「ママに会いたいわ。」 最近、ポリーナがそんな風につぶやくようになったことに、明人は気づいていた。 初めての結婚記念日を迎えてから、ポリーナはロシアを懐かしむようになったようだ。母親やペテルブルグの友人と頻繁にメールのやりとりをしているらしい。それだけでなく、ポリーナは明人に対しても素っ気なくなってきたので、彼は漠然とした不安を感じ始めていた。 ポリーナはペテルブルグから来た明人の妻だった。 一年半ほど前、明人は手ひどい失恋をした。ちょうどそのころ、モスクワ支局から戻ってきたばかりの先輩記者と会う機会があった。明人がロシア文学科の卒業でありロシア語がある程度できることを知ると、その先輩記者は、外国人との結婚を望む女たちがロシアには多いことを話してくれた。そして、自分が直接知っている女ではないが、日本人との結婚を望むロシアの女に心当たりがあると言った。それを聞き明人は、失恋の痛手から立ち直るためにも、この際思い切って、ロシアの女との縁を結んでみようという気になった。 そこで先輩記者がモスクワで知り合ったロシア人を介して、明人のもとにポリーナの写真が送られてきた。彼はそれを見て、一目でポリーナに惹かれた。男なら大抵の者が憧れる美しい金髪と青みがかった灰色の目を彼女は持っていた。 早速明人はポリーナの住むというペテルブルグに飛んだ。実際のポリーナに会って、明人はますます彼女に夢中になってしまった。ポリーナは人柄も振る舞いも申し分なかった。 明人は迷う事なくポリーナに結婚を申し込み、彼女はすぐに承諾してくれた。明人は嬉しさのあまり、何度も彼女の意志を確認したくらいだった。 明人は有頂天になって帰国し、ポリーナを迎え入れる準備をした。そして数カ月後、ペテルブルグで結婚式を挙げ、ポリーナを東京に連れてきたのだった。 ポリーナは家事を上手にこなし、地味でも派手でもない彼女によく似合う服装をしていた。また彼女は頭のいい女らしく、国際情勢にも通じていたし、ペテルブルグでは英語教師をしていたと自分では言っていた。それだけに、ポリーナがなかなか日本語を覚えられないことだけは、明人には不思議に思えた。 彼女は日本の生活に馴染もうとしていたし、明人との夫婦生活もうまくいっていた。それにもかかわらず、結婚記念日が過ぎてからしばらくして、いつの間にかポリーナは変わってしまった。 明人にはその原因がわからなかった。結婚記念日は平日で仕事を休むことはできなかったが、その代わりに事前に注文して花を自宅まで届けさせておいた。いくら初めての結婚記念日とはいえ、妻が日本人の女だったら、ここまではしないつもりだった。そして、その次の週末にはポリーナを伴って伊豆へ旅行にも行った。 旅行先で、明人は数カ月ぶりにポリーナに愛の言葉を告げた。ホテルの客室のベッドの上で、一糸まとわぬポリーナの身体を抱き締めながら、明人は彼女の耳元でささやいた。このままポリーナを失う事なく、この先も彼女と一緒に結婚記念日を迎えたいという願いを込めながら。 ポリーナも明人の言葉に感激してくれたようだった。だから彼は、まだまだ蜜月の時が続くものと思っていた。 一体、ポリーナは何が不満なのだろうか?。自分か、それとも日本の生活なのか。それとも、特に不満がなくても自分の国が懐かしくなる時期なのだろうか? 明人はポリーナと、この件についてじっくりと話をすべき必要を感じていた。彼女が何かについて悩んでいるのなら、一緒に解決してやりたかったし、もし自分に不満があるなら、改善する努力をするつもりでもいた。 しかし、それは当分叶いそうになかった。新聞記者をしている明人はこのとき、とある閣僚の収賄疑惑のスクープを狙っていて、ポリーナと深刻な話し合いをする心理的余裕がなかった。 ポリーナはそんな明人を尻目に、自分の友人を家に招いて慰めを見いだしているようだった。 そのうちの一人はタチヤーナという女で、明人は彼女のことは以前から知っていた。彼女はポリーナとは子供のころ同級生だったらしい。今はダンサーとして日本に働きに来ているとのことだった。 さらにポリーナは最近、リュドミーラという新しく友人になった女も招待した。リュドミーラはロシア人の女を外国人に紹介する結婚相談所を通じて日本人の銀行員の男を紹介され、彼と結婚して日本で暮らすようになったのだ。 このようにポリーナが同胞の女たちと頻繁に交流するようになったことから、彼女がそこまでロシアを懐かしんでいるのかと、明人は彼女をあわれに思った。そこで明人は考えた末、ポリーナに言った。 「ポーリャ、よかったら一度、ロシアに帰国してみるか?以前話したけど、今俺はとある閣僚の収賄疑惑を追っている。だけどこの件が片付いたら、休暇を取って一緒にペテルブルグへ行くことができるよ。どうする?」 