「ポリーナ」



「ママに会いたいわ。」
 最近、ポリーナがそんな風につぶやくようになったことに、明人は気づいていた。
 初めての結婚記念日を迎えてから、ポリーナはロシアを懐かしむようになったようだ。母親やペテルブルグの友人と頻繁にメールのやりとりをしているらしい。それだけでなく、ポリーナは明人に対しても素っ気なくなってきたので、彼は漠然とした不安を感じ始めていた。
 ポリーナはペテルブルグから来た明人の妻だった。
 一年半ほど前、明人は手ひどい失恋をした。ちょうどそのころ、モスクワ支局から戻ってきたばかりの先輩記者と会う機会があった。明人がロシア文学科の卒業でありロシア語がある程度できることを知ると、その先輩記者は、外国人との結婚を望む女たちがロシアには多いことを話してくれた。そして、自分が直接知っている女ではないが、日本人との結婚を望むロシアの女に心当たりがあると言った。それを聞き明人は、失恋の痛手から立ち直るためにも、この際思い切って、ロシアの女との縁を結んでみようという気になった。
 そこで先輩記者がモスクワで知り合ったロシア人を介して、明人のもとにポリーナの写真が送られてきた。彼はそれを見て、一目でポリーナに惹かれた。男なら大抵の者が憧れる美しい金髪と青みがかった灰色の目を彼女は持っていた。
 早速明人はポリーナの住むというペテルブルグに飛んだ。実際のポリーナに会って、明人はますます彼女に夢中になってしまった。ポリーナは人柄も振る舞いも申し分なかった。
 明人は迷う事なくポリーナに結婚を申し込み、彼女はすぐに承諾してくれた。明人は嬉しさのあまり、何度も彼女の意志を確認したくらいだった。
 明人は有頂天になって帰国し、ポリーナを迎え入れる準備をした。そして数カ月後、ペテルブルグで結婚式を挙げ、ポリーナを東京に連れてきたのだった。
 ポリーナは家事を上手にこなし、地味でも派手でもない彼女によく似合う服装をしていた。また彼女は頭のいい女らしく、国際情勢にも通じていたし、ペテルブルグでは英語教師をしていたと自分では言っていた。それだけに、ポリーナがなかなか日本語を覚えられないことだけは、明人には不思議に思えた。
 彼女は日本の生活に馴染もうとしていたし、明人との夫婦生活もうまくいっていた。それにもかかわらず、結婚記念日が過ぎてからしばらくして、いつの間にかポリーナは変わってしまった。
 明人にはその原因がわからなかった。結婚記念日は平日で仕事を休むことはできなかったが、その代わりに事前に注文して花を自宅まで届けさせておいた。いくら初めての結婚記念日とはいえ、妻が日本人の女だったら、ここまではしないつもりだった。そして、その次の週末にはポリーナを伴って伊豆へ旅行にも行った。
 旅行先で、明人は数カ月ぶりにポリーナに愛の言葉を告げた。ホテルの客室のベッドの上で、一糸まとわぬポリーナの身体を抱き締めながら、明人は彼女の耳元でささやいた。このままポリーナを失う事なく、この先も彼女と一緒に結婚記念日を迎えたいという願いを込めながら。
 ポリーナも明人の言葉に感激してくれたようだった。だから彼は、まだまだ蜜月の時が続くものと思っていた。
 一体、ポリーナは何が不満なのだろうか?。自分か、それとも日本の生活なのか。それとも、特に不満がなくても自分の国が懐かしくなる時期なのだろうか?
