「ルスラン」第1部 出会い

第1章   発砲

 外国人専用のナンバープレートを付けた車が、カメンスカヤ通りを走っていた。この辺はモスクワの中心地からややはずれた高層アパート街で、深夜になると人気がなくなる。八月の終わりのモスクワはすでに秋で、深夜になると空気が冷たくなる。
 車を運転しているのは、酒気を帯びた三〇代半ばの日本人の男だった。一方、助手席では二〇代半ばの日本人の女が、居心地悪そうに体を固くしていた。
「ねえ、広田さん。私が運転しますよ。国際免許証は持ってきましたから。」
「だって、真名ちゃん、左ハンドルの運転、慣れていないでしょ。俺なら大丈夫だって。」
 広田は上機嫌で笑っていたが、真名はひそかにため息をついた。知り合って間もない男が、車で女を送っていくと申し出ることは、親切にはならないのだ。
 本当は真名はもっと早い時間に帰宅するつもりだった。しかし、広田が熱心に彼女を引き止めたので、こんな遅くになってしまったのだ。広田は真名の新しい上司だったから、車で送ろうとの申し出を断って、彼の機嫌を損ねたくはなかった。
 真名はモスクワに来てまだ一週間ほどであり、道がわからなかったから、万が一にも広田が自分を変なところに連れていかなければよいが、と不安だった。
 広田が酒気を帯びていたのは、彼らの勤務するセンターで真名を歓迎するささやかなパーティーが開かれ、真名が日本から持ってきた手土産がわりの酒を広田が飲んでしまったからだった。
 突然、広田は車を道の脇に寄せて止めた。真名は一層体を固くしたが、広田は、ちょっと、と言い残して車から下り、薄暗い路地に入っていった。
 それからほどなくして、一人の警官が広田の後を追うようにして路地に入っていくのが見えた。道端で用を足したことを注意されるのではないか、と真名は広田を気の毒に思った。
 しかし、事はもっと重大になる要素をはらんでいた。真名は一人の男の人生が大きく変わる場面に直面することになるのだ。
 広田が表通りに戻ろうと振り返ると、そこにはいつの間にか長身の若い警官が立っていた。おそらく、足音を忍ばせて広田の背後に近づいたに違いなかった。
「パスポートを見せろ。」
 警官は英語で無愛想に言った。
「車の中にある。」
 そこからは車は見えなかったが、広田は表通りの方向を指した。しかし警官にとっては、パスポートはどうでもよかったらしい。
「おまえ、飲んでいるだろう?」
 広田は飲酒運転をとがめられるのではないか、と不安になった。しかし、警官の口から思わぬ言葉が出てきた。
「一〇〇ドル。」
 見逃してやるから賄賂を寄越せ、という要求であり、モスクワではたまに遭遇する場面だ。普段の広田なら要求に応じたかも知れないが、酒が入っていたこのときは、つい本音が出やすくなっていた。
「誰がやるかよ?おまえら民警が飲酒運転を取り締まる権限がないのは知っているんだぞ。」
 広田は日本語でわめいたのだが、どうやら自分に悪態をついたらしい、ということは警官にもわかった。
 広田にとって運の悪いことに、警官はこのとき非常に機嫌が悪かった。ある事情で心が荒んでいた、とも言えた。広田の態度にかっときた警官は、広田の顔を思いきり殴りつけた。
 広田の身体は道に転がった。突然のことに驚いた広田が警官を見上げると、警官の顔には殺気がみなぎっていた。
「おまえ、目障りなんだよ。」
 警官は怒りを込めながらロシア語で言った。広田はあわててその場から逃げ出そうとしたが、広田のおびえた態度を見て、警官は彼を徹底的に痛めつけたい、という衝動に駆られた。
 警官はすかさず広田に飛びかかって激しく殴り始めた。体力の差があって、広田はまったく警官に抵抗することができなかった。
「助けてくれっ。」
 その声は、車の中で広田が戻るのを待っていた真名にも届いた。広田になにかあったに違いない、と真名は車を飛び出した。
「やめてっ。お金ならあげるわよ。」
 広田が殴られているのを見て、真名は警官に向かってロシア語で叫んだ。広田は警官に金をたかられたものの、それを断ったのだろうということは、真名にもすぐわかった。モスクワで警官に難癖をつけられ、金を要求されることはよくあることだと聞いていたからだ。
「殺されるっ。」
 真名が駆けつけてきたのを見て、広田が叫んだ。真名はあわててハンドバッグのなかから持っているだけのルーブリ札を取り出して警官に渡そうとした。しかし、真名の方を振り返った警官の目つきから、彼女はこの警官が単に広田から金を巻き上げようとしているわけではないのを感じ取った。実際に、警官は金を受け取ろうとはしなかった。
 一方、警官は自分のしたことを真名に目撃されて少なからず動揺していた。この女を、このまま帰すわけにはいかない。男と一緒に殴り殺してしまおうか?それとも?
 警官は腰のところに差してあった拳銃を抜こうとした。銃口を真名に突き付けて、言うことを聞かせようとしたのだ。
 ところが、広田が拳銃を奪おうとしてそれをつかんだ。警官は拳銃を取り返そうとし、二人による拳銃の引っ張り合いとなった。警官の方が拳銃をもぎ取ったが、勢い余ってしりもちをつき、拳銃は警官の手から放り出された。
 拳銃の行方をはらはらしながら見守っていた真名はすかさず拳銃に飛びついて拾い上げ、後ずさりしながら銃口を警官に向けた。
「真名ちゃん、撃て。」
 広田が言ったが、真名には引き金を引く勇気はなかった。威嚇のつもりで銃口を警官に向けているだけなのだ。だが、それでこの警官から二人とも逃れられるだろうか。恐ろしさから真名の拳銃を握った手が震えた。
 警官は真名がためらっているらしいことを感じ取って、彼女の手首をつかもうと近寄ってきた。拳銃を奪われたら最後、この警官に何をされるかわからない。真名はとっさにもう一度後ずさりをし、警官の足元を狙って引き金を引いた。
 警官は自分の右膝を押さえながら座り込み、そしてその場に崩れるように倒れた。警官の右足首からは血が噴き出し始めた。
 真名はそのあともしばらく銃口を警官の方に向けていた。だが、警官がおとなしくなったことがわかると、ほっとして拳銃を握った手をおろした。そして、道端に横たわっていた広田の方に歩み寄り、右手に拳銃を持ったまま、広田を助け起こした。広田の顔は腫れ上がって血だらけだった。
「広田さん、大丈夫?どうしてこんなことになったの?」
 だが広田は、答える代わりに真名の手から拳銃をもぎ取り、銃口を倒れている警官の方に向けた。真名は広田の手から拳銃を奪い取ろうとしたが、広田はどうしても拳銃を離そうとはしなかった。警官の方も銃口が自分に向けられていることに気づき、顔色を変えた。
「この野郎、よくもやってくれたな。殺してやる。」
 真名は慌てて警官の前に立ちはだかった。
「やめて、広田さん。国際問題になるわよ。」
「正当防衛ということにすればいいんだ。」
「私はここを動かないわよ。」
 広田はいまいましそうに拳銃を握った手を下ろした。すかさず真名は広田の手から拳銃をもぎ取り、バッグにしまった。
 そばのアパートの一階の住人が銃声を聞き付けて外の様子を伺っていたので、真名は警察と救急車を呼ぶように頼んだ。
 そして真名は、横たわったままの警官を見た。警官の足首から流れ出た血が道の上で溜まっていた。
 それまでの事情がどうであれ、これは自分の責任なのだ。自分は、警官の足に当たってもかまわないと思いながら、引き金を引いたのだから。
 真名はしばし迷ったものの、やはり傍観したままではいられなかった。広田の車から助手席に座っていたときに羽織っていた肩掛けをとってきて、警官にこわごわ近づいた。
「手当しますから、おとなしくしていてくださいね。」
 真名は警官の足首をハンカチで縛り、肩掛けで傷口を押さえた。広田はその様子をいまいましそうに見つめた。
「真名ちゃん、そんな奴の手当なんかする必要はないんだよ。怪我をしたのは、そいつの自業自得なんだ。」
「私は、本当は発砲したくはなかったんです。この人がかわいそうだわ。」
 真名が警官の傷口を押さえ続けたので、広田はぷいっと横を向いた。一方、警官の方はときどき苦しげな声をもらし、真名は警官がひどく痛々しそうに見えた。
「大丈夫ですか?」
 真名はロシア語で警官に尋ねてみたが、返事がなかった。もしかしてこの警官は、自分が撃たれたことに腹を立てて自分に襲いかかってはこないだろうか、という恐怖が真名の頭に浮かんだ。そんな気配が少しでも見えたら、バッグの中にある拳銃を取り出し、再び警官に銃口を向けるつもりで、真名は手当を続けた。
 だが、恐ろしい時間は長くは続かなかった。パトカーのほうはすぐにやってきたのだ。
 実はそのパトカーは撃たれた警官がパトロールのために乗っていて、近くに止めたものだったのだ。そして真名が警官に発砲した後に警察への通報を頼んだため、そのパトカーに無線が入った。そこで、パトカーに残ってうたた寝をしていたもう一人の警官が目を覚まし、自分の相棒がいつの間にかいなくなっていることを不思議に思いながら、現場にやってきたのだった。
 パトカーから下りてきた警官は、自分の相棒が足を撃たれているのを見て、ひどく驚いた。
「ゼムツォフ、何があったんだ?」
 撃たれた警官の代わりに広田が英語で答えた。
「こいつは、おれに金を寄越せ、って言って、その後俺のことを殴りつけたんだ。悪いのはこの警官だ。」
 英語がわからないこともあって、遅れてやってきた警官は事態が把握できなかったが、とりあえず二人の日本人は逃げ出す気配がなかったので、何もせず真名たちを見ていた。
 やがて救急車も到着して、広田とゼムツォフが運ばれていった。それを見届けた真名はバッグから拳銃を取り出し、警官に手渡した。そして警官は真名をパトカーに乗せた。

 真名は連行された警察署で簡単な事情聴取をされた。しかし、ゼムツォフの手当がすんで彼から事情を聞くまでは帰宅が許されないと告げられた。
 真名はゼムツォフの血がついた服のままで毛布だけを与えられ、警察署で一夜を過ごした。
 翌朝、軽い眠りから覚めた真名は、昨夜のことを思い出して猛烈な不安に襲われた。なにしろ、自分が警官を撃ってしまったことは間違いない。
 せっかく念願のモスクワに来たのに、自分はどうなってしまうのだろうか。正当防衛が認められず、この国で刑務所に入れられてしまったら?