これを聞いてポリーナが喜んでくれるかと明人は思っていたが、意外にもそうではなかった。ただし、彼女は口先では彼の申し出に同意した。 「そうね、楽しみにしているわ。」 明人としてはしばらくの間はこれ以上のことができなかったので、ポリーナのことでは漠然とした不安を抱えながらも、毎日仕事に出ていた。 明人の追っている事件は、外資系の商事会社のR社が防衛庁長官の関に働きかけて系列の会社が製造する戦闘機を購入させ、航空自衛隊に配備させようとしているらしいというものだった。この事件を明人たちがかぎつけたのが先月のことだった。それ以来、明人たちは関長官やR社の社員の動きを見張っていた。 十月十二日、この日明人は新聞社の自分のデスクで仕事をしていた。昼になる少し前、彼のもとへポリーナから電話がかかってきた。買い物のために都心に出てきたのだが、よかったら昼食を一緒にしないかと誘ってきたのだ。明人は喜んで賛成し、昼休みになるとビルを出て彼女と落ち合い、近所のレストランに入った。 この日のポリーナは珍しく上機嫌で、明人との会話を楽しんでいた。もっとも、途中で二回中座して、携帯電話を使って誰かに電話をしていたようだったが。 食事の後、明人は帰宅しようとするポリーナを地下鉄の駅の改札口まで送っていった。 「今夜も遅くなると思う。だから先に休んでいてくれ。」 「わかったわ。じゃあね。」 ポリーナの姿が見えなくなると、明人は新聞社に戻るべく地上への階段を上ろうとした。そのとき、ちょうとそばに立っていた若い白人のの女が、ためらいながらも明人にロシア語で話しかけてきた。 「ロシア語がおできになるんですね。すみませんが、ちょっとお時間いいでしょうか?」 「いいですよ。」 明人は足を止めて相手の女を見た。黒に近い茶色の短い髪をして、まだあどけなさの残る顔をした地味な服装の娘だった。 「今、向こうに行ってしまった人は奥さんですか?。奥さんはロシアの方みたいですね。 私はオクサーナといいます。ロシアから来た留学生なんです。日本に来てまだ一カ月ほどなので、なにかあったら相談に乗ってくれる人がいれば、と思っていました。 もしよければ、連絡先を教えて下さいませんか?」 明人は自分の名刺の裏に自宅の電話番号を書いて、オクサーナに渡した。オクサーナはおそらくポリーナを見かけて、彼女を頼りにしたいと思ったのに違いない。オクサーナが見知らぬ国に来て不安な気持ちでいるだろうことは、明人にも容易に想像できた。 「妻には遠慮なく電話していいですよ。彼女も話し相手ができて喜ぶと思います。」 「ありがとうございます。」 嬉しそうに名刺を受け取ったオクサーナをそこに残して、明人は足早に新聞社に戻った。 それきり明人はオクサーナのことはしばらく忘れていた。ポリーナは何も言わなかった。おそらくオクサーナはポリーナに連絡をしていないようだった。 代わりにその二日後、今度はタチヤーナから明人のもとに電話がかかってきた。ポリーナのことで話があるとのことだった。明人は二日前にポリーナと会ったように、今度はタチヤーナと昼休みに待ち合わせをし、レストランに入った。タチヤーナは夜はショーに出なければならないので、昼間しか会える時間がないのだと主張したからだ。 前回自宅で彼女と会ったときもそうだったが、明人はタチヤーナを目の前にすると、ひどく胸がざわついた。タチヤーナが均整の取れた美しい身体をしているだろうことは明人にも想像がついた。肌も露な服からはこぼれるような色気が感じられて、明人は息苦しくもなってくるのだった。 明人がポリーナのいないところでタチヤーナと会うのは初めてだった。今までは、妻のいないところで妻の友人と接触するのは謹むのが常識だろう、と思っていた。それにも関わらずこの日に明人がタチヤーナと会うことにしたのは、ポリーナが彼女に国に帰りたいとでも愚痴をこぼしているのではないだろうか、と考えたからだ。 タチヤーナの話は、明人の危惧が当たらずとも遠からずという内容だった。 「ポーリャは結婚する直前まで、アレクサンドル=ヤクーシキンという男とつきあっていたのよ。私も彼のことは少し知っているわ。 彼は新ロシア人(新興の富裕層のこと)でね、事業もうまくいって羽振りがよかったんだけど、妻がいたのよ。彼女に子供が生まれてしまったものだから、ポーリャは彼の本妻になることを諦めて日本に来たみたいなの。 でも、ヤクーシキンの方は彼女を諦めきれないらしくて、私が日本に来る前に、彼女の様子を探ってきてくれ、って頼んできたの。彼女のことをいつか取り返してみせるとも言っていたわ。もし彼が本気なら、困ったことになるかも。」 それでは、ポリーナの様子がおかしくなったのはヤクーシキンという男のせいなのだろうか。明人は苛立ちを押さえながらタチヤーナに言った。 