「手帳」(「ルスラン」番外編2)

   第1章 憧れ

 五月のとある日の夕方、ヴィクトルはモスクワの住宅街を歩いていた。彼はその通りに 住む作家の原稿を取りにきた帰りだった。辺りは夕日で赤く染まっていた。傾きかけた夕 日はやや歪んだ形をしていたが、幻想的な美しさを漂わせていた。
 通りには一台のパトカーが止まっていた。ヴィクトルがパトカーのそばを通りかかろう としたちょうどそのとき、パトカーのドアが開いて中から一人の警官と東洋系の若い女が 出てきた。警官の方は再び車に乗り込み、パトカーはすぐにその場から走り去った。あと に残された女は、なぜか険しい表情をしながらとぼとぼと歩き出した。
 モスクワには朝鮮系の住民もいる。しかしヴィクトルは、女が日本人ではないかと期待 して彼女に話しかけた。
「パスポート不携帯かな?」
 突然話しかけられたことに驚きながらも、女は立ち止まって頷いた。
「もしかしてきみは日本人かな?」
 女は再び頷き、ヴィクトルは自分の予想があたったことを密かに喜んだ。
「警官に見つかるなんて運が悪かったね。俺が何かおごるから元気を出しなよ。」
 女はためらっているようだったが、ヴィクトルが表通りを指差しながら歩き出したので、 女も彼の後をついて行った。
 表通りにあるカフェに入り、二人は向かい合わせに座った。ヴィクトルは女の同意を得 てから、コーヒーとケーキを注文した。
「俺はヴィクトル。ヴィーチャと呼んでくれていいよ。」
「石坂遥です。ハルカが名前です。お察しの通り、日本から来た留学生です。」
「さっき、警官からいくらか取られたんだろう?」
「ええ。百ルーブリ渡しました。」
 ヴィクトルの同情的な態度に、遥は心を許したらしい。彼女は俯きながらぽつぽつと話 し始めた。
「私、今日はうっかりしてパスポートを持たないまま外出してしまったんです。しかも、 さっき警官に職務質問されるまで、そのことに気づきませんでした。モスクワに来てもう 半年以上になるから、気が緩んできてしまったのね。
 さっきの通りには、こちらで知り合った友人が住んでいて、彼女のもとを訪ねた帰りだ ったんです。そこで警官に出くわしてしまって、私がパスポートを持っていないと知ると、 彼らは鬼の首でも取ったかのように喜んで、私を無理やりパトカーの中に連れ込みました。 警官とはいえ、男の人たちに車の中に連れ込まれて、とっても怖かったわ。
 そして彼らは、もっともらしく私の持ち物を調べ始めました。彼らの目的はわかってい ましたけど、自分から言い出す勇気がなかったので、しばらくの間は黙って彼らのするま まにさせていたんです。
 すると彼らは、私には不審人物の疑いがあるから、このまま一緒に警察署に行ってもら う、と言いました。そこで私は仕方なく、見逃してもらうために彼らに百ルーブリを渡し ました。そうしたらやっと、解放されたんです。」
「なるほど。災難だったねえ。」
 ヴィクトルは遥のことを気の毒に思ったが、だからといって警官たちの行為を追及する つもりはなかった。彼の身内にも警察官がいたからだ。そこでヴィクトルはさりげなく話 題を変えた。
「俺は編集の仕事をやっているんだが、数ヶ月前に日本に関する本を出してから日本に興 味を持つようになってね。それでさっき、きみに話しかけてみたんだ。」
「そうなんですか。私でよかったら、何なりとお聞きください。私は将来は通訳になりた いと思っているんです。だから、日本のことをきちんと説明できるようにいつも心がけて はいるんです。」
「それは楽しみだね。じゃあ、いろいろと教えてもらおうかな。今、俺は源氏物語を読ん でいるんだ。当然、きみも読んだことがあるだろう?」
「私はあります。でも、今の日本人はああいう長編小説はほとんど読まないんです。だか ら外国の方があの物語を読むなんて、感心しちゃうわ。」
「それは大丈夫。ロシア人は長い話が好きだから。」
「そうみたい。」
 二人は顔を見合わせて笑い、ヴィクトルは遥の表情が明るくなったことに気づいて安堵 した。目の前の女には笑顔でいてほしかった。このとき既に、ヴィクトルの遥に対する思 いが芽生えていたのかもしれない。
「あの物語の当時の日本人がどんな格好をしていたか、ご存知ですか。」
「いや、はっきりとは知らない。」
「女性は髪を自分の背丈以上に伸ばしていたんです。髪が長いほど美人だとされていたんで すよ。」
遥は肩に届く長さの自分の髪をつかみながら説明を始めた。彼女はまっすぐで艶やかな 髪をしていた。
しばらくの間二人は、源氏物語の話題で盛り上がった。ヴィクトルは遥の説明にいたく 満足し、別れ際に彼女に言った。
「きみとはまた会いたい。きみの方も何か困ったことがあったら、遠慮なく俺に連絡くれ。 力になるよ。」
「ありがとうございます。でも、何故そんなに親切にしてくれるんですか?」
 遥が不思議そうに自分を見る黒い瞳に、ヴィクトルの胸は熱くなった。
「それは、これからもきみとは親しくしたいからさ。」
 カフェを出たあと、ヴィクトルは遥を地下鉄の駅まで送り、自分はいったん出版社に戻 って原稿を置いたあとに帰宅した。
 三ヶ月前に離婚したヴィクトルは、今は姉夫婦のアパートに身を寄せていた。離婚の原 因は先妻のジャンナのわがままにほとほと嫌気がさしたからだ。
ジャンナは気の強い女で、夫婦喧嘩の時にヴィクトルの稼ぎが少ないとも言ってのけて くれた。離婚するまでの半年間は、二人の間で毎日のように諍いが起こっていた。だから ヴィクトルは、逃げるようにして彼女と暮らしていたアパートから出てきてしまった。当 分女はこりごりだ、とすら彼は思っていた。
 そういうわけで、偶然見かけた遥のことがヴィクトルにはとても新鮮に感じられた。彼 女が淑やかで従順な源氏物語の姫君たちのように思われた。彼女はどちらかというとおと なしそうな女のようだったから、なおさらだった。
 そういう女であれば、自分の言うことに素直に耳を傾けてくれるだろう。彼女のような 女と静かに語り合って時間を過ごすのもいいかもしれない。ヴィクトルは遥とのこれから の日々を思って胸を弾ませた。
 それから数日をおかずにヴィクトルは遥に連絡をいれ、モスクワ市内でまだ遥が行った ことのない場所を聞き出して、彼女を連れていった。またあるときは、遥の買い物に彼が 付き合ったりもした。
通訳を目指しているだけあって、遥のロシア語はかなりのものだった。しかしヴィクト ルの期待通り、彼女は自分から積極的に口を開く女ではなかった。むしろ、ヴィクトルが 編集の仕事の話をするのを興味深く聞いていることの方が多かった。