 真名は日本のとある中央省庁の職員だったが、ロシア語がある程度できる点を買われて、国際原子力センターのモスクワ支部に出向した。そして、昨夜暴行された広田と、もう一人山本という中年の男の二人の研究員の秘書として働くようになったのが、わずか三日前のことなのだ。
 やがて取り調べが始まったが、ありがたいことに日本語の通訳をつけてもらえた。モスクワの日本人ビジネスマンを相手に働いている女が警察署に呼ばれたのだ。真名はロシア語で事件について細かいところまで正確に説明することに自信がなかったから、通訳が来たことで少し安心した。
 真名は通訳を介して、広田が襲われていたので助けようとしたこと、そして拳銃をゼムツォフに奪い返されそうになったので、自分の身を守るためにやむなく発砲したことを必死に訴えた。
 昼過ぎ、真名の供述がゼムツォフの供述と一致したために、真名の行為が正当防衛と認められ、彼女は帰宅を許された。どうやらゼムツォフは広田を襲ったことを含め、すべてを正直に白状したようだった。  真名がほっとしたことは言うまでもない。もし、ゼムツォフが黙秘したり、あるいは真名に罪をなすりつけるような虚偽の供述をしていたら、おそらく彼女は警察署に拘束され続けたに違いなかった。真名はゼムツォフに感謝すると同時に、彼はどんな男なのか、という興味がわいてきた。
 昨夜広田が運転していた車は警察署の駐車場に保管されていたので、真名が運転して広田のアパートに持っていくことになった。そこで真名は駐車場に案内してくれた警官に尋ねてみた。
「ゼムツォフさんってご存じですか?」
「知っていますよ。ときどき一緒に仕事をしたし。」
「どんな人なんですか?」
「そうですね、腕は立つ男ですよ。射撃もうまいし。」
「怖い人なんですか?」
「そうでもないですよ。普段はおとなしい奴だし、仕事もまじめにやっていました。」
「じゃあ、彼は何故昨夜、あんなことをしてしまったのだと思いますか?」
「さあ、わかりません。署のみんなも、何故なんだろう、と不思議がっていますよ。彼は昨夜、酔っていたんですかねえ。」
 真名はアパートに戻ってからすぐに服を着替え、センターに出勤して研究員の山本にすべてを報告した。その後、広田のアパートの住所を聞いてから、車を運転して持っていった。
 次の日、仕事が終わってから真名は広田の入院している病院に見舞いに行った。広田の顔は腫れ上がったままだったが、思いのほか元気そうだった。
「いやあ、真名ちゃん、助けてくれてありがとう。今度、レストランでおごるからね。」
 真名はこの、ちゃんづけの呼び方が嫌いだった。小娘扱いされているような気がしたからだ。しかしそんなことを指摘すると角が立つので、真名ちゃん、と呼ばせるままにしておいた。
「しかしあの警官野郎、許せないよな。撃たれていい気味だよ。」
 確かにあの警官はおそろしかった。しかしなぜか、真名はあの警官が悪し様に言われることに不快感を覚えた。
 その後二日ほど真名は普通に勤務していたが、もう一人の怪我人、ゼムツォフのことが気にかかっていた。あの警官は、今頃自分のことをどう思っているのだろうか。
 もちろん、あの警官に発砲したのは自分と広田を守るためであり、後悔する筋合いのものではない。だが、真名は割り切れなかった。あの警官の苦しげな様子を忘れることはできなかった。
 身体に弾丸を撃ち込まれる痛みとはどのようなものだろう、と真名は考えて恐怖で気が遠くなった。しかもその恐怖を、ほかならぬ自分が彼に味わせてしまったのだ。
 数日間悩んだ末、真名はこの罪悪感に立ち向かっていくことに決めた。それはつまり、ゼムツォフに対し謝罪をするということだった。もしかしたら皮肉を言われたり、怒鳴られて追い返されるかもしれない。
 だが、真名は行動を起こすことにした。ゼムツォフが自分に対する怒りを解いてくれるかどうかはわからなかったが。
 真名は自分を取り調べた刑事に会いに行き、ゼムツォフの居場所を教えてくれるよう頼んだ。当初、刑事はめんどくさそうに真名をあしらった。
「彼はあんたもよく知っているように、傷害事件の被疑者なんだ。みだりに接触してもらいたくはないね。」
「そうですけど、私が怪我をさせたことに間違いはありませんから。彼に恨まれたくはないのです。だからお願いします。」
 真名は刑事の手にそっと五〇ドル札を握らせた。刑事はややためらったものの、ぶっきらぼうに病院の場所を教えてくれた。
 見舞いの品に小さな花束を用意して、真名は病院に向かった。受付でゼムツォフの名前を告げると、見張りの刑事が出てきた。
 刑事に案内されて病室に入ったが、ゼムツォフがどういう応対をするだろうかという不安で、心臓が激しく動悸していた。しかし、ゼムツォフはベッドに横になって眠っていた。
 真名はひとたび安心したのと同時に、せっかく来たのに自分の話を聞いてもらえないのでは、と不安にもなった。とりあえずベッドのそばに椅子を寄せて座ると、人の気配を感じたのか、ゼムツォフは目を覚ました。
「痛みますか。」
「はい。」
 ゼムツォフは上半身を起こし、何故来たのか、と問いたげな視線を真名に向けた。彼女の見舞いを意外に思っているらしかった。
 しばらく沈黙が続いたが、ゼムツォフの方から口を開いた。
「俺の足の傷の応急手当をして下さって、ありがとうございました。
 それから、あなたがかばってくれたお陰で、俺は殺されずにもすみました。俺はあのときむしゃくしゃしていて、そのためにあなたの連れの男を殴りました。彼の怒りは当然です。本当にあなたには感謝しています。」
 思わぬ言葉に当惑しながらも、真名は伝えたかった謝罪の言葉を述べた。
「私は今日、謝りに来たんです。本当は発砲したくなかったんです。でも結局は、あなたに苦痛を味わせてしまいました。本当にごめんなさい。」
「いや、あなたが俺の暴力をやめさせてくれてよかったんです。そうでなければ、俺はあの男を殴り殺したかもしれない。それに、事が発覚するのを恐れて、俺はあなたにもひどいことをしようとしたんです。  だから、あなたは悪くはないんですよ。俺が人殺しにならずにすみましたから。」
 ゼムツォフの紳士的な態度に真名の緊張は解け、彼に好意すら感じられてきた。
「怪我の方はどれくらいで治るんですか?」
「二カ月くらいと聞いています。心配をおかけしましたね。こんな怪我をするなんて、すべては自分が悪いんです。ばかなことをしたと後悔しています。あの事件ではあなたにも怖い思いをさせて、申し訳ないことをしました。
 それにしても、あなたと話をする機会があるとは思わなかった。来て下さって、本当にありがとうございます。」
「私も、あなたに会いにきてよかった。あなたが本当はどんな人かを知ることができましたもの。」
 ゼムツォフへの敬意を込めて真名は右手を差しだし、彼もそれに応えて握手した。そして真名は持ってきた花束をゼムツォフに手渡した。
 真名は病室を出たが、自分の非を潔く認めたゼムツォフの態度に感激すら覚えた。同時に、どんな事情があってあんな事件を起こしてしまったのだろう、と真名はゼムツォフを気の毒に思った。
 それからおよそ一カ月半後に、真名と広田は事件の証人として裁判所に呼び出された。
 被告人であるゼムツォフはまだ怪我が治りきっていないらしく右足を引きずりながら法廷に現れ、真名は再び罪悪感に胸が痛んだ。
 彼らが証言をした後、検事はゼムツォフが被疑事実をすべて認めているので裁判は迅速に進み、間もなく判決が下るだろう、と言った。
 判決後にゼムツォフは服役することになるだろう。真名はこれで事件が過去のものとなることを感じた。そしてもう二度と彼に会うことはないだろう、ということも。


第2章   再会

 広田が警官に暴行された事件からおよそ一年と少しがたったある秋の日、真名はペソーチナヤ通りのカフェにいた。この日は仕事でこの通りにある小さな研究所に行った後、昼食をとるべくカフェに入ったのだ。
 真名はコーヒーを飲みながら、ほんやりと表通りを眺めていた。人々が厚手の上着を着るようになったのを見て、秋の深まりを感じていた。そんな彼女に、声をかける者があった。
「お久しぶりです。俺のことを覚えていますか?」
 真名が声のした方を見上げると、そこには濃い茶色の髪をした背の高い男が立っていた。真名にとって、見覚えのある男だった。
「ゼムツォフさんですね?」
「はい。五日前に出所しました。」
「まあ、そうなの?それは本当によかった。お元気でしたか?」
 ゼムツォフのことは長いこと心の隅にひっかかっていたから、思いがけないところで再び彼と会うことができて、真名は実に嬉しかった。
「今、俺は新しい仕事を探しているんです。あのう、このテーブルに来てもいいですか?」
 真名が承諾すると、ゼムツォフは自分のカップや皿を持って移ってきた。
「あなたはまだモスクワにいらしたんですね。この街でお仕事をなさっているんですか。」
「ええ、そうです。モスクワでの仕事をわざわざ希望して来たのよ。」
「俺の方はなかなか仕事が見つかりません。大変ですよ。」
 目の前で穏やかに話している男が広田を襲ったあの凶暴な警官と同一人物のようには見えなかったが、おそらくこちらの方がこの男の本当の姿に違いない、と真名は思った。
 しばらく当たり障りのない話をしたあと、ゼムツォフはこう切り出した。
「あなたにお礼がしたいので、連絡先を教えてくれませんか?」
「お礼と言いますと?」
「命を助けてくれたお礼です。俺はあなたに親切にされるような筋合いの者ではないのに、あなたは俺を救ってくれたんです。だから、感謝の気持ちを表したいんです。」
 真名は少し迷ったものの、手帳を破って自分の名前を書き、電話番号を併記した。ゼムツォフも持っていた新聞を小さく切り取り、隅の余白に自分の名前と電話番号を書いて、真名とそれを交換した。