「俺たちの仲はうまくいっているよ。だから奴には、もう彼女のことは諦めろと言ってやってくれ。」 タチヤーナは赤みがかった長い金髪をいじりながら、明人をなだめるように笑顔で答えた。 「怒らないで、明人さん。私はあなたの味方なのよ。私だって、あんな女たらしのヤクーシキンの愛人でいるよりは、あなたのような真面目な人の妻でいるほうが、ポーリャのためだと思っているわよ。 もちろん、ヤクーシキンにはそう伝えておくわ。ただ、あなたも彼のことは知っておいた方がいいのではないかと思って、今日は話を聞いてもらったのよ。もしポーリャに何か変化があったら、それはヤクーシキンが原因かもしれない。だからあなたには、彼女を奪われないようにしっかりしていて欲しいのよ。 これからもヤクーシキンが私に何か言ってきたら、必ずあなたに話すわ。だから心配しないでね。」 レストランの勘定は明人が持ったので、タチヤーナは上機嫌で帰っていった。多分、これからもヤクーシキンをだしに彼女は明人に食事をおごらせるかもしれなかったが、彼はそれでもよかった。ポリーナのことについて何でもいいから教えてもらいたいからだ。それに、わざわざ外国にまで出稼ぎに来ざるを得ないタチヤーナの境遇に、明人は少なからず同情していた。 ヤクーシキンの件について明人は、しばらくの間はポリーナに何も尋ねないことにした。ポリーナの変化に彼が関係しているかどうかは、タチヤーナの話だけでは確かではなかったからだ。下らない嫉妬をしてポリーナとの仲をこれ以上冷えさせたくはなかった。 この日は午後から雨が降り出した。しかし明人は取材に出掛け、最近まで重役秘書をしていたR社の元社員との接触に成功して、贈賄疑惑の有力な情報をつかむことができた。 夜になって明人が帰宅したとき、ポリーナはパソコンに向かっていた。またロシアの友人たちとメールのやりとりをしているのだろう、と明人は思った。しかし彼女はすぐにパソコンを終了させて、明人を笑顔で出迎えた。こんなことは久しぶりだった。 「雨で鞄が濡れてしまったんじゃないの?。私が拭いておいてあげるわ。そのままだと革が傷むものね。」 「ありがとう。じゃあ、頼むよ。」 「ついでにクリームも塗っておいてあげる。」 ポリーナは明人の鞄と乾いた布を持って、彼の部屋に入っていった。明人は居間に行ってテレビをつけたが、彼女の言葉に感激して胸が熱くなり、テレビの内容など目に入らなかった。 昼間、ポリーナに内緒でタチヤーナに会い、彼女の色香にそそられたりもしたが、そのことを明人は後ろめたく思った。やはりポリーナがこの世で最高の女だ、と明人は改めて感じた。 次の日の午前中、オクサーナから明人のところに電話がかかってきた。相談にのって欲しいことがあるということだった。 「妻の方には電話してみたか?そういえば彼女の名前をまだ教えていなかったね。ポリーナ=ステパノヴナというんだ。」 「ポリーナさんにはまだ電話していません。どちらかというと、あなたに話を聞いていただきたいんです。多分、ポリーナさんではわからないことだと思いますから。是非ともお願いします。」 結局オクサーナには、新聞社のビルの中に入っている喫茶店に来てもらうことにした。彼女のためにまとまった時間は取れなかった。 夕方になり約束の時間が来ると、明人は指定した喫茶店に向かった。オクサーナは既にそこで待っていた。明人はすぐに本題に入るように彼女に言った。オクサーナはおずおずと話し始めた。 「大学の同じクラスの男子学生で、私に好意を寄せてくれているらしい人がいるんです。彼はよく私に話しかけてくれるし、それにこの間、素敵なキーホルダーを私にくれたんです。でも、これだけでは彼の気持ちが確かかどうかはわかりません。 私としては彼の本当の気持ちが知りたいんです。けれど、日本人の男って、自分の気持ちをはっきり言わないものなんだって聞きました。私はどうしたらいいんでしょうか?彼は本当に私のことを愛してくれるのかしら?」 明人は身体の力が抜けていくような気がした。この程度の相談で忙しい自分を患わせて欲しくはなかった。だがオクサーナが真剣な表情で自分を見つめていたので、彼女を冷たくあしらうことはできなかった。 「それを聞いただけでは、彼がきみを愛しているかどうかはわからない。だけど彼が本気なら、いずれ大学以外の場所で会おうと言って、きみのことを誘ってくると思うよ。とにかく、まだ彼と知り合って一カ月くらいなんだろう?。焦らずにもう少し彼の様子を見ていてごらんよ。日本人の男だって、大事な場面では言うべきことはきちんと言うから、安心するといい。」 「わかりました。そのとおりにします。」 「また何かあったら、遠慮なく相談していいからね。」 明人のこの言葉は、多少は社交辞令の意図があったが、若いオクサーナをいたわるつもりもあったのだ。