 そんな風に彼女と数回会った後、ヴィクトルはよく晴れた暖かい日に遥を郊外にあるダ ーチャ(家庭菜園用の小規模な別荘)に連れていった。ここはもともとは彼の親の持ち物 だった。ヴィクトルが地面を耕して種を蒔くのを遥も手伝った。
「こんなことは久しぶりだわ。やっぱり自然のなかっていいわね。」
 遥は笑顔をみせながら、ヴィクトルの指示に従ってきぱきと働いた。その様子がヴィク トルには非常に好ましく思われた。初めて会ったときを除いて、遥はヴィクトルの前では 機嫌の悪そうな表情を見せたことがなかった。青空の下で爽やかな風に吹かれながら、好 きになった女と一緒に一つのことに打ち込むのは気分のいいものだった。
この日、ヴィクトルはそろそろ彼女との関係を進展させたいと思っていた。離婚の傷も 癒え、新しい恋に踏み出す勇気が出てきたのだ。遥となら、なんら思い悩むことなくこれ からの時を一緒に過ごしていくことができる、と確信していた。
 作業が一段落すると、二人は手を洗ってダーチャの中に入った。ヴィクトルは遥を椅子 に座らせてテーブルの上にパンやチーズを並べ、ウォッカの瓶を出した。彼が遥の前にコ ップを置いてウォッカを注ごうとするのを彼女は遮った。
「私はお酒に弱いの。だからいらないわ。ごめんなさい。」
「そうなんだ。じゃあ、違うものを出すよ。」
 ヴィクトルは遥のコップにミネラルウォーターを注いで彼女の向かい側に座り、二人は 乾杯した。水を何口か飲んだ後、遥は弁解するように言った。
「この国に来て本当によくお酒を勧められたけど、断らざるをえなくて、そのたびに相手 の機嫌を損ねやしないかと心配したものよ。場が気まずくならないように、無理におしゃ べりをし続けたりしたこともあったわ。」
「俺の前では、無理にしゃべらなくてもいいんだよ。俺にはそんな気を使わなくていいん だ。」
 ヴィクトルは遥の目をじっと見つめた。遥は一度は恥ずかしそうに俯いたが、すぐに顔 を上げた。今がいい機会かもしれない、と彼は思った。
「以前、なぜ親切にしてくれるのかときみは尋ねてきたけど、その答えはもうわかってい るよね?」
「一応はわかっているわ。でも、何故この私を選んでくれたのか、その理由を改めて説明し てほしいとは思っているのよ。」
 ヴィクトルは答えなかった。その代わりに彼は遥の隣に移り、彼女の身体を抱き寄せた。 遥の方も素直にヴィクトルに身体を預けた。遥の体温を感じて、ヴィクトルは彼女がたま らなく愛しく思われた。
「きみを愛しているよ。きみと出会えたことを神に感謝している。」
 そしてヴィクトルは遥の唇にそっと口づけした。
 遥と思いが通じ合っていることを実感し、ヴィクトルはいまや有頂天になっていた。東 洋の神秘の国から来た女と、相思相愛の恋人同士になることができたのだ。従順な遥とは 一度も諍いを起こしたことがないし、これからもそんなことは起こらないだろう。だから このまま彼女と楽しい日々が過ごせるものとヴィクトルは思っていた。
そして彼は、いずれは遥の案内で憧れの国、日本を見ることができるかもしれない、と も夢を膨らませていた。もしそうなったら、源氏物語の舞台となった京都をまず訪れてみ たかった。
 遥をダーチャに連れていってから数日後、ヴィクトルは彼女を自分の住むアパートに招 いた。ちょうどそのとき、アパートにほかの人間はいなかった。
 ヴィクトルは遥を自分の部屋の椅子に座らせたが、彼女は明らかに緊張して固くなって いた。そこでヴィクトルは遥の気持ちをほぐすためにいろいろと語りかけた。
「同居している姉夫婦は息子を連れて出かけているんだ。今日は二人きりになりたいから、 きみに来てもらった。次回はきみの事を姉たちに正式に紹介するからね。
 彼らの息子はジェーニャという名前で、来月四歳になるんだ。そうだ、ジェーニャの誕 生日にきみを招待しよう。活発な子でね、大きくなったらパパのような警察官になるんだ って言っている。本当にかわいい子だから、きっときみもジェーニャのことが好きになる と思うよ。」
「ありがとう。是非とも出席させてもらうし、ジェーニャと会えるのも楽しみにしている わ。
それにしても、この国の人は驚くほど誕生日を大切にしているのね。大人になっても周 囲の人が誕生日を祝ってくれるんだもの。日本では誕生日を祝うのは子供だけなのよ。日 本では、年を取ることを恥じる傾向があるから。」
「誕生日を大切にするということは、家族や友人をそれだけ大切にしているということで もあるんだよ。だから、何歳になったかということにはこだわらないんだ。そういえば、 きみの誕生日はいつなんだ?」
「私は四月よ。」
「そうか、過ぎてしまったばかりなんだね。でも来年は、一緒にきみの誕生日を祝おうね。 それにしても、本当に子供ってかわいいね。以前はそうは思わなかったけど、一緒に暮 らしているとつい、子供に情が移ってしまうよ。
前の妻と暮らしていたときに一度だけ子供ができたんだけど、残念ながら彼女が流産し てしまったんだ。あの時できた子供が無事に誕生してくれればよかったなあ、と今でも時々 思っている。」
ついうっかりと、ヴィクトルは前妻のことを話してしまった。彼はそれまで自分に離婚 歴があることを遥に話していなかったので、彼女は少なからず驚いたようだった。ヴィク トルは慌てて弁解した。
「このことは前の妻に未練があるということではないんだ。だから心配する必要はないん だよ。」
「どういう理由で離婚したの?。」
「俺の方から出ていったんだ。だから心配するな。」
「奥様、きれいな人だった?」
「そんなことはどうだっていいんだ。今はきみだけしか目に入らないよ。」
 遥の見せた軽い嫉妬がヴィクトルを燃え立たせ、彼は遥の身体を抱きしめた。
その後の数時間を、遥はヴィクトルの腕の中で過ごした。

夕方になり、遥はヴィクトルたちのアパートから帰った。ヴィクトルは彼女を地下鉄の 駅まで送っていった。別れるときの彼女の様子はいつもと変わりはなかった。
「また連絡するからね。」
 ヴィクトルの言葉に遥は素直に頷いたのだった。
 やがて姉夫婦がアパートに帰ってきたので、ヴィクトルはこのとき初めて彼らに遥のこ とを話した。そして、彼女をジェーニャの誕生日に招待するつもりだという意向を彼らに 伝えた。
「新しい恋人ができたのか。よかったじゃないか。」
 義兄のユーリは快く賛成してくれた。一方、姉のアンナは怪訝そうな顔をしただけだっ た。