「大野真名といいます。マナ、が名前です。」
「俺はルスラン=アレクセーイッチといいます。ルーシャ、と呼んで下さい。」
 その後二人は別れ、真名はスモーレンスカヤ通りのビルに戻って仕事を続けた。そして夕方になり帰宅して、ルスランからもらった紙切れを見ながら、彼のことを考えた。
 ルスランは無事に出所できたようだ。真名もこれで彼のことを気にかける必要がなくなったのだが、彼と再会したことがきっかけで、逆に彼に対して関心を持つようになった。
 最初は同情からだった。当然のことながら警察を辞めさせられ、必死に職捜しをしなければならないのだから。それがルスラン自身の自業自得であっても。
 だが、ルスランがあの事件を起こしたせいで、彼の人生は大きく変わったはずだ。その場面に立ち会った自分としては、事件を起こした経緯や、それまでの彼がどんな男であったのかということについて知りたい、と思うようになっていった。
 その一方で真名は、ルスランに関心を持ち始めた自分に戸惑いを覚えたし、おかしくもあった。
 それから真名は、ルスランからの連絡が本当に来るかどうか、期待と不安の入り交じった気持ちで待ち続けた。礼を期待しているのではなく、彼とはじっくりと話をしてみたかったからだ。
 ルスランからの連絡は次の日の夜に入った。
「日曜日はお仕事はお休みですよね?でしたら、今度の日曜日にヤロスラヴリ駅で待ち合わせましょう。」
 駅に来い、とは自分をどこかに連れ出すつもりだろうか。素性の知れない男についていくのは軽率ではないか、と真名は迷った。しかし、それ以上にルスランへの関心が押さえ切れなかった。
 結局、真名は指示どおりにヤロスラヴリ駅に行き、そして二人はモスクワの郊外に行く列車に乗った。
 真名の見たところ、ルスランは駅では普通にゆっくりと歩いていた。そこで彼と向かい合わせの席に座った真名は、怪我の治り具合を尋ねてみた。だが、返ってきた返事は、真名の予想の範囲を越えていた。
「日常生活をおくる分には支障はないですよ。痛みもほとんどありません。だけど、走ることはできなくなりました。」
 真名が言葉を失ってしまったのに気づき、ルスランは彼女を慰めるべく言った。
「気にすることはないんですよ。足がもとどおりになったって、俺は警察を辞めさせられたことにかわりはないんですから。」
 ルスランは話題を変えてしまったが、真名は心の中ではこのことをずっと気にしていた。表向きは平気な風を装っているルスランだったが、本当はどんな気持ちでいるのだろうか。せめて彼に償いたい、と真名は強く思った。
 だが、具体的にはどうすればいいかわからなかったし、なによりもルスランが自分のことを本心ではどう思っているのかを知る必要もあった。まったく自分を恨んではいないのだろうか?
 四十五分ほどたって列車はベレゾーゼロに到着し、二人は下車した。そこでは一組の若い夫婦がルスランたちを迎えに来ていた。
「やあ、コーリャ。今日は世話になるよ。スヴェータ、久しぶりだね。
 こちらは、真名さん。日本から来て、モスクワで働いている人なんだよ。」
 迎えの車に女性が乗っていたので、真名はとりあえず安心した。ニコライが運転する車に乗って向かった先は、彼の牧場だった。そこでニコライは一頭の馬をひいてきた。
「こいつならおとなしいからね。でもルーシャ、足の方は大丈夫か?」
「ゆっくり行くから、平気だと思うよ。」
 こういう会話が交わされたことにより、ルスランの足が不自由になったことが改めて実感され、真名の胸は痛んだ。
 ルスランは真名を馬に乗せ、自分も後ろにまたがって手綱を軽く当てた。
 馬は白樺の林のなかをゆっくりと進んでいった。木々の葉は色づいて、馬が落ち葉をさくさくと踏む音がした。ひんやりとした晩秋の空気が真名の頬にあたった。
 真名はときどき、大きく息を吸い込んだ。馬の背中の上は思ったより高くてどきどきする、と真名は思おうとした。実際は自分のすぐ後ろにいるルスランを意識していたのだが。
 三十分ほどして沼があらわれたので、二人は馬からおり、ルスランが手綱を木の枝に繋いだ。
 真名は白樺の木々の映る沼の水面を眺め、ルスランは岸辺に生えている木に寄りかかった。
「この村には外国人は滅多に来ないんです。だからあなたを連れてきたんです。ロシアに来てからは、どこに行きましたか?」
「出張ではペテルブルグに二回、ノヴォシビルスクに一回行きました。あと、休暇を利用してヴラジーミルに行ったことはあります。でも、こういう大自然の中には来たことはありません。」
「それはよかった。どうすればあなたに喜んでもらえるか、いろいろ考えたんですよ。あなたに高価なものを贈るような真似は、俺にはできないし。それで、ここに連れてきて美しい景色を楽しんでもらうのはどうかな、と思ったんです。
 俺はモスクワで生まれ育ったんですが、このベレゾーゼロの村が好きなんですよ。母が離婚して出ていったので、この村に住んでいる叔母を母親がわりに慕って、よくここに来ました。
 八年ほど前にコーリャがここで牧場を始めたので、俺はよく馬に乗せてもらったり、馬の世話を手伝ったりしましたよ。一時は馬に夢中になって、彼の牧場で働かせてほしい、なんて思ったことすらあります。
 でも結局は警察に入ってしまいました。兵役に行ったときは乗馬の訓練をさせてもらえて、それはそれで楽しかったんですけど。
 俺みたいな男にとって、警察は居心地がよかったです。俺は射撃の成績がよかったし、護身術も得意でした。新米だったころは、柔道も習っていました。
 俺はあの事件で一年の刑を言い渡されて、刑務所に送られました。でも模範囚だったので、十カ月で出所することができました。
 そして、すぐにモスクワで別の仕事を探そうとしたんです。まず、警備会社で雇ってもらおうとしたけど、だめでした。」
 ルスランはその理由を言わなかったが、それは足の障害のせいだろう、と真名は推測した。
「それで、別の仕事を探そうとしてあちこちあたってみるつもりでいたところ、あのカフェに立ち寄ったんです。あなたをあの店で見かけたときは、すぐにわかりました。嬉しい偶然ですね。
 あなたには怪我の手当をしてもらったり、病院に見舞いに来てもらったり、と随分親切にしてもらいました。俺が人に暴力を振るうところを見てしまったのだから、怖がって関わらないようにするのが普通なんでしょうにね。
 でも、あなたの思いやりはとても嬉しかったです。それに、あなたが俺を助けてくれたお陰で、またこの村に来ることができました。事件を起こして以来、ここに来たのは初めてなんです。本当にあなたには感謝しています。」
「そんな、私はあなたに感謝されるような人間ではないわ。だって私はあなたの足を不自由にしてしまったのよ。このことで私を恨んではいないの?」
「正直に言うと、少しの間だけあなたを恨んだことはあります。」
 真名は胸に突き刺すような痛みを感じ、おそるおそる尋ねた。
「あなたに償いたいと思っているのだけど、私はどうしたらいいのかしら?」
 ルスランは答えなかった。返事がないことに真名は恐ろしくなり、ルスランの方に視線を向けられず、沼の水面を見つめ続けた。
 ふと、ルスランが自分の方に近づいてきた気配がしたので、思い切って彼の方を向いた。ルスランの緑がかった灰色の目が自分を見下ろしていた。
 その目に真名は感じるものがあった。かつて日本にいたときも、こういう目で自分を見つめてくれた男が何人かはいた。もちろん、今となっては彼らとはなんらの関わりも持ってはいなかったが。
ルスランは真名の身体をそっと抱き寄せた。真名の心臓は生まれて初めてといっていいほど激しく鼓動した。
 しばらくしてルスランは身体を少し離した。そして真名の頬に手を添えて口づけした。
 ルスランは再び真名を抱きしめて言った。
「俺はいろいろなものを失ってしまった。だけど、きみさえいてくれればそんなことはもう気にならない。きみを愛している。」
 真名の気持ちを確認するかのように、ルスランは真名を抱く腕に力を込めた。
「ずっと俺のそばにいて欲しい。俺がきみに望むのはそれだけだ。」
 真名はルスランの胸に顔を埋めたままうなずいた。
 それからしばらくして二人は牧場に戻ったが、ニコライたちにはなにも話さず、普通にふるまった。ニコライ夫婦は、ルスランが出所した祝いの御馳走を用意して二人を待っていた。
 昼食の後、真名は今度は一人で馬に乗るようにすすめられ、ルスランに手綱を引っ張ってもらいながら、乗馬の練習をさせてもらった。そして二人は再び駅まで車で送ってもらい、モスクワ行きの列車に乗った。
 ニコライたちが牧場に戻る車の中で、スヴェトラーナがぽつりと漏らした。
「ルーシャは彼女のことが好きなのね。」
「え?俺は恩人の女性だとしか聞いていないよ。何故、きみはそのことに気づいたんだ?」
「それはね、ルーシャの彼女を見る目が、コーリャが私を見る目と同じだから、よ。」
 スヴェトラーナは冷やかすような視線をニコライに向けた。
「もしそれが本当なら、結構な話だよ。ほら、ルーシャは事件を起こす直前にリューバと別れてしまっただろう。あれで彼はかなり痛手を受けていたんだから、新しい恋人によって慰められれば、と思うよ。」
「それは甘いわね。あの日本人の彼女もリューバと同じように、ルーシャを捨てて国外に行ってしまうかもしれないじゃない?」
 一方、二人は列車の中で、行きとは異なり並んで腰掛けていた。真名はルスランにもたれかかり、ルスランは真名の肩に腕をまわしていた。
 モスクワに来てこのような出会いがあるとは思わなかった。真名は新しい恋人のぬくもりを感じ、甘美な思いに浸っていた。