彼女はまだ純粋な心でひたむきな恋ができる年頃なのだ。だからこそ、ささいな事で悩んだり心が揺れ動いたりもしてしまうのだろう。明人は自分にもそんな頃があったことを思い出していた。 オクサーナは丁寧に礼を述べ、明人は彼女をビルの玄関まで送っていった。 次の週末、防衛庁長官の関の方に動きがあった。若手の私設秘書がR社の社員と会ったのだ。明人は同僚の大川とともに彼らのあとをついていった。連中は都内のあるボーリング場に入った。明人たちは彼らから三、四本離れたレーンでボーリングをしながら、集音マイクで彼らの会話を録音した。 わずか一時間で彼らは帰っていった。明人も帰宅し、自分の部屋で録音したテープを聞いてみた。敵もさるもので、背景の音がうるさいボーリング場では彼らの会話はほとんど聞き取れなかった。 今日はたいした収穫がなかった、と明人ががっかりしているところに、ポリーナが紅茶を運んできてくれた。 「仕事はうまくいっているのかしら?例の事件についての調査はすすんでいるの?」 「だいたいね。あとは連中に決定的な動きでもあれば、記事は書けると思うよ。だから、もう少しで片付くよ。」 明人は、ポリーナがいつロシアに帰ることができるのかを気にしているのだろうと考えた。 「俺の休暇が取れるまで待ちきれないのなら、きみだけ先にロシアに行っているか?」 明人はそう言ってからすぐに後悔した。ポリーナ一人でペテルブルグに行かせたら、彼女はこっそりとヤクーシキンに会おうとするかもしれない、と心配になった。 「いいえ。帰るならあなたと一緒でなければ。そうでないと、夫婦仲がうまくいっていないんじゃないか、ってママが心配するでしょうから。」 ポリーナのこの答えに、明人はほっとした。 「頑張って仕事を片付けて、一日でも早く休暇が取れるようにするよ。」 ポリーナが部屋から出ていってからしばらくして、オクサーナから電話がかかってきた。彼女は泣きそうな声で、明人に今すぐにでも会って欲しいと懇願した。明人は仕事の資料や取材メモを片付け、仕事ができたからとポリーナに言って家を出た。 厄介な小娘に関わってしまったと煩わしく思うと同時に、明人はオクサーナのことが心配になった。あのおとなしそうなオクサーナのことだから、おそらく彼女に好意を寄せているとかという同級生にいいようにもてあそばれたのかもしれなかった。 明人がオクサーナの指定した駅につくと、彼女は歩いて五分程度のところにある自分のアパートに彼を連れていった。オクサーナはそこで一人で暮らしているようだった。明人はためらいながらも、彼女に誘われるままに部屋に入った。 部屋の様子は、日本人の女子学生の暮らすそれと変わりはなかった。オクサーナは明人に紅茶を出し、彼の向かい側に座ってため息をついた。 「私、彼に騙されたみたいなんです。彼にお金を貸してしまったんです。 最初は四日前、一緒にお茶の水に行ったんですけど、彼が高価な本を買わなければならないことを思い出したんです。そのとき彼の持っていたお金が本の代金に足りなかったので、私が一万円を貸しました。 次は一昨日のことです。彼がこのアパートに遊びに来てくれて、二人で食事をしたあと、長いことおしゃべりしました。そうしたら、電車がなくなってしまったと彼が言ったので、タクシー代として再び一万円を貸しました。彼はかなり遠い街に住んでいるみたいだったんです。 彼とはそれから会っていなかったんですけど、つい先程彼に電話したんです。お金を返してもらおうと思ったわけではなくて、別の用事でなんですけど。でも彼は、忙しいから当分私とは会えないと言いました。だからこれは多分、お金を返せと言われたくなくて私を避けているんだな、と気づきました。」 「たちの悪いのにひっかかったね。でも、気を落とすんじゃないよ。その男の代わりに俺が二万円を弁償してやろうか?」 「結構です。お金が惜しいんじゃないですから。ただ、彼の人柄にはがっかりしました。」 「今度好きな男ができたら、彼の評判を周囲の人間に聞いてみるといい。」 オクサーナの話を一通り聞いてやったことから、明人はそろそろ帰ろうと立ち上がった。すると彼女は明人の腕をつかんで引き止めた。 「待って。まだ帰らないで。」 オクサーナは明人を逃がすまいとするかのように、彼にしがみついた。 「今夜は一緒にいてくれませんか。お願い。」 明人はひどく驚いて、動けなくなってしまった。オクサーナのようなおとなしそうな娘が、こんな大胆な事をするとは思わなかったのだ。オクサーナの体温が伝わってきて、明人は身体中の血がざわめき立つような気がした。 どうやら自分次第で、彼女を思いどおりにできる状況になっているらしい。オクサーナは失恋の痛手のせいか、自棄になっているようだった。