「また、よりによって何故、日本人なんかと知り合いになったの?」
 アンナはこの話には興味がないようで、幼い息子を寝かしつけるためにさっさと居間を 出て行った。あとにはヴィクトルとユーリだけが残された。
「そういえばヴィーチャ、俺の友人に日本人の女と結婚してモスクワを出ていった奴がい るんだよ。ルーシャという男で、かつて俺と同じ警察署にいたんだ。
彼は傷害事件を起こして警察をクビになってしまったが、その後、仕事の都合でモスク ワに来ていた彼女と知り合ったんだ。今は東京で妻や娘と一緒に暮らしているよ。」
「確かに日本には興味を持っている。でも、日本で暮らすなんて、そこまでするつもりは ないよ。それに、彼女と知り合ってまだ間がないから、結婚するかどうかということもま だわからない。」
「そうか、こんな話は時期尚早だったかな。ただルーシャの様子からすると、日本人と結 婚するのも悪くはないみたいだよ。奥さんはとてもしっかりしていて、彼の面倒を実によ くみてくれているらしいからね。
とにかく、遥というその娘がどういう人なのか、会えるのを楽しみにしている。」
ユーリの話がきっかけで、ヴィクトルは遥との結婚を想像してみるようになった。遥が 自分をかいがいしく世話してくれる様子が目の前に浮かんでくるようだった。
世界中で日本人の女ほど男に尽くしてくれるものはほかにいない、とは以前聞いたこと がある。それにしても、まさか自分にそういう女と結婚する可能性が生じるとは思わなか った。
離婚したばかりということもあって、ヴィクトルは結婚生活というものには失望しきっ ていた。相手に甘い期待を抱くと結婚生活はうまくいかないものだということを、彼は経 験上知っていた。しかし、幸福な結婚生活をおくっているというユーリの友人の例を聞い て、ヴィクトルは遥となら再婚してもいいかもしれないという気にすらなってきた。
 次の日の夜、ヴィクトルの先妻のジャンナが突然アパートにやってきた。アンナが先に 応対して、ヴィクトルに取り次いでくれた。以前のヴィクトルだったら彼女の顔など見た くもなかったが、遥のおかげで彼の心は和らいでいた。
 ヴィクトルの部屋に入ってきたとき、ジャンナは酒気を帯びていた。誰とどこで酒を飲 んでいたのかは言わなかったが、どうやら酔った勢いでヴィクトルのところに押しかけて きたようだ。
 ジャンナはヴィクトルを意識してか、きっちりと化粧をしていた。しかし今のヴィクト ルには、薄く口紅をつけただけの遥の方が美しく思われた。
「ヴィーチャ、久しぶりね。元気だった?。」
「ああ。」
「仕事の方も順調なの。」
「ああ。」
 ジャンナは前の日に遥が腰掛けた椅子に座り、彼女にしては珍しく用件をはっきりとは 言わずに当り障りのない話題を続けた。しかしヴィクトルは、彼が離婚を後悔しているか どうかをジャンナが探ろうとしていることに気づいた。
もともと気の強いジャンナの気性がますます荒くなったのは、彼女が流産をしてからだ った。流産のことだけは彼女を気の毒に思っていたが、だからといってヴィクトルは離婚 したことを微塵も後悔していなかった。ヴィクトルはそのことをはっきりと伝えようと、 自分に新しい恋人ができたことをジャンナに話した。
「彼女はどういう人なの?」
 ジャンナの声には悔しさがこもっていたので、ヴィクトルは優越感を覚えた。
「日本から来た留学生なんだ。淑やかでかわいい娘だし、よく気がつくし、まさに理想の 女性だよ。」
 遥のことを話すヴィクトルの顔に笑みが浮かんだのを見て、ジャンナはいっそう機嫌が 悪くなった。
「日本人なの?。あなたはいつからゲテモノ好きになったのよ?」
 この女ほど、自分の思ったことをずけずけ言ってのける女はこの世にいないだろう。お そらくソヴィエト時代だったら彼女は精神病院に送られていたに違いない、とヴィクトル は思った。
「彼女のことをそんな風に言うな。大体、喧嘩を売ってばかりいる女よりはずっとましだ と思うね。」
 二人はお互いに睨みあった。しかし、この日のジャンナはアンナたちを憚ってか、さす がにヴィクトルに言い返したりはしなかった。
「もう帰ってくれないか。」
 ヴィクトルは素っ気なく言い、ジャンナに背を向けた。彼女はおとなしくヴィクトルの 部屋から出ていった。
 ジャンナがどういう用件で来たのか、アンナは尋ねてはこなかった。そのことがヴィク トルにはありがたかった。ジャンナは自分に未練を持っているらしい。二人の間であんな に喧嘩を繰り返したにも関わらずに、だ。彼女の気持ちは不可解だった。
ともあれこの件で、二年近くの不幸な結婚生活を強いられたことの仕返しをジャンナに してやることができ、ヴィクトルは内心では得意になっていた。しかも好都合なことに、 ジャンナの方からその機会を作ってくれたのだ。
 その夜、ヴィクトルが床につこうとしたとき、ベッドの陰の部屋の隅に赤いビニール製 の表紙の手帳が落ちていることに気づいた。中を見てみると、見慣れない細かい文字が書 かれていた。それが日本語の文字であり、手帳は前の日にこの部屋に来た遥の忘れ物であ ろうことは、ヴィクトルにはすぐにわかった。絨毯の模様に溶け込んでいて、手帳が落ち ていたことにはそれまで気づかなかったのだ。ヴィクトルは今度に会ったときに遥に返す つもりで、その手帳を机の引き出しにしまった。
 それから二、三日して、ヴィクトルは次のデートに遥を誘うべく、彼女のところに電話 をしてみた。しかし、意外なことに電話は通じなくなっていた。ヴィクトルは困惑した。 遥の身に何か起こったのだろうか?もしかして彼女のほうから何か言ってくるかもしれ ないと思い、ヴィクトルはさらに二、三日待ち続けた。しかし、遥からの連絡は全くなか った。
 ヴィクトルは遥のことが心配になり、彼女の居場所を探そうとしたが、彼女の住んでい た学生寮の場所を正確には聞いていなかった。彼は思い切ってモスクワ市内にある留学生 の住む学生寮を二、三訪ねてみた。しかし大学はすでに夏休みに入っており、学生も寮の 職員もほとんどいなくなっていて、話の通じる人間はいなかった。
 何故、遥は突然自分の前からいなくなってしまったのだろうか?ヴィクトルにはその 理由が全くわからずに途方にくれた。
もし、遥が自分の意思で姿を消したのだとしたら、それは何故なのだろう?自分の方 は遥に夢中になっていたが、彼女の方では自分を愛してはくれなかったのだろうか?。あ るいは自分に何か不満があったのだろうか?