 やがて列車はヤロスラヴリ駅に到着した。ルスランは駅前にいた花売りから赤い薔薇の花を買い求め、真名に贈った。そしてルスランは彼女を地下鉄の駅の改札まで送っていった。
「ルーシャ、今日はありがとう。とても楽しかったわ。」
「また連絡するよ。愛しいマーナ。」
 ルスランは真名に口づけし、彼女は顔を赤らめながら地上への階段をのぼっていった。
 その日の夜、ルスランから電話がかかってきた。酔っているようなたどたどしいしゃべり方だった。
「マーナ、きみと出会えて本当によかった。」
「私もよ。」
「毎日でもきみに会いたい。今すぐにでも。今夜、これから会いにいってもいいか?」
「困ったことを言うわね。今度、また。」
「そうだね、すまない。じゃあ、また連絡するから。おやすみ。」
 酔っぱらいの戯言が、こんなにも嬉しく感じられたことはなかった。真名はもらった薔薇の花を眺めた。花の赤い色が、ルスランの自分に対する燃えるような情熱を表しているようだった。
 もっとも昼間の言葉とは裏腹に、真名はルスランとの交際は自分がモスクワにいるあと一、二年の間だけのつもりでいた。少なくともこの時点では。


第3章   求愛

 その後も二人は週に二、三回ほど会い、初冬のモスクワ市内を一緒に歩いた。
 当然のことながら、真名はルスランと会っていることを広田にはまったく話さなかった。しかしある日、広田の方から彼のことを話題にだした。
「あの暴力警官、そろそろ出所するころじゃないかなあ。」
「そういえばそうですね。」
 真名はさりげない風を装った。
「俺は奴に金を要求されたにもかかわらず、奴が本気で金を巻き上げるつもりはなかったと主張したらしくて、強盗ではなく単なる傷害ということにされてしまった。それで、刑期もたった一年になり、悔しいほど短くなってしまった。
 あの野郎、出所してからもモスクワにいるのかなあ?もし見かけたら、今度は俺の方がめちゃめちゃに殴りつけてやりたいよ。」
 広田がルスランを恨む気持ちはわからなくはないものの、ルスランの恋人となってしまった真名には、広田の執念深さが疎ましく思われた。
 それにしても、ルスランが広田を襲ったそもそもの理由は何だったのだろう?真名は次の機会にそのことを尋ねてみることにした。
 間もなく真名は映画館でルスランと会うことになった。
「きみならロシア語がうまいから、映画の内容もわかるだろうと思って。ロシア語はどこで勉強したの?」
「高校生のときには独学で、それから大学で四年間学んだの。
 大学を卒業して三年ほどはロシアとは関係のない仕事をしていたんだけど、ロシア語のできる秘書を募集していたので、応募してモスクワにきたのが去年の秋のことよ。」
 しばらくの沈黙の後、ルスランはさりげなく言った。
「この後、俺のアパートに泊まりに来ないか?」
 真名が返事をためらっているうちに館内が暗くなり、上映が始まった。
 ルスランの誘いがなにを意味しているかを真名は察知していた。男に求められるときがついに来て、真名は甘美な思いで胸がつまりそうになった。映画の内容などまったく目に入らなかった。
 その一方で、本当にルスランに身体を許してもいいもかどうかという迷いもあった。単に会うだけなのと、それ以上の深い関係になることは話が違うのだ。ルスランが本当に安全な男かを見抜く自信はなかった。真名は見知らぬ外国の街で軽率なことはしたくはなかった。だから真名は、少なくともこの時点ではルスランの言葉に従うつもりはなかった。
 映画が終わるとルスランはまっすぐ地下鉄の駅へ、ひいては自分のアパートまで行きかねない勢いだったので、真名は彼を引き止めるように言った。
「ルーシャ、今日は事件の事を話してもらいたいと思って来たの。」
 ルスランは少し考えてから、答えた。
「いいよ。みっともない話なんだけどね。でもきみにはいつか話さなければ、と思っていた。」
 そこで二人は近くのカフェに入った。
「いらいらしていたから広田さんのことを殴った、って病院では言っていたわね。一体何があったの?」
「実はあの頃、俺には恋人がいたんだ。リュボーフィという名前の、弁護士をしている優秀な人だった。
 まあ、俺が彼女とは釣り合わないという気がしていたけど、真剣に愛していて、結婚も考えていたんだ。
 ところが、俺が事件を起こした前の日に、ニューヨークの大学院に行くから別れたいと言われた。でも実は、日系アメリカ人の男と結婚して、そいつとニューヨークに行くつもりだったらしい。
 そういうわけで彼女と別れてしまった。だけど俺はその四カ月前に父を亡くしていて家族がもういなかったから、なおさら一人になったことが身に染みてつらかった。それで、彼女を奪っていった外国人が憎い、と思った。
 その晩は少し自棄酒を飲んで、眠ろうとしても眠れなかった。でも、翌日は勤務があったから仕方なく出勤したんだ。あの日一緒にパトロールした警官は不まじめな野郎で、前の晩に女と飲んで徹夜したとかで、パトカーのなかでうとうとし始めた。それで俺一人でパトロールしていたんだ。
 カメンスカヤ通りに来たときに、ちょうどきみの連れだったあの男が車を止めて下りてくるのを見かけた。遠目でも外国人とわかったから、怒りが込み上げてきて、何も考えずに俺もパトカーから下りて彼のあとを追った。外国人、とくに日本人が目障りだと思ったんだ。
 きみが車に残っていたことはまったく気づかなかった。まわりが見えていなかったんだな。
 それでも彼と顔をあわせたときに、最初はパスポートの提示を求めたりして、自分の感情を抑えようとはしたけど、だめだった。それで俺は彼を困らせてやろうと、金を要求したんだ。本当に金が欲しかったわけではないんだ。彼に屈辱を味わせてやりたかったんだ。
 すると彼は日本語で何かを言った。内容はわからなかったけど、何か悪態をつかれたんだとわかって、俺は怒りを抑え切れなくなり、彼を殴りつけてしまった。
 当然のことながら彼はひどく脅えて逃げ出そうとした。それを見て徹底的に彼を痛め付けてやりたいという衝動に駆られ、彼に飛びかかった。その後のことは、きみも見たとおりだ。」
 この段階になると、真名は冷静にルスランの話を聞けなくなっていた。ルスランにそこまで愛した女がいたということが衝撃的だった。
「私、帰るわ。」
 耐えられなくなった真名はコーヒー代の小銭をテーブルの上に叩きつけて、店を飛び出した。ひどく苛立たしくなり、ルスランの顔など見たくはないと真名は思った。ルスランは慌てて真名を追いかけてきた。
「マーナ、待ってくれ。」
「あなたにはもう二度と会わない。」
「落ち着いて俺の話を聞いてくれ。」
真名はその場から走り去った。ルスランの足では追いつかないことがわかって、全速力で走った。
 しばらくして携帯電話が鳴った。真名はすぐに電源をきり、アパートに帰ると電話を引き出しに放り込み、ベッドに腰を下ろしてぽろぽろと涙を流した。ルスランがかつて愛した女の話など、聞きたくはなかった。もし今でもルスランがリュボーフィに未練を持っていたいとしたら、そんなことは耐えられない、と真名は思った。
 ルスランとしては、真名に正直でありたい、と思ったからこそ真実を話したのだったが。

 それから三日がたったが、事は単なる痴話喧嘩ではすまなくなってしまった。
 その日の朝、真名はいつものようにアパートを出たが、頭の中はルスランのことで一杯だった。ほんの少し前までは、償いのために彼が望む限り一緒にいようとした。それにもかかわらずリュボーフィのことを聞かされてからは、真名はどうしても冷静にルスランと会うことはできなくなってしまった。
 ルスランと会いたくないからこそ、連絡が来ないように携帯電話の電源は切ったままだった。しかし、もし日本の両親が自分のところに電話をかけてきたときになかなか電話がつながらなかったら、彼らに心配をかけることになる。そろそろ電話の電源を入れなければならないだろう。
 そんなことを考えながら地下鉄の駅に来てみると、改札のところにルスランが立っていた。連絡がとれないことに耐えられなくなったルスランは、ついに真名を待ち伏せるという行動にでたのだ。
「おはよう。」
 ルスランが声をかけてきたが、真名は彼を無視して改札を通り、地下鉄に乗った。ルスランも彼女のあとを追って地下鉄に乗り込んできた。
「マーナ、お願いだから会ってくれないか。俺の話を聞いて欲しいんだ。」
 ルスランは真名の隣に立ったが、真名は一言も返事をしなかった。ルスランの顔が寂しげなのを盗み見た真名は、奇妙な快感を覚えた。
 スモーレンスカヤ駅についたので、真名は下車して地上へのエスカレーターをのぼっていった。ルスランも彼女のあとを追い続けた。
 真名がその気になれば、この前会ったときのようにルスランを振り切ることはできた。しかし真名は、ルスランの足で追いかけられる程度の速さで歩いていった。ルスランに自分を追いかけさせることで、彼がリュボーフィを愛したことに対する罰を与えているような錯覚に陥っていた。
 さすがのルスランも、国際原子力管理センターのあるビルの中まではついてこなかった。
 その日はもう一人の研究員、山本が講演にでかける予定になっていて、タクシーを呼んだ後、真名は山本と一緒にビルを出た。ルスランはまだビルの前にいて、街灯によりかかって真名が出てくるのを待っていたようだ。
 真名はルスランの視線を感じながら、彼が声をかけてこないように祈りつつ、山本のあとに続いてタクシーに乗り込んだ。さすがの真名もルスランが哀れに思えてきた。
 午後になって真名がスモーレンスカヤ通りのビルに戻ると、広田が脅えるように話しかけてきた。
「あのさあ、真名ちゃん。今朝俺がここに出勤してきたら、ビルの前に怪しい男がうろうろしていたんだ。それがあの暴力警官によく似ていたんだ。今朝、タクシーに乗ったときに気づかなかった?