今だったら、やすやすと明人を受け入れてしまうだろう。若い枝のようにしなやかでみずみずしいオクサーナの体を明人は想像した。 その一方で、明人は冷静になろうともした。分別ざかりにある自分が、若い娘の気まぐれな誘いに乗るべきではないのだ。 それに、万が一このことを知ったら、ポリーナは自分のことをどう思うだろうか。親切な男を装って若い娘に近づき、相手を油断させてから手を出したのだ、と明人のことを軽蔑するかもしれなかった。 そこで明人はオクサーナの身体を引き離した。 「すまないね。やはり帰らせてもらうよ。」 オクサーナはまだ何かを言いたそうだったが、明人はそれを振り切って彼女のアパートを出た。もう二度と、オクサーナと会うつもりはなかった。 明人が家に戻ったとき、時刻はそれほど遅くはなかったのだが、ポリーナは彼とはほとんど口をきかず、一人でさっさと床についてしまった。明人はそんな妻に寂しさを感じた。休みの日にもかかわらず自分が家を空け、彼女をほったらかしにするから、彼女の心が離れていってしまうのだろうか、と思い情けなかった。 数日後の十月十九日の朝、明人が出勤しようとすると、書類鞄の中身がいじられていることに気づいた。 「ポーリャ、俺の鞄を触ったのか?」 「ええ。昨日銀行でお金をおろしてきたので、あなたの財布にお札を入れてあげようとしたの。そのときにうっかり鞄を落として中身をぶちまけてしまったわ。ごめんなさい。」 「そういうことならいいんだ。」 明人が新聞社の自分のデスクに着いたとき、同僚の大川がその日発売された週刊誌を持ってきて、あるページを開いてみせた。そこには関防衛庁長官に関する小さな記事が載っていた。内容は、彼がかつて官僚だったころに合衆国に赴任したときの思い出話だった。 「世間はだれも、奴のやっていることに気づいてないな。」 「そうみたいだな。」 二人は顔を見合わせて笑った。いずれ自分たちが関の正体を暴いてみせる、とあらたに闘志を燃やした。 その日、ポリーナのもう一人の友人であるリュドミーラから明人のもとへ電話がかかってきた。立場を同じくするリュドミーラになら、ポリーナは自分の本音を打ち明けているかもしれないと思い、彼はリュドミーラと会うことにした。 場所についてはリュドミーラが品川にあるホテルの喫茶店を指定してきた。夜になり約束の時間に一時間近く遅れて、明人は待ち合わせの場所に行った。 「遅れて申し訳ありません。仕事が長引いてしまったもので。」 「あなたもお忙しいのね。本当に大変ですね。」 リュドミーラが機嫌を損ねていないようだったので、明人はほっとした。 リュドミーラは有名デザイナーの服に身を包み、茶色がかった金髪をきちんと結い上げていた。彼女は物腰も優雅で、話し方もゆったりとしていた。明人は彼女を見ていると、時代ものの洋画に出てくるような伯爵夫人を連想してしまうのだった。 「お話を伺いますよ。もしかしてポーリャのことですか?」 「いいえ。私の夫のことなんです。この国では、ほかにこんなことを相談できる人はいなくて。」 リュドミーラの夫について何ら関心をもっていなかったことから、明人は彼女に会いにきたことを後悔した。それでも一応は彼女の話を聞くことにした。 「夫はいつも帰宅が遅くて、しかも休日もしばしば出勤しているのです。私が仕事を控えるように言っても、耳を貸してはくれません。どうにかならないものでしょうか?あの様子だといずれ身体を壊すか、精神を病んでしまうのではないかと心配です。」 「日本の労働者はそういうものなんですよ。」 「日本人の働き蜂ぶりは聞いていたけど、あそこまでとは思いませんでしたわ。」 「仕方がないですよ。そこまで働ける人間でないと、日本の企業雇ってはくれませんからね。彼はあなたのために頑張っているのだから、あなたも辛抱してあげなさい。」 「私のためとはいってもね、明人さん。私は彼の身を案じながら帰りを待ち続けるだけの毎日なんですよ。この見知らぬ国で独りぼっちで過ごす時間は、とても長く感じられるわ。だから時々、空しさを感じてしまいますのよ。何のために彼と結婚したのかしら、と思って。」 明人はいたたまれないような気がした。自分はリュドミーラの夫ほど仕事にかまけているつもりはなかったが、もしかしてポリーナも同じようなことを感じているのでははないだろうか。 「ポーリャも俺のことをそんな風に考えているのでしょうか?」 「彼女は、あなたのことについては特に何も言っていません。」 「そうですか。でも、俺も彼女をあまり構ってやることができないから、あなたと同じ気持ちでいるかもしれませんね。たまにはポーリャを誘ってどこかに行かれるといいですよ。二人ともいい気晴らしになりますよ。」 「いずれはそうさせていただくわ。でも、彼女では慰められないこともありますわね。」 