ヴィクトルは遥とともに過ごした時間を思い出してみたが、思い当たる節はなかった。 いつでも遥はヴィクトルの言うことを笑顔で聞いてくれたし、彼を慕ってくれたようにも 思えた。
それにしても、こうなることを遥が一言も自分に言ってくれなかったのは何故なのだろ う?彼女のことを信じきっていただけに、ヴィクトルは少しだけ彼女のことを恨んだ。
 やがてジェーニャの誕生日が近づいてきたが、このままでは遥が誕生日の祝いの席に姿 を現しそうにはなかった。仕方なくヴィクトルは、遥と連絡が取れなくなったことをユー リに打ち明けた。
「彼女に関する手がかりは何もないのか?」
 ユーリも心配になってヴィクトルに尋ねた。
「彼女の忘れ物だと思われる手帳しかないよ。」
「手帳だったら、彼女の連絡先が書いてあるはずじゃないか?」
 だが、手帳の最後のページにある住所の欄も日本語で書かれていて、ヴィクトルには解 読できなかった。電話番号の欄には何も記入がなされていなかった。ヴィクトルは手帳の ほかのページにも目を通してみたが、結局は何もわからなかった。
 警察に勤めているユーリも、遥の行方をあたってくれた。
「ヴィーチャ、幸いなことに遥らしき日本人女性の失踪届は、警察の方には提出されていな いよ。彼女らしき女が何らかの事件に巻き込まれた様子もない。おそらく彼女は夏休みに 入ったので地方に旅行に出たのか、あるいは日本に戻ったのかもしれないな。」
 こうなったら日本大使館に問い合わせてみようか、とさえヴィクトルは思ったが、結局 は思いとどまった。彼は再び遥の手帳を取り出し、もう一度中をよく見てみたが、やはり 何もわからなかった。ついにヴィクトルは遥を探すのを諦めてしまった。
 もしかして遥にはヴィクトルに連絡をいれられないほどの緊急の用事ができて、日本に 帰ってしまったのかもしれない。もしそうだったら、落ち着いてから自分にまた連絡をく れるかもしれない。ヴィクトルはそう考えて、来るかどうかもわからない遥からの連絡を 待ち続けることにした。
 それにしてもこんなことになるのだったら、もっと彼女のことを詳しく聞いておくべき だった、とヴィクトルは後悔した。何故自分は、外国人たる彼女がいつかは帰国するかも しれない可能性を予測しなかったのだろう?
それに、日本についてはまだまだ彼女に教えてほしいことがたくさんあったのだ。何故、 それらのことをもっと早く彼女に聞いておかなかったのだろう?
彼はただ、後悔し続けるだけだった。そして、それ以上のことは何もしなかった。

第2章 迷い

 それから一ヶ月がたったある日、ユーリがヴィクトルに言った。
「ヴィーチャ、喜べ。以前話したあのルーシャが久しぶりにモスクワに帰ってくるらしい。
彼の妻も一緒だということだ。だから、遥のことで彼らに協力してもらえばいい。」
「協力してもらうって、どうやって?」
「彼女が忘れていった手帳をルーシャの奥さんに読んでもらうんだよ。そうしたら彼女の 連絡先が判明するはずだ。もし手帳に手がかりがなかったとしても、彼らが日本に戻って から遥のことを探してもらうように頼んでみるといいんだ。」
 その方法はヴィクトルの全く思いつかないことだったが、それはいい考えかもしれない と彼は思った。それ以来、ヴィクトルはルスラン夫婦の来訪を心待ちにした。
 半月ほどたった夏の終わりの日に、彼らはユーリのアパートにやってきた。ルスランの 妻の真名を見て、ヴィクトルは懐かしさを覚えた。真名のすらりとした細身の身体や、や や長めのまっすぐな黒髪が遥を思い出させた。真名の話す、日本語の訛りの混じったロシ ア語も。
 彼らは挨拶を交わした後、居間で紅茶を飲みながら互いの近況を語り合った。ルスラン たちの娘のリーナはジェーニャと同じ年頃だったので、二人の子供たちは部屋の隅で遊ば せておいた。ルスランたちと話をしていて、ヴィクトルには彼らが心の通じ合った仲のよ い夫婦であることが伝わってきた。ルスランたちの娘のリーナも、文句なく愛らしい子供 だった。
話が一段落したところで、ヴィクトルは真名に遥のことを打ち明けた。そして自分の部 屋から遥の手帳を取ってきて、真名に渡した。
 真名はまず住所の記入がなされているページを見た後、ヴィクトルの承諾を得て手帳を 最初のページから丁寧に読んでいった。遥はその手帳を日記代わりにつけていたようだっ た。その日に会った人物の名前や買った物の値段などが書きとめられていた。おそらく遥 は、その手帳をモスクワ留学の思い出の品にするつもりだったのだろう。
 真名は頭のいい女だったので、手帳の書き手である遥の思いをすぐに察することができ た。そこで手帳の最後のページまで目を通した後、真名はヴィクトルに説明した。
「この手帳は確かに石坂遥さんのものに間違いないようね。中に書いてあることは、大し たことじゃないわ。大学の行事の予定とか、あるいは彼女のその日の行動くらいね。
もちろん、あなたとどこで何をしたかということも書いてあるわよ。例えば、五月二十 九日に彼女はあなたとマネーズナヤ広場に買い物に行き、銀製のピアスを買ったみたいね。
 そして肝心の彼女の連絡先だけど、手帳の最後のページに彼女の日本での住所が書かれ てはいるわよ。ただそれは途中までで、番地のところを消した形跡があるわね。電話番号 も同様だわ。何故こんなことをしたかというと、数字ならあなたたちロシア人にも読める からじゃないかしら。
 おそらく、遥さんはこの手帳を忘れたんじゃないわ。きっとわざと置いていったのね。 そしてその理由は、あなたに苦労して自分の行方を捜してもらいたかったのではないかと 思うのよ。簡単に日本での連絡先をあなたに教えても、あなたが彼女に対して本気でなけ れば、おそらく連絡はもらえない。そこで、自分の居所に関する断片的な記載を手帳に残 し、しかもそれは日本語で書かれたものだけど、あなたが彼女の行方を頑張って探し出し てくれるかどうかで、彼女はあなたの真意を確かめてみようと思ったのではないかしら?