 真名ちゃんたちが出掛けてからすぐに警察に来てもらって、奴を連行してもらったよ。あいつはもう出所したらしいな。ここに現れたということは、警察をくびになったことを恨んで、俺や真名ちゃんに仕返しするつもりなのかもしれない。これからはお互いに用心した方がいいんじゃないかな。」
「そんな、本当にその人がゼムツォフだったんですか?はっきりしたことはまだわからないんでしょう?」
 真名は平静さを装ったが、顔色の変わる思いだった。そこで仕事が終わると、一目散に警察署へ駆け込んだ。自分はやりすぎたのだ。もし地下鉄で会ったときに少しでもルスランの話を聞いてやっていれば、こんなことにはならなかったはずだ。
「今日の午前中、ここにゼムツォフという男の人が連れてこられたはずですが。」
「彼がどうかしましたか。」
 応対した刑事ははっきり返事をしなかったが、真名は必死になって続けた。
「ルスランさんは怪しい人じゃありません。そのことを言いに来たんです。
 実は、私は彼と交際しているんです。でも、ここ三日ほど連絡をとっていなかったので、彼が心配してスモーレンスカヤ通りのあのビルに私の様子を見にきたんです。それだけなんです。」
 真名は顔が赤くなる思いだったが、目の前の刑事が無表情なままなのが救いだった。
「あなたのお名前は?」
「大野真名です。国籍は日本です。」
 刑事は真名の名前を書き取って別室に消えたが、ほどなくして戻ってきた。
「大野さん、あなたは広田氏が暴行された事件で、ゼムツォフに発砲して怪我を負わせていますね。正当防衛ということになっていますが。」
 やはりルスランは前科を調べられて、この警察署に拘束されていたのだ。
「それを承知で彼はあなたと交際していると、そうおっしゃるわけですか。」
「そうです。間違いありません。」
「では、あなたは彼から脅しを受けたり危害を加えられたことはありませんか。」
「一度もありません。」
「では、広田氏のことについて、彼から何か質問されたことはありますか。」
「ありません。そもそも彼は、広田さんがスモーレンスカヤ通りのビルで働いていることも知らないはずです。それに彼は、広田さんについてはなんら関心を持ってはいません。」
 刑事は真名の住所や電話番号を書き取ってから言った。
「あなたの言ったことが事実と確認できれば、彼を釈放します。今日はこれでお帰りください。」
 真名は不安をかかえたまま、アパートに戻った。そして、もしルスランが釈放されれば彼から連絡がはいるかもしれない、と期待して、携帯電話の電源をいれた。
 予想通り、それから間もなくして電話が鳴った。
「マーナ、俺は今から家に帰るところなんだ。きみが警察になにか言ってくれたんだろう?」
「ええ。」
「ありがとう。それでよかったら、これから会えないだろうか?」
 真名にはもう意地を張る気力がなかった。
「いいわよ。」
 待ち合わせ場所は、高層アパート街のそばの地下鉄の駅だった。真名が予想したとおり、ルスランは彼女を自分のアパートに連れていった。
「ルーシャ、私のせいで警察につかまってしまって、ごめんなさい。」
「俺ははじめ、警察に連れていかれる理由がわからなかった。でも、抵抗しても無駄だということは、自分も警察にいたからわかっていた。そこでおとなしく連れていかれたんだ。
 そして、あのビルの前にいた理由を言え、と迫られた。まさか、付き合っている女と連絡がとれないから待ち伏せしていたんだ、なんて言えなかったから、黙秘していたんだ。
 刑事には何時間にもわたってしつこく粘られたよ。だから俺は、多分自分の前科がばれたんだろう、と不安になってきたんだ。
 そうしたら、別の刑事が来て、大野真名という女を知っているか、住所や電話番号を言え、と言われたんだ。これは多分、警察がきみについてなにかをつかんだに違いないから、正直に答えた方がいいと気づいた。それで、彼女との関係は、と聞かれたときに、恋人です、と答えた。
 それからすぐに釈放されたよ。どうもありがとう。」
「もととはいえば、私がかんしゃくをおこしたのがいけなかったのよ。あなたが事件を起こした経緯については、私の方から話して欲しい、って頼んだのにね。
 実は私はリュボーフィという女の人のことが耐えられなくなって、それであなたに二度と会わないなんて言ってしまったのよ。」
「そうだったのか。俺はまた、日本人が目障りだと言ったからきみが怒ったのかと思った。そう考えていたのはあの事件の当時だけで、今はそう思っていない。俺はもともとネオナチみたいな連中とは違うんだ。」
「あなたがつらい目にあって、ついそんな考え方をしてしまった気持ちは私にもわかるわ。」
「それから、リューバのことできみに不安な思いをさせて悪かった。彼女とは過去のことだ。今はきみだけを愛している。信じて欲しい。
 これからも会ってくれるね?」
「ええ。意地を張ってごめんなさい。」
 真名と和解できたことでルスランは上機嫌になり、簡単な夕食を用意した。二人は数日振りに楽しく話をすることができた。
「ルーシャ、ここはご両親も住んでいたの?」
「そうだよ。このアパートに彼らが引っ越して来たのは二十五年くらい前のことなんだ。
 昔、俺のママはフィギュアスケートの選手で、国際大会にも少しは出たことがあるらしい。そういうわけでわりといいアパートがもらえたんだ。
 両親が離婚したときに、俺とパパがここに残ったんだ。そしてアパートの所有権が認められるようになったときに、手続きしてパパのものにした。彼が死んでからは、俺が一人で住んでいる。」
 食事が終わり、食器の後片付けを手伝ったあと、真名は自分のアパートに帰ろうとしたが、ルスランは意外だとばかりに熱心に引き止めた。
「せっかく来たのだから、ここに泊まっていけばいいじゃないか。」
「そういうわけにはいかないわ。」
 ルスランに身体を許していいとはまだ決めてはいなかった。真名は慌てた。しかし、ルスランも意地になっていた。
「まだ警戒しているのか。でも、今回は俺も引き下がらないよ。二度と会わないときみに言われて、どんな思いをしたことか。だから今夜は絶対にきみを帰さないよ。」
 真名には、ルスランが自分を引き止めようとする言葉がひどく嬉しく思われた。リュボーフィのことであんなにも嫉妬した自分が、ルスランに求められて彼を拒否できるはずがなかった。
 真名がうつむいてしまったのを見て、ルスランは彼女の承諾を得たと確信した。そして彼は真名の身体を押して隣の部屋に連れていった。
 ルスランは真名をベッドに座らせると、カーテンをひいた。そして自分も真名の隣に座った。薄暗いなかでも、ルスランの灰色の瞳がじっと自分に注がれているのが真名にもわかった。
 ルスランは真名に口づけし、その身体をベッドに倒して、自分がその上にかぶさった。真名はすべてを彼に委ねる気になっていた。この男に自分のすべてをさらけ出したい、と強く思った。自分のありのままの姿をこの男に受け止めてもらいたい、という気持ちが大きく膨らんで、はじけた。
 その後しばらくベッドの中で覚めやらぬ快感に身を任せて、真名は無言のまま横たわっていた。ルスランへの不安は消えてしまっていた。思い切って一歩を踏み出してしまったのだから。この先ルスランとの間で何があろうとも、彼に身を任せる喜びを求めずにはいられなくなってしまった。
 ふと、真名はルスランの足の傷のことを思い出した。真名は身体を起こすと、ルスランの右足首に顔を近づけた。
 そこには未だ痛々しさを感じさせる傷痕が残っていた。それは紛れもなく自分がつけた傷痕なのだ。真名はその傷痕に軽く触れた。まるでルスランに許しを乞うように。
 ルスランは笑みを浮かべ、真名をなだめるように抱き寄せた。
「きみを愛している。」
 そのまま二人は眠りに落ちていった。迂闊なことに真名は、ルスランを警察に引き渡した広田のことは、すっかり忘れてしまっていた。


第4章   決意

 真名が次にルスランのアパートを訪れたのは、金曜日の夕方のことだった。ルスランは前回と同じように地下鉄の駅に迎えに来てくれた。
 彼のアパートにつくとすぐに、ルスランは彼女を激しく求めてきた。真名も負けず劣らず熱くなって、自ら服を脱ぎ捨てた。自分と男を隔てるものすべてが邪魔に思えた。
 まだ絶頂の冷めやらぬ真名の身体の上でルスランがいき果てて荒い息遣いをしているのを耳にして、真名はこの上もない充実感を感じた。男をこれほど燃え立たせることができて、たまらないほどの誇らしさを感じた。
 その後二人はアパートで一緒に食事をし、真名はルスランの家族のアルバムを見せてもらった。
 ルスランは父親似で、髪と瞳の色が同じだった。そのことを真名が指摘すると、ルスランはことのほか嬉しそうだった。その辺に真名は彼と父親との深い絆を感じ取った。