リュドミーラは悩ましげな視線を明人に向けた。 「今夜はせっかく来ていただいたのだから、遅くなっても構わないでしょう?」 そこがホテルの建物の中であることを思い出した瞬間、明人は腰が抜けそうなほど驚いた。貞淑な人妻といった風情のリュドミーラが男に誘いをかけるとは、全く考えてもいなかった。 「妻を裏切ることはできません。」 「堅いことをおっしゃるのね。」 「あなたは自分の夫を裏切ってもいいんですか?」 「私のことを放っておく彼の方が悪いんだわ。」 驚きが去ると、今度は明人の心の中で迷いが生じてきた。自分さえその気になれば、今目の前にいる女をホテルの客室に連れていって、自分の好きなようにできるというのだ。リュドミーラのような上品ぶった女が、男の腕のなかでどんな風に乱れていくのか、見てみたくなってきた。 しかし、明人は結局は思い止どまった。ポリーナの気持ちが離れかけているかもしれないこのときに彼女の友人とおかしなことになってしまったら、ポリーナを失ってしまうことになるかもしれない。 「今の話は聞かなかったことにしましょう。じゃあ、これで。」 明人は伝票を持ち、リュドミーラを残してその場を足早に立ち去った。家に帰る途中、明人は何度も笑いを浮かべた。妻の愛に不安を感じている自分が、他の女からは身を任せたいと迫られるのは滑稽なものだった。 明人はもはや我慢ができなくなった。妻の自分への愛を確かめずにはいられなくなってしまった。そこで帰宅した明人はベッドに入ると、傍らに横になっていたポリーナに口づけし、彼女の胸に触れた。しかし、ポリーナの方は気が乗らないようだった。 「もう眠いから、やめて。」 明人はかまわずに、ポリーナの服を脱がせようとした。自分は二人の女の誘惑を振り切って妻のところに戻ってきたのだ。そんな自分を満足させるのが、妻の義務だろうと思った。 ポリーナは明人の手を払って、彼に背を向けた。焦りを感じた明人は、ポリーナの身体を揺さぶった。 「何故、最近冷たいんだ?日本での暮らしがつまらないか?。それとも俺に不満があるのか?もしかして、他の男のことを考えているんじゃないだろうな?」 「そんなことないわよ。だから乱暴しないで。」 「だったら、ロシアで暮らせるようにすればいいのか?。ペテルブルグは無理だけど、モスクワだったらうちの会社の支局がある。そこに行かせてもらうように頼んでみるよ。だから、以前のきみに戻ってくれないか。」 ポリーナは慌てて起き上がった。 「確かに国に帰りたいという気持ちはあるわ。でも、あなたがそんなことをする必要はないわよ。私のことは放っておいて。」 「そんな馬鹿な。俺はきみの夫なんだよ。きみのことを心配して当然じゃないか。最近のきみは何を考えているのかわからないよ。俺に言いたいことがあるなら、遠慮なく言って欲しいんだ。」 「もう遅いから、そういう話は今度にして。」 ポリーナは再び明人に背を向け、毛布を被って横になってしまった。これ以上彼女を問い詰めると激しい口論になりそうだったので、明人も毛布を被って横になった。だが、不安で胸がざわついて、なかなか眠りにつくことができなかった。 今までのポリーナに関する漠然とした不安が、夫婦生活を拒否されたことで危機感に変わった。このままではいずれポリーナを失ってしまいそうな気がした。 そういうわけで次の日の午前中、タチヤーナから電話がかかってきたときは正直言ってありがたかった。こうなった以上はすべてを正直に打ち明けて、彼女の協力を仰ごうと明人は考えたのだ。ポリーナの過去も性格もよく知っているタチヤーナならば、おそらくいい解決方法を教えてくれるに違いなかった。 夜もだいぶ更けてから明人が待ち合わせ場所の池袋の公園に行くと、タチヤーナはすでにそこに来ていた。 「ターニャ、思ったより早かったね。」 「体調がよくないって言って、店は早引けしてきたのよ。」 そしてタチヤーナは近くで客待ちをしていたタクシーにさっさと乗り込み、明人にも乗るように言った。明人は少しの間迷ったものの、結局は彼女の言うとおりにした。この時間になって開いているレストランを探すのは難しかったし、それに彼女とはロシア語で話すから、運転手に話を聞かれることはなかった。 タチヤーナは自分の住んでいるアパートの場所を告げ、運転手はタクシーを出発させた。 「最近、ポーリャの様子はどうかしら?」 「実はね、彼女のことできみにどうしても相談に乗ってもらいたいことがあるんだよ。」 タチヤーナはその答えを予想していたかのように頷いた。 「彼女がよそよそしいってことでしょう。わかるわよ。だってヤクーシキンが毎日のように彼女にメールを送っているらしいんですもの。彼ったら、ポーリャは今でも自分に未練を持っているはずだ、彼女の本音を聞き出してくれ、って私に頼んできたわよ。」 