 日本の古典で、恋人に自分の行方を捜す手がかりとなる品を手渡す貴族の姫君の話があ るの。その姫君も、恋人が自分の行方を探し出してくれるかどうかで、男の気持ちを確か めようとしたのよ。彼女がその話を知っていたかどうかはわからないけど。」
「その古典とは、源氏物語ですか?」
「そうよ。」
 そこでヴィクトルには合点がいった。自分が源氏物語を読んでいると話したから、遥は こんなことをしたに違いないのだ。そのことに気づかないなんて、自分はなんて迂闊だっ たのだろうか。
 ヴィクトルが黙り込んでいると、それまで真名の隣で話を聞いていたルスランが口を開 いた。
「マーナ、日本に戻ったら彼のために遥を探してやろうよ。彼女は今、日本にいる可能性 が高いようだから。」
「それは、彼次第よ。彼がこれからも遥さんと連絡を取り続けるつもりなら、彼女と会っ て話をつけてあげてもいいんだけど。」
 そして真名はヴィクトルを見やった。
「どうする、ヴィーチャ?」
「是非ともお願いします。」
 ヴィクトルはとっさにそう答えた。そこで真名は途中まで書かれている遥の住所やその ほか二、三の事項を自分の手帳に書き写したが、彼女が難しい顔をしていることにルスラ ンは気づいていた。
 夜になってルスランたちはモスクワ市内のホテルに戻った。昼間、ジェーニャに負けず 劣らず跳ね回っていたリーナはすぐに眠ってしまった。真名がヴィクトルの件に乗り気に なっていないことから、ルスランは彼女に対して念を押した。
「マーナ、日本に戻ったら遥って女を捜してやるだろう?」
「私は彼女をそっとしておいてあげた方がいいと思うの。私たちがここに来る前からヴィーチャがモスクワにいる日本人を探し出し、あの手帳を読んでもらって遥さんを探し出そうとしていたのなら、彼の遥さんに対する愛情はそれだけ深いと思う。遥さんもそれを期待して、自分の手帳を残し たはずなのよ。だけど、彼はそこまではしなかったわ。」
「でも、彼は今日きみに協力を求めてきたじゃないか。」
「それは、あなたとユーラがたまたまお友達だったからでしょう。ヴィーチャが積極的に 行動を起こしたわけじゃないわ。」
「そうは言っても、彼に遥の行方を探し出そうという気があったことに変わりはないはず だ。
それに、俺から言わせると遥って女のほうがひどいね。何故、仮にも恋人たる男に何も 言わずに帰国してしまうんだ?電話番号を消した手帳を残すだけなんて、それは一方的 に恋人を捨てたも同然じゃないか。だから、何が何でも彼女を探し出そう。そしてヴィー チャのために一言言ってやりたいんだ。」
「ルーシャったら、あなたはどうして彼にそれほどまでに肩入れするの?」
「それは、彼がとても気の毒だからだ。もし、俺たちが出逢った頃にきみが俺に同じ仕打 ちをしていたら、と思うといたたまれないからなんだ。」
「本当にそれだけ?」
「そうだ。」
 真名が探るような視線を自分に向けたので、ルスランは慌てて彼女から目を逸らした。 ヴィクトルに味方する理由が、彼への同情だけではなかったからだ。
 昼間ユーリのアパートを訪ねたとき、アンナは自分たち一家に素っ気なかった。その理 由はルスランにはよくわかっていた。妻の真名にも話せない過去が、彼とアンナの間にあ ったのだ。
 かつてモスクワで傷害事件を起こし刑務所に送られたルスランは、出所した後すぐに次 の職を探し始めた。だが職探しはうまくいかず、苛立ちをつのらせた彼は発作的にユーリ のアパートを訪ねた。六年前の秋の始めのことだった。
 警察官時代に最も親しくしていたユーリに愚痴を聞いてもらおうとルスランは期待して いたのだが、ユーリは家を空けていて、彼の妻のアンナが一人で留守番をしていた。アン ナは親切にもルスランを居間に通し、しばらく彼の話し相手になってくれた。しかし、そ のことが仇になってしまった。
 ルスランはそのときまでアンナに会ったことがなかった。ユーリたちが結婚式を挙げた とき、既にルスランは逮捕され収監されていたから、式に出席することもできなかった。 だから、彼にはアンナが友人の妻だという実感がなかった。
さらに刑務所から出てきたばかりのルスランには、若い女と二人きりになる機会が久し くなかったのだ。このときの時刻は夕方で、アンナはまだ化粧や香水を落としてはなかっ た。だからルスランには、彼女がとても艶かしく思われた。
 ルスランがアンナを犯してしまった後、幸いなことに彼女の方からこの件について口外 しないことを申し出てくれた。ルスランがユーリと今でも友達づきあいができるのは、彼 女のおかげだった。
この件の後、ルスランは真名と出会い、彼女に誘われるままに日本へ行ってしまった。
アンナのことは努めて思い出さないようにしていた。しかし、自分に娘ができた今となっ ては、アンナの味わった屈辱がルスランにもわかるようになった。もし娘のリーナを犯す 男がいようものなら、自分は地の果てまでもその男を追いかけて、相手を殺してやるだろ う、とルスランは思うのだ。
しかも、久しぶりに再会したアンナは今でも自分を恨んでいるらしい。できることなら 彼女に償いたいのだが、具体的にどうすればいいのかルスランにはわからなかった。そこ で、せめて彼女の弟であるヴィクトルの力になりたい、ルスランはそう考えたのだ。
「きみなら、遥の居所を探し出すのは難しくはないだろう?」
「ええ。あの手帳には彼女の通う日本の大学の名前も書いてあったから。大学の事務局に問い合 わせれば、彼女の住所が正確にわかるはずよ。」
「だったら、是非とも彼女の連絡先を突き止めてくれ。あとは俺が彼女と会って説得する から。」
「私たちは余計なことをすべきではないと思うわ。もしも、ヴィーチャが遥さんと熱心に連 絡を取ろうとしなかったら、彼女はとても傷つくはずよ。
 彼らについてはこのままでもいいんじゃないのかしら。もう会えなくなっても、ヴィー チャはあの手帳を彼女の思い出の品として大切に持っていればいいのだから。」
 しかし、ルスランの方は遥を探し出すことにこだわり続けた。知り合ったばかりのヴィ クトルに対し何故ルスランがそこまで同情的なのか、真名はそこが不思議だった。

 その後ルスランは二週間ほどロシアに滞在してから、日本に戻った。遥の連絡先につい て真名は一応調べておいたが、この時点でもまだ遥と連絡を取ることに難色を示していた。 しかしルスランに急かされて、真名は仕方なく遥に電話をかけた。