 ルスランはその他に、子供のころ病死した姉がいたこと、またフィギュアスケートのコーチをしていた母親からスケートの指導を受けていたことなどを話してくれた。彼の家族の話を聞いて、真名はルスランをより身近に感じるようになった。
 真名はその晩はルスランのアパートに泊まり、翌日の夕方上機嫌で帰っていった。モスクワの長くて暗い冬も、ルスランと一緒に過ごせるのならば心細くはなかった。
 翌週になって真名がセンターに出勤したとき、広田はなぜか機嫌が悪そうだった。いつものようになれなれしく「真名ちゃん」と呼ばずに、とげとげしく「大野さん」と呼んだことに違和感を覚えた。
 そして広田は真名に会議室に来るようにいった。指示どおりに会議室に行ってみると、そこには広田以外は誰もいなかった。
「大野さんよ、あんたはあの暴力警官とできているだって?」
 広田が怒鳴りつけるような口調で詰問してきたので、真名の顔から血の気が引いた。
「昨日、警察から連絡があったんだ。なんでもあの野郎はあんたが目当てで、俺には危害を加えるおそれがないから安心してくれ、だと。こんなことを聞かされて、どうして安心できるんだ?」
 広田はもめごとに直面すると、居丈高になるくせがあった。一方真名は、自分の迂闊さを歯がゆく思った。あんなにもルスランを憎んでいた広田が、彼を見かけてそのままで済ますはずはなかったのだ。
 おそらく執念深い広田は、いくらかの賄賂を渡して警察にルスランの捜査を頼んだに違いない。だから真名が警察署で訴えたことが事実かどうかを確認するために、警察は真名かルスランを監視していたのだ。そして、真名がルスランのアパートに二回泊まったのでようやく真名の主張を信用し、同時に広田に捜査の結果を報告したのだ。
「あんたは、何を考えているんだ。あの野郎がこの俺をひどく殴りつけているところはあんたも見たはずだろう?あの事件で奴から拳銃を奪うことができなかったら、あんたは奴に強姦されていたかもしれないんだぞ。
 それがまあ、よくもあんな野郎といちゃつく気にもなるよ。そうせ奴と寝ているんだろう?」
 その言い方がとても侮辱的に思え、真名は返事をしなかった。
「そもそも、どうやって奴と知り合ったんだ?奴があんたの居所を捜し出したのか?それともあんたが奴に近づいていったのか?」
「彼が出所してから、偶然再会したんです。」
「偶然会ったとしても、仲良く話をする間柄じゃないだろうが。」
「広田さんの気持ちはわかります。不愉快な思いをさせて申し訳ありません。もう二度と、彼が広田さんの周辺に現れないようにしますから、勘弁して下さい。」
「だったら奴とは手を切れ。俺は頭のいかれた女と一緒に仕事をしたくはないからな。」
「わかりました。」
 真名はとりあえず広田の怒りを静めようとしたのだ。もちろん、本気でルスランと別れるつもりはなかった。しかし真名が素直すぎたことから、広田は彼女の真意を見抜いてしまった。
「別れる、って言うからには、本当に別れろよ。あんな野郎と喜んで寝るなんて、絶対に許せない話だ。」
「広田さん。公私混同はやめてください。」
 売り言葉に買い言葉で、真名の口調もきつくなった。
「いい加減にしろ。事はあんたの私生活上の問題じゃ済まないんだよ。奴はあの事件のせいで警察をくびになったんだろ?だったら金に困ってあんたを唆し、このセンターの核エネルギーに関する機密資料を盗ませようとするかもしれないじゃないか。」
 あまりの言い掛かりに、真名は言葉を失ってしまった。
「あのな、あんたも一応は日本の公務員で、守秘義務というものを負っているんだ。あの野郎に骨抜きにされて、そのことを忘れるんじゃないよ。
 いいか、俺は寛大だからな。あんたに考える時間をやるよ。奴と別れるか、日本に帰るか、のどちらかだ。もしあんたが奴を選ぶなら、俺はあんたが背任行為を犯すおそれがある、と日本に報告するまでだ。」
 広田に脅されて、真名は自分が窮地に立たされたことを感じた。
 真名はビルを出た後ルスランに電話をいれ、自分と会ってくれるように頼み、地下鉄の改札口で待ち合わせることにした。真名はすっかり気落ちして、無性にルスランに会いたくなったのだ。 「マーナ、電話をもらえて嬉しかった。今夜はうちに泊まっていくかい?」
「いいえ。」
「そう?残念だな。じゃあせめて、一緒に食事をしよう。」
 ルスランはカフェを探そうと通りに出た。真名は待ち切れずに話を始めた。
「ルーシャ、今夜は大切な話があるの。聞いてくれる?
 あのね、広田さんっていう、あなたがあの事件で襲った人が、同じビルで働いているの。その人は私の上司なのよ。だけどあなたがこの間警察署に連れていかれたことがきっかけで、私があなたと付き合っていることがその人に知られてしまったの。
 広田さんはあなたのことを今でも恨んでいるし、私のこともすごく怒ったわ。私のことが気に入らない余りに、あなたが警察を辞めさせられてお金に困っているはずだから、私を唆してセンターの機密資料を盗ませるだろう、とまで言うのよ。」
「そんなことを言われたんだ。でも、もともとは俺が悪いんだ。あんな事件さえ起こさなければよかったんだから。悪かったね、俺のせいでそんなことを言われて。」
「それでね、私があなたと別れないなら、私を日本に帰国させる、ってさっき言われたの。だからルーシャ、覚悟して欲しいの。」
「覚悟って、何を?」
「私たちがいずれ会えなくなるってことよ。だからもう、私のことを忘れて欲しいの。」
 真名は涙がこみ上げてきて、声を詰まらせた。ルスランが涙を拭くかのように、自分の袖口を真名の頬にあてた。
「泣かないで、マーナ。かわいそうでいたたまれなくなるよ。
 大事な話って、このことなのか?きみが日本に帰って、もう二度とモスクワには戻ってこない、っていうことか。そんなことは絶対、納得できないよ。きみを失うくらいならいっそ、この右足を失くしてしまった方がましだよ。」
「でもね、ほかにいい方法がないのよ。」
「ある。俺と結婚して欲しい。」
 真名は驚いてルスランを見上げた。あまりにも唐突な話だ。
「本当は俺が仕事について贈り物を用意してから言おうと思っていたんだ。だけど俺の気持ちはもう決まっていた。こうなった以上、離れ離れにならないためにも、是非ともきみと結婚したい。
 俺のすべてはきみによって救われたんだよ。だから俺の残りの人生はきみに捧げるつもりだ。」
「そんな、外国人同士で結婚するなんて、簡単なことじゃないのよ。」
「多少はそうかもしれない。でも、禁止されていることでもないんだ。だから、承諾してくれないか。」
 ルスランの申し出を嬉しく思ったのは確かだ。しかし、何と返事をしてよいのかわからず頭の中が混乱した真名は、ルスランをその場に置いて逃げ出してしまった。
 通りは粉雪が舞い、真名の肩に薄くつもっていった。真名は涙で頬を濡らしたまま、足早に通りを歩いていった。アパートに帰っても涙が止まらず、一晩中流れ続けた。
 こんなつらい思いをして別れるくらいなら、本当にルスランと結婚しようか、とさえ真名は考えた。しかし、結婚したあとにどこでどうやって暮らしていくか、真名にはまったく検討がつかなかった。
 次の日、真名はやっとの思いで出勤した。意気消沈している真名を、広田はいまいましそうに見ていた。
 仕事が終わってから、真名は山本に残るように言われた。山本がなにを話すつもりなのかは容易に想像がついたので、真名は自分から謝罪した。
「個人的なことを職場に持ち込んで、申し訳ありません。」
「広田くんに話を聞いたよ。きみを責めるつもりではないんだ。ただ、単純に驚いたんだ。そんな出会いをした男性と縁があるとはね。」
「先生。広田さんが言うようなことは私は決してしません。彼にだってここの仕事の内容はほとんど話してはいないんです。」
「そのことなら、わたしは心配していないよ。きみとは一年以上一緒に仕事をしてきたから、きみという人間をわかっているつもりだ。
 ただ、広田くんはきみがそういう行為に及ぶおそれがある、と人事に報告するつもりでいるよ。人事の連中も海外での細かい事情は把握できないから、広田くんの言い分を鵜呑みにするかもしれないね。
 そんなことになったら、日本に戻っても庁内でのきみの立場が悪くなるだろう。そんなことにしたくないのは山々だ。
 だけど、今回は私にも広田くんを説得する自信はないんだ。広田くんにしてみれば、その男性に入院までさせられるほどの怪我を負わされたのだから。きみまでがその男性と親しくなったことが、広田くんにとっては裏切りに思われるんだろうね。
 そこで聞きたいんだけど、大野さんはその男性を別れることができるかい?」
「いいえ。彼は広田さんの件についてはもう罪を償ったんです。今は普通の人間として扱われるべきです。こちらの都合で一方的に彼を捨てるような真似は、とてもできません。」
 リュボーフィのときと同じ思いをルスランに味わせたら、今度は彼はどうなってしまうのだろう、と真名は彼があわれに思えた。