「そうか。奴のお陰で俺たちの夫婦仲はおかしくなってしまったんだ。許しがたい野郎だ。そういえば、来月ポーリャと一緒にペテルブルグに行くつもりでいるんだ。だからそのときにでも奴に会って決着をつけてやらなければならないな。だからターニャ、奴の連絡先を教えてくれないか。」 それを聞いて、何故かタチヤーナはひどく慌てた。 「そこまでしなくてもいいのよ。大丈夫よ、私に任せておいて。私はもう少ししたら一度帰国するから、私の方からヤクーシキンに言っておくわ。あなたがポーリャのことを絶対に手放す訳がないから、彼女のことはきっぱり諦めろって。」 「本当にそうしてくれるのかい?ありがとう、恩にきるよ。」 「それからね、もう一つ助言させていただくと、彼女に対してはこのことは一切言わない方がいいわね。彼女は嫉妬深い男が嫌いなのよ。だからあなたは何も知らないふりをして、今まで以上に彼女にやさしくしてあげるべきよ。 そのためにも、今までの嫌なことは今夜いっぱいで忘れてしまった方がいいわね。ねえ、今夜は私のアパートに来ない?私があなたを元気付けてあげるわよ。」 そう言ってタチヤーナは明人の首にしがみつき、彼の頬に口づけした。 明人は今度は驚かなかった。疑問に思う気持ちの方が強かった。何故、わずか四、五日の間に三人ものロシアの女たちが自分を誘惑しようとするのだろうか?明人はそんなことで自惚れるような男ではなかった。彼女たちの態度に、何かただならぬものを感じていた。 「ターニャ、正直に答えてほしい。きみが俺に誘いをかけるのは、何か訳があるんだろう?」 「何を言っているの?私はただ、あなたを慰めてあげたいだけよ。それがポーリャのためにもなるんだし。」 「いや、絶対に何かあるはずだ。」 明人の真剣な表情を見て、タチヤーナは彼の首から腕を離した。 「どうやら見抜かれてしまったみたいね。わかった、本当のことを話すわ。 私は結婚しているのだけど、夫は窃盗事件を起こして今、刑務所に入っているの。あと二カ月で出所する予定だから、彼と新しい生活を始めるために、お金が必要だったのよ。」 そこまでの説明だけだったら、明人にも納得がいった。おそらくタチヤーナは自分と関係を持った後、ポリーナに対する口止めとして金をせびるつもりだったのだろう、と彼は推測した。だが、タチヤーナは意外な言葉を付け加えた。 「だから私は、ポーリャの頼みを引き受けてしまったの。」 「彼女が頼み事を?それは一体どういうことなんだ?」 明人の表情が険しくなったのを見て、タチヤーナは慌てた。 「すべてわかっていたのではなかったの?」 「きみが金目当てで俺を誘惑しているだろうことは予想がついた。でも、ポーリャが関わっているとは知らなかった。どういうことなのか、すべて話してもらおう。」 「どうしよう?困ったわ。」 タチヤーナはしぶしぶながらも説明した。 「あのね、ポーリャはあなたと離婚したい、って言っていたの。ペテルブルグに帰りたいからなんだって。でも、手ぶらで帰国するのはいやだから、慰謝料の名目であなたからまとまったものがもらえるように、私にあなたと関係を持って欲しいって頼んできたわ。そして、もし慰謝料を手にすることができたら、その三割をお礼に私にくれるとも約束してくれたのよ。」 思ってもみなかった話に、明人はしばらく声がでなかった。ポリーナが自分と離婚するつもりでいることが、はっきりとわかってしまった。しかも、ポリーナにとって自分はもはや単なる金づるにしか思われていないのだ。こんな惨めなことはなかった。 「じゃあ、リュドミーラたちもポーリャとぐるになって、きみと同じように俺を罠にはめようとしたわけだな。」 明人はやっとの思いで声を絞り出して尋ねた。 「誰ですって?」 「リュドミーラ=マクシモヴナだよ。ポーリャの友人の。あと、オクサーナもどうせ同じ穴のむじななんだろう?」 「この国でポーリャにそういう名前の知り合いがいるなんて、聞いたことがないわ。」 「それはおかしいじゃないか。だってきみが俺を誘惑してきた裏には何かあると感じたのは、既にその二人に同じように誘惑されてきたからなんだ。しかもここ四、五日の間にだ。」 「本当なの?」 今度はタチヤーナが当惑する番だった。 「ポーリャがその女たちにも同じことを頼んだということなの?何故、彼女はそんなことをしたのかしら?」 「それはきみが確実に俺を誘惑できるかどうか、心配だったからだろう。きみを信用していなかったんだな、ポーリャは。」 明人は込み上げてきた怒りをタチヤーナにぶつけるように、皮肉を込めて言った。 「きみは彼女にとって手駒にしかすぎなかったんだ。彼女はきみを友人として大切には思っていなかったんじゃないか。そもそもきみたちは、どの程度親しくしていたんだ?」 