「もしもし、石坂遥さんですね?ヴィクトル=マフノという男性のことで話があるのだけ ど、彼のことはご存知よね?」
「はい。」
 相手の娘は消え入りそうな小さな声で答えた。おそらく彼女はこの瞬間を待っていたに 違いない。遥の期待と不安を真名は感じ取った。
「あなたが彼の部屋に残してきた手帳の件で、あなたと話したいという人物がいるんです。 残念ながらヴィクトル本人ではないのよ。彼は今でもモスクワにいるわ。あなたに会いた いというのは、彼の友人であり私の夫でもあるルスランという男です。彼に会ってやって くれるかしら?」
「はい。」
「よかった。じゃあ、彼をあなたのもとに伺わせるから、よろしくね。」
 真名は遥と待ち合わせの約束をし、それをルスランに伝えた。
 約束の日にルスランが遥の通う大学の構内にある中庭に行ってみると、既に遥らしき女 がそこで待っていた。二人は挨拶を交わしたあと、ベンチに並んで腰掛けた。遥はルスラ ンの顔をちらちらと見やった。おそらく彼女はヴィクトルを思い出し、彼と似たところを ルスランの顔に見つけようとしているようだった。
 ルスランの方は遥を魅力的な娘だと認め、ヴィクトルが彼女に恋した気持ちが想像しえ た。それだからこそ、遥のヴィクトルに対する仕打ちに少しばかりの怒りを感じてもいた。
「早速だが、きみがモスクワから突然いなくなったのは何故なんだ?」
「それは、留学期間が終わったからです。最初から一年間の予定で、去年の九月からモスク ワに行っていたんです。」
「それだったら、何故そのことをヴィーチャに言わなかったんだ?急用があって帰国した わけではないのだから、彼と話し合う時間はあったはずだ。」
 詰問するようなルスランの口調に、遥は畏縮した。彼の態度は、モスクワでパスポート 不携帯を咎めてきた警官たちのことを遥に思い出させた。遥は口ごもりながら答えた。
「それは、彼にお別れを言うのがつらかったからなんです。」
「別れたくないのなら、これから彼と連絡を取り続けるためにも、自分の連絡先を彼に教え るべきじゃなかったのか?」
「連絡先を教えても、彼が連絡をくれないかもしれないことが恐ろしかったんです。」
「彼が心変わりをするかもしれない、ということか?。彼には他にも女がいるような様子だ ったのか?」
「いいえ、そういうわけじゃないんですけど。」
 ルスランは、こういう複雑な女心を理解できる男ではなかった。遥が何を言いたいのか、 彼にはよくわからなかった。
「要するに、きみは彼とこれからも付き合っていきたいと思っているのか?それとも、帰 国をきっかけに彼と別れても構わないと考えていたのか、どっちなんだ?」
 遥がなかなか答えなかったので、ルスランは質問を変えた。
「きみが彼の部屋に手帳を残してきたのは、わざとなのか?」
「はい。」
「ふーん。じゃあ、マーナの推測は正しかったんだ。」
 ルスランは少しの間考え込んだ。相手の娘がおどおどして自分の気持ちをはっきり言わ ないから、どのように話をすすめていいものか悩んだのだ。
「遥さん。ヴィーチャはきみの手帳を俺たち夫婦に見せて、きみを探してほしいと頼んだ んだよ。きみが彼に自分の行方を捜してほしいと思っていたのなら、彼はきみの期待通り の行動を取ったわけだ。彼のきみに対する愛情が本物だということが、これでわかっただ ろう?」
「はい。」
「だから、これからもヴィーチャと連絡を取り続けていくべきだと思うよ。少なくとも、彼 を一方的に捨てるような真似はしないでもらいたい。俺にも日本人の妻がいるから、彼が きみに恋した気持ちはよくわかるんだ。
 それにしても、何故彼の気持ちを試そうとしたんだ?彼はきみに冷たかったのか?」
「そんなことはありません。」
「だったら何故、彼のことを信じてやれないんだ?そもそも日本人は何故、俺たちロシア 人を冷酷な人間だと思っているんだろうね?」
 最後の方の言葉は独り言のようにルスランは言った。
「まあ、いい。とにかく、ヴィーチャにはきみの電話番号を教えてやっても構わないね?」
「はい。」
「それから、いつか彼を東京に招待しようと思うんだが、そのときは彼と会ってやってくれ るかな?」
「はい。」
 このとき遥は初めてルスランの前で笑顔を見せた。ヴィクトルに再び会えるかもしれな いという希望が、彼女の心の中で湧いてきたからだ。
「よかった。これで俺も一安心だよ。」
 ルスランは上機嫌でアパートに戻り、真名に事の次第を報告した。
 それから間もなくして遥から電話がかかってきた。彼女は改めて、真名と話すことを望 んでいた。
「この間ご主人とお会いしたときは混乱して、うまく自分の気持ちを言えませんでした。そ れにご主人が私のことを咎めている様で、少しばかり怖かったんです。」
 真名はルスランの前で遥が味わった緊張感を想像した。彼が見知らぬ人間の前では無愛 想になる性質であることを、真名はよく知っていた。
「それはごめんなさいね。私も一緒に行けばよかった。ただ、私には仕事があったものだか ら。」
「そのことはもういいんです。それで、真名さんのご想像の通り、彼が私の行方を捜してく れることを望んで、自分の手帳を彼の部屋に残してきました。私が帰国してからも彼が連 絡をくれるかどうかわからなかったから、自分の連絡先を教えることは迷いました。そこ で、彼が私のことを本当に愛してくれたのかを知るために、賭けに出たんです。
彼が私なんかに声をかけてくれたのは、単に東洋人の女が珍しかっただけの軽い気持ち なのかもしれない。私はそのことがずっと不安だったんです。ロシアにはきれいな女の人 がたくさんいるのに、何故、よりによって私に恋してくれたのかな、って。」
「私にも、同じ事を考えていた頃があったわよ。」
「そうですか。じゃあ、私の気持ちはわかってもらえますね。
せめて、モスクワに着いたばかりの去年の秋に彼と出会えればよかったんです。何ヶ月 間か付き合えば、彼の考えていることや人柄を理解することができたんでしょうにね。で も、そのことは今更言っても始まらないから、もういいんです。
問題はこれからのことです。私はこうして日本に帰ってきてしまいました。これからは 彼とは滅多に会えませんし、そういう状況では、お互いの気持ちが確かなものでなければ 連絡を取り続けることはできません。
