスランはニーナとともに住み慣れたアパートを出た。このアパートはいずれ人に貸すことになっていた。
 シェレメーチェヴォ空港に着くと、ソフィヤが見送りに来てくれていた。二人に別れの口づけをし、ルスランは出国ゲートに向かった。
 まさか自分が、リュボーフィと同じように外国人と結婚してモスクワを出ていくとは思わなかった。ルスランは運命のいたずらをおかしく思った。
 モスクワでは幸福な時も辛いこともあった。自分はこの街に生まれて成長した。母が離婚して去っていく姿や父の死を見届けた。オリガを悲しませ、リュボーフィに手痛く裏切られた。傷害事件を起こし、投獄された。そして真名に出会った。それらすべてが今は懐かしい。
 自分はどこにいても、モスクワを懐かしく思い出すだろう、とルスランは思った。

(続く)




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