 明人はポリーナと、この件についてじっくりと話をすべき必要を感じていた。彼女が何かについて悩んでいるのなら、一緒に解決してやりたかったし、もし自分に不満があるなら、改善する努力をするつもりでもいた。
 しかし、それは当分叶いそうになかった。新聞記者をしている明人はこのとき、とある閣僚の収賄疑惑のスクープを狙っていて、ポリーナと深刻な話し合いをする心理的余裕がなかった。
 ポリーナはそんな明人を尻目に、自分の友人を家に招いて慰めを見いだしているようだった。
 そのうちの一人はタチヤーナという女で、明人は彼女のことは以前から知っていた。彼女はポリーナとは子供のころ同級生だったらしい。今はダンサーとして日本に働きに来ているとのことだった。
 さらにポリーナは最近、リュドミーラという新しく友人になった女も招待した。リュドミーラはロシア人の女を外国人に紹介する結婚相談所を通じて日本人の銀行員の男を紹介され、彼と結婚して日本で暮らすようになったのだ。
 このようにポリーナが同胞の女たちと頻繁に交流するようになったことから、彼女がそこまでロシアを懐かしんでいるのかと、明人は彼女をあわれに思った。そこで明人は考えた末、ポリーナに言った。
「ポーリャ、よかったら一度、ロシアに帰国してみるか?以前話したけど、今俺はとある閣僚の収賄疑惑を追っている。だけどこの件が片付いたら、休暇を取って一緒にペテルブルグへ行くことができるよ。どうする?」
 これを聞いてポリーナが喜んでくれるかと明人は思っていたが、意外にもそうではなかった。ただし、彼女は口先では彼の申し出に同意した。
「そうね、楽しみにしているわ。」
 明人としてはしばらくの間はこれ以上のことができなかったので、ポリーナのことでは漠然とした不安を抱えながらも、毎日仕事に出ていた。
 明人の追っている事件は、外資系の商事会社のR社が防衛庁長官の関に働きかけて系列の会社が製造する戦闘機を購入させ、航空自衛隊に配備させようとしているらしいというものだった。この事件を明人たちがかぎつけたのが先月のことだった。それ以来、明人たちは関長官やR社の社員の動きを見張っていた。
 十月十二日、この日明人は新聞社の自分のデスクで仕事をしていた。昼になる少し前、彼のもとへポリーナから電話がかかってきた。買い物のために都心に出てきたのだが、よかったら昼食を一緒にしないかと誘ってきたのだ。明人は喜んで賛成し、昼休みになるとビルを出て彼女と落ち合い、近所のレストランに入った。
 この日のポリーナは珍しく上機嫌で、明人との会話を楽しんでいた。もっとも、途中で二回中座して、携帯電話を使って誰かに電話をしていたようだったが。
 食事の後、明人は帰宅しようとするポリーナを地下鉄の駅の改札口まで送っていった。
「今夜も遅くなると思う。だから先に休んでいてくれ。」
「わかったわ。じゃあね。」
 ポリーナの姿が見えなくなると、明人は新聞社に戻るべく地上への階段を上ろうとした。そのとき、ちょうとそばに立っていた若い白人のの女が、ためらいながらも明人にロシア語で話しかけてきた。
「ロシア語がおできになるんですね。すみませんが、ちょっとお時間いいでしょうか?」
「いいですよ。」
 明人は足を止めて相手の女を見た。黒に近い茶色の短い髪をして、まだあどけなさの残る顔をした地味な服装の娘だった。
「今、向こうに行ってしまった人は奥さんですか?。奥さんはロシアの方みたいですね。
 私はオクサーナといいます。ロシアから来た留学生なんです。日本に来てまだ一カ月ほどなので、なにかあったら相談に乗ってくれる人がいれば、と思っていました。
 もしよければ、連絡先を教えて下さいませんか?」
 明人は自分の名刺の裏に自宅の電話番号を書いて、オクサーナに渡した。オクサーナはおそらくポリーナを見かけて、彼女を頼りにしたいと思ったのに違いない。オクサーナが見知らぬ国に来て不安な気持ちでいるだろうことは、明人にも容易に想像できた。
「妻には遠慮なく電話していいですよ。彼女も話し相手ができて喜ぶと思います。」
「ありがとうございます。」