「それに、あの事件のときに私が彼の足を撃ってしまったことはご存じですよね?あのときの怪我で彼の右足が少し不自由になってしまったんです。だから、私はできるだけ彼のそばにいて、償いをしたいんです。」
「そうか、それなら冷静になっていい方法を考えてみようか。その男性はきみのことをどの程度思ってくれているのかな?きみがモスクワにいる間だけつきあえればよいんだろうか?あるいは、きみとの将来のことも真剣に考えているのかな?それともまだそんな話しは二人の間では出ていないかな?」
「結婚しようとは言ってくれました。」
「だったらいいじゃないか。広田くんには内緒で彼を連れて日本に戻り、あっちで一緒に暮らしなさい。
 きみが退職して彼のためにこのモスクワに残るという手もあるけど、せっかく難関を突破して就職できた役所なんだから、やめるのはもったいないと思うよ。それに、モスクワできみがいい仕事につけるかどうかもわからない。
 彼の方はいずれは仕事を見つけられるかどうかはともかく、現時点で仕事がないというのなら、償いの気持ちを込めてきみが彼の面倒をみたらいい。
 彼にそう話してみて、彼がそこまではしたくはない、というなら、その時点でお互いに別れることに納得できるかもしれない。
 本当は若い人には、結婚は慎重に考えなさい、というべきなのかもしれない。だけどきみには度胸がある。きみだったらいったん決意したことに関して、くよくよと後悔することはないんじゃないだろうか。
 確かに、どんな結婚生活になるかはわからないよ。だけど、きみについていえば、今、無理やり別れて未練を引きずるよりは、思い切って結婚した方ががましなのでは、という気がするよ。」
 突然降ってわいたルスランとの結婚話を無謀だと決めつけていた真名も、山本に説得され落ち着いて考えてみるとどうにか実現できそうな気になってきた。
「わかりました、山本先生。彼と相談してみます。」
 この自分が結婚を考えるとは、と真名は奇妙な気がした。もともと真名は結婚に対する願望はなかった。一生仕事を続けて独身を通すつもりでいた。
 しかし、ルスランと出会ってからは事情が変わった。償いの件もあるし、なによりも真名自身がルスランとともにいたい、と思うようになっていった。
 真名はビルを出てから電話をかけ、ルスランにこれから会いにいくと告げた。
 アパートの玄関で真名を出迎えたルスランは、彼女の身体をしっかりと抱きしめた。
「来てくれてよかった。もう二度と会えないんじゃないか、と気が気じゃなかった。スモーレンスカヤ通りに行くと捕まえられてしまうし。日本に戻る、と言っていたから、シェレメーチェヴォ空港に張り込もうかと思ったよ。」
「せっかく結婚の話までしてくれたのに、その返事をしないで帰国するような真似はしないわよ。」
 二人は居間に行ってソファに座り、真名は改まった態度で話し始めた。
「結婚してくれるというなら、私と一緒に日本に来て欲しいの。日本でなら、私はあなたに十分なことをしてあげられるから。」
「俺が日本に?今まで日本で暮らすなんて、考えたことはなかった。つまり、きみの帰国は避けられないんだね。」
「帰国しなければ、あなたと別れざるを得ないのよ。だから、二人が一緒にいられるためにも、一緒に日本に来て欲しいの。」
「そうか、わかった。日本に行くよ。」
「すぐ返事をしなくてもいいのよ。お母さんか叔母さんと相談してからでも。」
「いいんだ。きみが帰国しなければならないと昨夜聞かされて、どんなにかきみのあとを追いかけていきたいと思ったよ。だから、日本へ行ってもいいんだ。
 まあね、せめてこの足の件さえなければ、モスクワで仕事を見つけて頑張るつもりだったけど。でも、今更そんなことを言っても始まらない。そんなことより、きみと離れ離れにならないことの方が大切だ。」
「ありがとう。それを聞いて私も嬉しいわ。でもあなたの故郷のモスクワを離れるように強いたことは申し訳なく思っている。だから、あなたがロシアに帰りたくなったら、理由は聞かないから、いつでも帰っていいわ。」
「どうしてそんなことを言うんだ?俺はいつまでもきみと一緒にいたと思っているのに、きみは違うのか?」
「そうじゃなくて、以前も言ったけど、私はあなたに償いたいの。それはつまり、あなたが望む間はあなたのそばにいるということなの。」
「償いなんて、もうそんなことを言う必要はないんだ。俺がきみにどんなに感謝しているか、話しただろうに。
 ともかく、俺との結婚を決心してくれてありがとう。嬉しいよ。」
 翌日、真名はルスランと日本で暮らす決意をしたことを山本に報告した。
「それはよかった。婚約おめでとう、大野さん。わたしが相談にのったことで、いい結果に結び付くことができて、わたしも嬉しく思うよ。
 このことは広田くんには内緒にしておいて、きみは一身上の都合ということで帰国願いを出しなさい。広田くんとその男性との間にあったことについては、わたしが広田くんに口止めしておくから。なに、それくらいのことならできるよ。」
「なにもかも先生のお陰です。本当にありがとうございました。」
 皮肉にも広田が真名たちの仲を裂こうとして、かえって二人を強く結び付ける結果となってしまった。真名は指示どおり日本に戻ることにしたが、後任の秘書が来るまでのしばらくの間はモスクワに居続けなければななかった。

 二人は婚約の報告をするために、ヤロスラヴリ駅からの近郊列車に乗った。
「俺が十二歳のときに姉のローザが死んで、それからママが離婚したいと言うようになった。それはママの一方的な要求で、パパの方は離婚を渋っていた。だから俺はママに反発を感じるようになったし、本当に両親が離婚したときは、パパと暮らす方を選んだ。そのこともあって、ニーナ叔母さんを母親代わりに慕うようにもなったんだ。」
「ニーナさんにお子さんは?」
「最初のご主人との間に生まれたマーシャは、一応歌手になったけど、あまり売れていないようだし、どうやらマフィアの男との繋がりがあるらしい。それに彼女は滅多に叔母さんのところに顔を出さないんだ。
 再婚した相手の男との間にできた子は、その男に暴力を振るわれたことが原因で流産したって、あとで聞いたよ。
 だからこそ、俺の方も叔母さんの子供の代わりをしたいと思って、事件を起こすまではなるべく叔母さんに会いにいくようにはしていたんだけどね。」
「それだったら、あなたが日本へ行くとお聞きになったら、さぞかしお寂しく思われるでしょうね。」
 真名の予想は当たった。ニーナの家を訪れたルスランは、真名との出会いや結婚を決めた経緯をすべて説明し、彼女と日本で暮らす決意をしたことを告げたが、ニーナはこれに反対した。そしてルスランに、ロシアから出ていくなんてとんでもない、とさえ言った。
 ルスランは多少気落ちしたものの、時間をかけてニーナを説得するつもりでいた。次に二人はニコライたちの家に行った。彼らは既に真名と知り合いになっていたことから、婚約にはこころよく賛成してくれ、しかも祝いの席を設けてくれることになった。
 真名はスヴェトラーナの料理の支度を手伝うことにし、ルスランは真名に聞かれないように別の部屋でニコライと話をした。
「ニーナさんは、やっぱり反対したか。まあ、彼女はおとなしい人だからね。外国で暮らすなんて考えられない、って感じなんだろうね。
 俺は今度のことは、おまえのためにはよかったと思っている。おまえには本当にいろいろなことがあったからな。」
「マーナは未だに償いをする、なんて言っている。だけど俺としてはただ彼女といられれば、それだけでいいんだ。だから、彼女が俺たちのことを考えて申し出てくれたことを、ありがたく受け入れることにした。」
「それでもいいんじゃないか。彼女は多分これからもずっと、おまえの足を不自由にしたことで罪悪感を感じていくのだろうから、おまえは彼女に甘えてやればいい。
 おそらく彼女はおまえにとって、救いの女神となるだろうな。」
「そうだね、俺もそう思うよ。」
 もし事件のときに真名が現場にいなかったら、自分はどうなっていただろうか?広田を殴り殺し、それを隠し切れずに殺人犯として逮捕され、今でも刑務所に入っていたかもしれない。
 あるいは、出所後に真名と再会しなかったら?なかなか仕事も見つからず、孤独を酒で紛らわせながら、警官時代やリュボーフィと過ごした日々を思い出すだけの毎日だったかもしれない。
「それでね、コーリャ。相談があるんだ。金を貸して欲しいんだ。事件の日にマーナが俺の怪我の手当をしてくれたとき、彼女の服を俺の血で汚してしまった。だから、代わりの服を贈りたいと、ずっと思っていた。今回、彼女のためにウェディングドレスを用意したいんだ。金は俺が日本で仕事を見つけてから返すよ。」
「それなら、俺たちが二年前に結婚したときに、スヴェータのドレスを注文した店を教えてやるよ。」