真名さんだから打ち明けますけど、もし彼との交際が続けば、いずれは結婚の話が出る こともあるかもしれません。そのときは私、どうしたらいいのかしら?そこでお聞きし たいんですけど、真名さんはルスランさんと結婚なさったことを後悔したことがあります か?」
「幸いなことに、それはないわよ。」
「ルスランさんの方でも、真名さんとの結婚を後悔してはいない様子ですか?」
「彼も同じ気持ちでいてくれている、と信じているわ。」
「おそらくそうでしょうね。ルスランさんはご自分が幸せになれたから、私たちの仲も取り 持とうとなさってくれているんでしょうね。
ただ結婚するとなると、どちらの国で暮らすのか、あるいは仕事はどうするのか、とい う問題も出てきます。それも私は心配なんです。」
「その気持ちは私もよくわかるわ。私たちの場合で言うと、結婚を決意したとき、彼は失業 者だったの。彼はかつては警察官だったのだけど、不祥事を起こして警察から解雇されて いたのよ。そういう点では、彼を日本に連れてきやすかったわ。
 でも、ヴィクトルはきちんとした仕事についているから、モスクワから離れたがらない かもしれないわね。あなたはまだ学生だけど、あなたの方は仕事についてはどうするつも りなの?」
「私はロシア語の通訳になりたいと思っています。だから、もしかしてモスクワで仕事を見 つけられるかもしれません。」
「そう。それだったら、ヴィクトルとの結婚を実現させることができるかもしれないわね。」
「そうですね。今の時代では、外国人との結婚を大げさに考える必要はないのかもしれませ ん。真名さんたちのように、うまくいっている夫婦もいらっしゃるようですし。だから結 婚を考える時期がきたら、思い切って彼に付いていこうかな、と考えています。」
「そういうときが早く来るといいわね。私もあなたたちが幸せになれることを祈っている わ。
それから、ルスランがこの間あなたに言ったと思うけど、近いうちにヴィクトルを東京 に招いて、あなたに会わせてあげたいと思っているのよ。」
「いろいろとありがとうございます。」
「彼と会える日を楽しみに待っていてね。」
 そこで真名は電話を終えた。かつての自分と同じ気持ちを味わっている遥に、真名は親 近感を覚えた。今では遥たちの恋を支援する気になっているし、この電話をきっかけに遥 と友人になりたいとも真名は思い始めた。
 ルスランの方は遥の住所と電話番号をヴィクトルに手紙で書き送った。手紙を受け取っ たヴィクトルは大喜びして、手紙の内容をユーリとアンナの前で話して聞かせた。
「遥が俺からの連絡を待ってると言ってくれたらしい。」
「よかったな、ヴィーチャ。」
「それから、彼女に会いに東京に来ないかとも書かれている。そのときはルーシャたちのア パートに泊まっていい、と彼は申し出てくれているよ。」
「結構なことじゃないか。早いうちに彼女に会いにいってやれよ。やっぱりルーシャたちに 協力を頼んだのは正解だったな。」
 ユーリは一緒になって喜んでくれた。しかし、その一方でアンナの表情が険しいものと なっていることに二人は気づかなかった。
 その夜、ヴィクトルは自分の部屋で机に向かい、ルスランからの手紙を読み返しながら 考え事に耽っていた。楽しい夢が次から次へと膨らんできて、彼の胸は弾んでいた。一度 は遥のことを諦めたが、再び彼女と会うことができそうなのだ。うまくいけば、ルスラン たち夫婦のような幸せな家庭を彼女と築くことができるかもしれない。そして彼女との間 に、男女どちらでもいい、ジェーニャかリーナのようなかわいい子を授かりたかった。
さらに、憧れの国である日本行きも実現できそうだ。そこで日本へ飛ぶ費用を賄うため にも、何か副業を見つけようとヴィクトルは考えていた。この時点でのヴィクトルには、 何もかもがうまくいきそうに思われた。
 そのとき、アンナがひっそりとヴィクトルの部屋に入ってきた。どうやらユーリには気 づかれたくないようだった。アンナは机の側までやってきて、ヴィクトルに囁いた。
「ヴィーチャ、ルスランさんを信頼しないでほしいの。」
 ヴィクトルは驚いて尋ねた。
「どうして?彼がかつて傷害事件を起こしたことがあるから?確か彼が警官だった頃、 巡回に出て職務質問した相手に悪態をつかれ、かっときて相手の男を殴り重症を負わせた、 ということらしいね。
 もしかして彼は短気な人なのかもしれないけど、俺やユーラに対しては親切だと思うよ。 ユーラの方だってルーシャのことを信用しているみたいだけど。」
 アンナはヴィクトルに何かを打ち明けたそうな素振りだったが、結局は思いとどまった ようだった。
「まあ、いいわ。とにかく、有頂天にはならないでね。」
 それだけ言って、アンナは静かに部屋を出ていった。ヴィクトルは彼女の態度が気にな った。一体彼女は自分に何を言わんとしていたのだろうか?ルスランを信頼するなとい うことは、彼を頼って日本に行くな、ということらしいが、一体それは何故なのか?
 ヴィクトルが思いついたのは、アンナは日本人を含めた東洋人との結婚に反対している のではないかということだった。このまま彼が遥との交際を続け、いずれは彼女との結婚 を望むようになることをアンナは恐れているのではないだろうか?
 ヴィクトルがそう考えたのは、この間ルスランたちがアパートを訪ねてきたときのこと を思い出したからだ。あの時、アンナは真名やリーナに話しかけようとしなかったような 気がするのだ。自分が東洋人を嫌っているとはっきりとは言えないから、アンナはルスラ ンにかこつけて遥との交際をやめさせようとしているのではないだろうか?当然ヴィク トルは、アンナとルスランとの間に何事かがあったとは思いもよらなかった。
 ヴィクトルは気が重くなってきた。ジャンナのように人柄に問題のある女との結婚は二 度とごめんだが、今回のように身内の人間に祝福されないらしい結婚も気が進まなかった。 ヴィクトルは姉のことを愛していたから、なおさらだった。  ひとつ気がかりなことができると、ヴィクトルはほかの事も心配になってきた。仮に遥 と結婚式を挙げて彼女をモスクワに連れてきても、共稼ぎをしないと暮らしてはいけない。 しかし、ロシア語が上手であっても外国人たる遥にいい仕事が見つかるだろうか?