「子供のころ、同じ学校に通っていたのは本当よ。でも、一番の仲良しというわけではなかったわね。彼女が大学に入ってからは、しばらく会わなかった。でも、彼女があなたと結婚したとき、私に手紙でそのことを知らせてくれて、しかも日本での住所を教えてくれたから、日本に来たときに彼女と連絡をとってみたのよ。」 「そういうことか。それなら、ヤクーシキンのことはどうして知っていたんだ?」 「それは私の作り話よ。あなたを嫉妬させれば、自棄になって私の誘いにうまく乗ってくれるかもしれないと考えたのよ。ヤクーシキンは数年前に私の愛人だった男の名前よ。ポーリャは彼とは何ら関係がないわ。」 「まったく、きみといい彼女といい、人を馬鹿にするにもほどがある。」 明人が吐き捨てるように言ったので、タチヤーナはじっとうつむいてしまった。しばらく気まずい沈黙が流れたあと、タチヤーナがおそるおそる口を開いた。 「これからあなたたち、どうするつもりなの?とは言っても、ポーリャの様子だと、あなたたちがやり直すのは無理だと思うわ。」 「俺たち夫婦の問題だ。きみはもう、二度と口を挟むな。」 やがてタクシーはタチヤーナのアパートのある街についた。明人は彼女をタクシーから素早く下ろし、そして今度は自分の家の方向にタクシーを向かわせた。 明人が家についたとき、ポリーナはまだ起きていた。明人を出迎えたポリーナは、彼の表情が険しいのに気づき、脅えた様子を見せた。 「ターニャから話を聞いた。彼女の言ったことは本当なのか?」 明人は、ポリーナが否定してくれることを願いながら尋ねた。しかし彼女は明人の言葉にうなずいてしまった。 「ええ。」 「もしかして、リュドミーラやオクサーナにも同じことを頼んだんだな?」 「ええ。」 「何も弁解しないんだな?」 「ええ。」 それを聞き、明人はポリーナの頬を平手で思いきり殴った。彼女はよろめいて床に座り込んでしまった。 「何が慰謝料だ?おまえみたいのを守銭奴って言うんだ。望みどおり離婚してやる。帰国する費用だけやるから、あとはみんな置いていけ。おまえの勝手で別れるんだから、身ひとつで出ていけ。こっちも無愛想な女はもうたくさんだ。」 怒りの言葉をぶつけながらも、明人は心の中ではポリーナが許しを乞うことを期待していた。しかしポリーナは力無く立ち上がると、離婚届の用紙を取ってきて、明人にそれを差し出した。 離婚届を用意していたところを見ると、ポリーナの離婚の意志は固いようだった。明人は初めて、彼女に激しい憎しみを抱いた。今まで彼女に注いできた愛情のすべてが踏みにじられたように思われたのだ。明人は再び拳をあげ、ポリーナは脅えて顔を背けた。 しかし、明人は二発目を殴ることは何とか思い止どまった。その代わりに離婚届けをひったくると、自分の部屋に行き机に向かった。ポリーナはおそるおそる明人の部屋にやってきて、明人が殴り書きをするように届けに記入するのを見ていた。 明人はポリーナが署名すべき欄以外のすべての箇所の記入を終えると、すばやく着替えを鞄に詰め込み、何も言わずに家を飛び出した。もはや一秒でもポリーナの側にはいたくはなかった。 明人は通りでタクシーを拾い、新聞社の近くにある小さなホテルに向かった。客室に入ると彼はすぐにベッドに倒れ込み、すぐに眠ろうとした。早く現実の悪夢から逃れたかった。 家を出る前に明人が冷静になってポリーナの様子を見れば、彼女が今にも泣き出しそうに顔を歪めていたことに気づいたかもしれなかった。もっとも彼女はそのことを気づかれないように、ずっとうつむいていた。 明人がいなくなるとポリーナはベッドに突っ伏して、長い間すすり泣いていた。しばらくして彼女は立ち上がり、涙を拭いて離婚届けに自分の署名をした。次にポリーナは結婚指輪をはずし、鏡台の引き出しにしまった。代わりにテレビの上に置いてあった、結婚式の記念写真を鞄に入れた。 そして彼女は離婚届の用紙、自分のパスポートや外国人登録証を持ち、再び泣きだしながら家を出ていった。
翌日二十一日の朝、明人は重苦しい気分の中で目覚めた。
その後、酒井は二度と明人の前に姿を現さなかった。明人が大金を得た様子もなく真面目に勤め続けたことから、警察は明人自身への疑いは捨て去ったようだった。 |
〜postscript〜
日本にお嫁入りするロシア人女性は割りと多いので、
そのことを取り上げようと思い書きました。
また、平凡な男が次から次へと誘惑され、戸惑う姿も面白いか、とも考えました。
結局はスパイ物になってしまいました。
私個人は、外交官ならともかく、
民間人のロシア人がスパイをやっているとは思っていません。
それから、日本ではスパイを取り締まる専門の法律がないので、
現場を押さえない限りほとんど逮捕できません。
そこに酒井刑事の苦労があるのです。