「ありがとう。いろいろと世話になるよ。」
 それから三日後、ルスランはニーナの訪問を受けた。
「ルーシャ。この間は突然日本へ行く話を聞かされて思わず反対してしまったけど、今ではあんたの婚約を祝福したいと思っているわ。あんたがモスクワを出ていってしまうのは寂しいけどね。あんたのことは実の息子同様に思っていたから。」
「ありがとう、叔母さん。わかってくれて嬉しいよ。
 それでね、俺がいなくなってからのここのアパートの管理を叔母さんに頼みたいんだ。誰かに貸せば、毎月決まった収入が入ってくるよ。ただし、悪い連中の手には渡らないように気をつけて欲しい。パパの思い出の残る大切な部屋だからね。」
「いいわよ。アパートはあんたがいつかモスクワに戻ってきたときのために、きちんと維持しておいてあげるわよ。」
 それから半月ほどたって、真名がいったん帰国する日が近づいた。真名は管理センターの職員たちと別れの挨拶をして回った。もちろん、広田にも。
「私はいよいよ日本に帰ります。今までお世話になりました。それから、広田さんには私の個人的なことで不愉快な思いをさせて、大変申し訳なく思っています。」
 しかし、広田はむすっとして返事をしなかった。真名は広田に釘を刺しておく必要を感じた。当面は内密にするものの、これからルスランと一緒に日本で暮らすのだ。日本で再び広田との関わりをもつことがあるかもしれない。
「もし、この件で今後広田さんが騒ぎ立てたり、職権を濫用することがあったら、私は広田さんがゼムツォフを射殺しようとしたことを公表しますよ。」
「何だと?」
 広田は目をむいて真名を睨みつけた。
「そのことは確かにこちらの警察の記録には残っていません。だけど、この私がゼムツォフの犯罪だけでなく、広田さんのしたことについても目撃者であったことを忘れないで下さい。」
「よくも、この俺を脅迫しやがって。」
「私は広田さんが罪を犯さないようにしてあげたんですよ。そのお陰で広田さんはこの国の刑務所に入らずに済んだじゃありませんか。だからもう、私に手出しをしないで下さい。」
 広田はなおも悔しそうだった。しかし、この件にこれ以上言及すると自分の方が不利になることから、もはや何も言わなかった。
 真名が日本へ帰るとき、ルスランは空港まで見送りにきてくれた。
「今度ここに来るときは、私の両親もいっしょだと思うわ。」
 ニーナがはじめのうちは二人の結婚に反対したように、真名の両親もこの結婚に反対するだろう、と彼らは予想していた。
「あのさ、マーナ。俺はママを式に呼ぶつもりはないんだ。ママは既に再婚して新しい家庭がある。俺は関わるつもりはないんだ。その代わり、ニーナ叔母さんに出席してもらうから。」
 両親の離婚を体験していない真名は、ルスランと母親との関係に口を挟む気はなかった。
 成田空港に到着した真名は、すぐさま両親が暮らしている広島へ飛んだ。帰国する少し前に真名はルスランとの結婚について手紙を出しておいたが、予想通り両親は反対の態度を示した。
「彼は以前は警察官をしていたの。きちんとした人なのよ。」
 日本では公務員に対する信頼が高いことから、真名はこう言って説得してみたが、なかなか両親の心は変わらなかった。
 さらにもう一つ、ルスランの足が不自由であることが不利となった。会えばすぐわかることを隠しておくわけにはいかなかった。もっとも、足が不自由になった原因や傷害事件そのものについては、両親には一生言わないでおくつもりだったが。
「足が悪くて日本語も話せない外国人が日本に来たって、なんの仕事も見つからないだろう。どうしておまえがそんな男を日本に連れてきて世話をしてやらないといけないんだ?まさかおまえ、既にその男に妊娠させられたんじゃないだろうな?」
「違うわよ!」
 父親の優治の言葉に真名は顔を赤らめながらも、必死に頼んだ。
「彼がね、モスクワでウェディングドレスを用意して私が来るのを待っていてくれているの。お願いだから一緒にモスクワに行って。」
 結局、両親の賛成を得られないまま、真名は東京に戻った。真名は次の部署への異動が決まっており、すぐにその新しい部署での仕事にかからなければならなかった。
 アパートを借りて新しい職場に通いながら、真名は旅行代理店に頼んで三人分のモスクワ行きの旅行の手配をした。航空券が広島の両親のところに送られてきたとき、母親の夏子の心は揺れ動いていた。
「ねえ、お父さん。真名と一緒にモスクワに行ってあげましょう。いくら私たちが反対しても、真名はたとえ一人ででもこの飛行機に乗ってモスクワにいくつもりですよ。」
「外国人との結婚は手続きに時間がかかるんだ。我々が反対し続ければ、真名もいずれ諦めてくれるかもしれない。」
「そんな、真名の一生に一度のウェディングドレス姿が見られなくなるかもしれないんですよ。」
「そんな下らないことを言っている場合じゃないだろう。」
「真名はこうと決めたら、必ずそれを貫く子だから、もう認めてあげましょうよ。
 それに、これで真名が不幸になると決まったわけじゃありませんよ。日本人同士が結婚しても幸せになれなかったというのは、よく聞く話しじゃありませんか。」
「しかしな、相手の男がどういう男か見極めたいと思っても、言葉が通じなくて話し合いすら一緒にできないんだ。」
「それはそうですけど。でもこの結婚話、真名がモスクワに残ることになるよりはましだったんじゃありませんか。相手の男性の親御さんには気の毒ですけど。
 それに、真名は以前、自分は一生結婚しないと言っていたんです。あの子は誇り高い子ですからね。それが、なにがきっかけかはわからないけど、やっと結婚する気になってくれて。私はむしろよかったと思っているんです。
 もし、今回私たちが反対を押し通して真名を諦めさせても、今後日本人と結婚する気になってくれるかどうかはわかりませんよ。」
 しばらく考えた後、優治は真名に電話した。
「もしもし、真名。おまえはなにがあろうと絶対に役所をやめるな。それが今回の結婚を許す条件だ。相手の男となにがあっても、その後おまえだけでもしっかり生きていけるようにな。
 それを約束してくれるなら、お母さんといっしょにモスクワに行ってやろう。」
「ありがとう、お父さん。モスクワは今とっても寒いから、暖かいコートを着てきてね。」
 こうして最後の難関を乗り越えた真名は、両親と一緒にルスランの待つモスクワにおりたった。
 モスクワはすでに雪と霜で覆われ、真名はルスランの用意したウェディングドレスを身にまとって、この白い街の花嫁となった。その姿を見たルスランが真名を美しいと思い、幸せを強く感じたことは言うまでもなかった。
 結婚式当日はスタジオで撮影をしたあと、ルスランのアパートでパーティーを開き、ニーナ、ニコライ夫婦、ルスランの警官時代の同僚らが出席してくれた。
 その翌日、優治たちは冬のモスクワを観光した。真名がガイドを申し出たが、優治は遠慮して断った。そういうわけで真名はルスランのアパートで二人きりで過ごした。
 夕方には一緒に食事をする約束をしていたので、二人は優治たちが泊まっているホテルに出向き、館内のレストランに入った。優治はルスランと話をする機会を待っていたようで、真名に訳させて懸命にルスランに話しかけた。両親がルスランを理解し、受け入れようとしてくれていることが真名には嬉しかった。
 ルスランにも真名の両親の気持ちが伝わったのか、彼らを安心させるように真名に訳させて言った。
「自分は父にとても愛されて成長した。すでに父は亡くなったけれども、今でも父の自分への愛をこの身に感じている。だからマーナの両親の気持ちはわかるし、決して彼女を不幸にはしない。」
 さらに次の日、真名は両親と日本に戻ることになっていた。新しく異動した職場で長い休暇はもらえなかったからだ。ルスランの方は、出国の手続きやアパートの処理が残っていた。
 真名はルスランと日本での再会を約束し、飛行機に乗った。
 ルスランは本当に日本に来てくれるだろうか?土壇場になって気が変わったりはしないだろうか?結婚式を挙げたとは言え、書類上の手続きは終わってはいなかった。ルスランがあっさりと日本行きを承諾したことが、かえって真名を不安にさせていた。
 真名の小さな不安を乗せて、飛行機は飛び立った。窓の下には雪に覆われたロシアの大地が広がっていた。
 ロシア語で「美しい」という意味を持つ「赤」という言葉を真名は思い浮かべた。確かにこの白い世界においてなら、赤い色は鮮やかに美しく見えることだろう。
 真名はルスランが流した赤い血の色を思い出した。彼女がその血を流させたそのときから、真名の運命にルスランという男の存在が刻みつけられたのだった。

(終)




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