 それに、結婚に漕ぎつけるまでにはあと何回かは遥に会いにいかなければならないが、 ヴィクトルの収入では日本へ行く費用を捻出するのは大変だった。
 ヴィクトルは数日間悩み続け、ついにこの件から手を引こうと決意した。そこでヴィク トルは、東京にいるルスランに宛てて手紙を書いた。アンナが反対しているらしいとはい えなかったから、当り障りのない理由を書いておいた。
「このたびのあなたの親切には感謝しています。
 しかし、彼女が日本に戻ってしまった以上、もはや俺が彼女にしてやれることは何もあ りません。それに、彼女をモスクワに連れてきて一緒に暮らそうとしても、彼女を幸せに する自信もありません。もしモスクワで俺たちが破局した場合、彼女の失うものはあまり にも多いと思います。
 ですから俺は、彼女を諦めることにしました。彼女には日本での暮らしの中に幸せを見 つけてほしいと思います。
 彼女には申し訳なかったと伝えてください。そして、彼女のことは本当に愛していたと も伝えてください。彼女の手帳は、いつまでも大切に持っています。」
 この手紙を投函して数日間、ヴィクトルの心の中から喪失感が消えなかった。これで本 当に遥とは終わってしまったのだ。もう二度と彼女と会うこともないだろう。しかも、日 本へ行く機会も同時に失ってしまった。
 ヴィクトルは、遥のことが思い出に変わるまでじっと辛抱し続けようとした。そんな時、 折悪しくも久しぶりにジャンナから電話がかかってきた。彼女はヴィクトルに、まだ遥と の交際が続いているかを尋ねた。遥が帰国したことをヴィクトルが話すと、ジャンナは彼 に会いたいと言ってきた。しかしヴィクトルは断って、すぐに電話を切った。彼女と会っ ても、何も慰められるものはなかった。ただひたすら、遥が懐かしかった。
 ヴィクトルはルスランのことを羨ましく思った。彼が真名と出会ったときの事情は詳し くは知らないが、きっと多少の障害はあったはすだ。それを乗り越えたお陰で、ルスラン は真名との幸せな生活を手に入れることができた。しかし、自分はそこまで踏み出す勇気 が出なかった。
 一方、ルスランのほうはヴィクトルからの手紙を受け取ってひどくがっかりした。自分 の好意が無にされたこともあるが、ヴィクトルの気の弱さにも失望した。彼はこのことに アンナが関わっているとは考えもしなかった。
 また、ルスランは遥に対しても申し訳なさを感じていた。ヴィクトルの彼女に対する思 いについては、真名の考えが正しかったのだ。自分がでしゃばったことをしたために、一 度は気持ちの整理をつけた遥に余計な期待を抱かせてしまった。真名の心配が現実のもの となったのだ。
 ルスランは、このことをどうやって真名に、そして遥に話したらいいものか、悩み続け た。だが、いつまでも黙っているわけにはいかなかった。そこでルスランは真名に、ヴィ クトルからきた手紙の内容を話した。真名はルスランを咎めたりはせずに、仕方がないと いった表情をしただけだった。しかしルスランは必死に弁解した。
「俺は以前は警官でありながら、かっとするとすぐに人を殴るような男だった。意志が弱く、 堪え性のない人間だったんだ。だからあのままきみに出会うことなくモスクワにいたら、 俺は身を持ち崩して刑務所を出たり入ったりするような暮らしをしていたと思う。
 それが、きみが俺と結婚して支えになってくれたお陰で、真っ当な人生を送ることがで きた。このことできみには本当に感謝している。それだからこそヴィーチャにも同じよう に幸せになってもらいたいと思い、今度のようなことをしたんだ。」
「あなたの考えはよくわかったわ。だけど、ヴィーチャの場合はあなたが必要としていたよ うな支えは必要がなかったということになるのね。
それに、人が幸せになる方法というのは本人が一番よく知っているはずだと思うのよ。 彼が遥さんとは幸せになれないと考えた以上、それはそれで仕方のないことなんだわ。彼 女にとっては残念なことだけどね。
 あなたがこのことで遥さんに責任を感じているのはわかっているけど、後は私に任せて ちょうだい。」
 そうは言ったものの、真名にも遥を傷つけずにすむ方法は思い浮かばなかった。真名は 迷った末、彼女にすべての真実を話さざるをえないと判断した。真名は近いうちに遥とは 会ってみたいと思っていたが、このような事実を伝えるために会うのは気が重かった。し かし真名は連絡をいれ、遥の通う大学の近くにある喫茶店で彼女と会った。
 ヴィクトルの手紙の内容を話すと、真名の予想通り遥はがっくりとうなだれてしまった。 そこで真名は必死になって遥を慰めた。
「手紙には書いてなかったけど、おそらくヴィクトルはいろいろと事情を抱えていたと思う のよ。彼のあなたに対する気持ちがいい加減なものだったということではないはずよ。そ の証拠に、彼はあなたの手帳を記念に持っていると手紙に書いていたわ。あなたのことを いつまでも忘れないと誓ってくれているのよ。だから、彼を恨まないでやってね。」
「はい。」
「恋をしたり結婚をしたりということは、どうしても相手に何かを期待してしまうことが付 き物なのよ。だから、恋とは決して楽しい思いをするだけのものではないわ。今度のこと をきっかけに、そのことをあなたには学んでほしいの。」
「はい。」
「そうは言っても、いっそのこと彼と出会わなければよかった、とも考えないでね。彼と巡 り会って、短い間であっても楽しいときを一緒に過ごせたことは、それはそれで幸せなこ とだと思うわ。」
「はい。」
 遥は力なく返事をするだけだった。仕方なく真名は話題を変えた。
「ところで、あなたは今でも手帳に書き込みをしているの?」
「はい。帰国してから新しいのを買いました。あれが私の日記のつけ方なんです。」
「それならば、いずれあなたが今度の件から立ち直って新しい恋人を見つけたとき、その人 とのことを手帳に書き付ければいいじゃない。そういう日がいつか必ず来るわよ。」
 遥は俯いたままだった。新しい恋人のことなど、まだ考えたくはないようだった。

(終)





〜postscript〜
ヨーロッパ人の日本人女性に対する大和撫子的幻想を題材にしてみました。
ちなみに、源氏物語の中の、恋人に手がかりを残す姫君とは、朧月夜尚侍のことです。



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