 嬉しそうに名刺を受け取ったオクサーナをそこに残して、明人は足早に新聞社に戻った。
 それきり明人はオクサーナのことはしばらく忘れていた。ポリーナは何も言わなかった。おそらくオクサーナはポリーナに連絡をしていないようだった。
 代わりにその二日後、今度はタチヤーナから明人のもとに電話がかかってきた。ポリーナのことで話があるとのことだった。明人は二日前にポリーナと会ったように、今度はタチヤーナと昼休みに待ち合わせをし、レストランに入った。タチヤーナは夜はショーに出なければならないので、昼間しか会える時間がないのだと主張したからだ。
 前回自宅で彼女と会ったときもそうだったが、明人はタチヤーナを目の前にすると、ひどく胸がざわついた。タチヤーナが均整の取れた美しい身体をしているだろうことは明人にも想像がついた。肌も露な服からはこぼれるような色気が感じられて、明人は息苦しくもなってくるのだった。
 明人がポリーナのいないところでタチヤーナと会うのは初めてだった。今までは、妻のいないところで妻の友人と接触するのは謹むのが常識だろう、と思っていた。それにも関わらずこの日に明人がタチヤーナと会うことにしたのは、ポリーナが彼女に国に帰りたいとでも愚痴をこぼしているのではないだろうか、と考えたからだ。
 タチヤーナの話は、明人の危惧が当たらずとも遠からずという内容だった。
「ポーリャは結婚する直前まで、アレクサンドル=ヤクーシキンという男とつきあっていたのよ。私も彼のことは少し知っているわ。
 彼は新ロシア人(新興の富裕層のこと)でね、事業もうまくいって羽振りがよかったんだけど、妻がいたのよ。彼女に子供が生まれてしまったものだから、ポーリャは彼の本妻になることを諦めて日本に来たみたいなの。
 でも、ヤクーシキンの方は彼女を諦めきれないらしくて、私が日本に来る前に、彼女の様子を探ってきてくれ、って頼んできたの。彼女のことをいつか取り返してみせるとも言っていたわ。もし彼が本気なら、困ったことになるかも。」
 それでは、ポリーナの様子がおかしくなったのはヤクーシキンという男のせいなのだろうか。明人は苛立ちを押さえながらタチヤーナに言った。
「俺たちの仲はうまくいっているよ。だから奴には、もう彼女のことは諦めろと言ってやってくれ。」
タチヤーナは赤みがかった長い金髪をいじりながら、明人をなだめるように笑顔で答えた。
「怒らないで、明人さん。私はあなたの味方なのよ。私だって、あんな女たらしのヤクーシキンの愛人でいるよりは、あなたのような真面目な人の妻でいるほうが、ポーリャのためだと思っているわよ。
 もちろん、ヤクーシキンにはそう伝えておくわ。ただ、あなたも彼のことは知っておいた方がいいのではないかと思って、今日は話を聞いてもらったのよ。もしポーリャに何か変化があったら、それはヤクーシキンが原因かもしれない。だからあなたには、彼女を奪われないようにしっかりしていて欲しいのよ。
 これからもヤクーシキンが私に何か言ってきたら、必ずあなたに話すわ。だから心配しないでね。」
 レストランの勘定は明人が持ったので、タチヤーナは上機嫌で帰っていった。多分、これからもヤクーシキンをだしに彼女は明人に食事をおごらせるかもしれなかったが、彼はそれでもよかった。ポリーナのことについて何でもいいから教えてもらいたいからだ。それに、わざわざ外国にまで出稼ぎに来ざるを得ないタチヤーナの境遇に、明人は少なからず同情していた。
 ヤクーシキンの件について明人は、しばらくの間はポリーナに何も尋ねないことにした。ポリーナの変化に彼が関係しているかどうかは、タチヤーナの話だけでは確かではなかったからだ。下らない嫉妬をしてポリーナとの仲をこれ以上冷えさせたくはなかった。
 この日は午後から雨が降り出した。しかし明人は取材に出掛け、最近まで重役秘書をしていたR社の元社員との接触に成功して、贈賄疑惑の有力な情報をつかむことができた。
 夜になって明人が帰宅したとき、ポリーナはパソコンに向かっていた。またロシアの友人たちとメールのやりとりをしているのだろう、と明人は思った。しかし彼女はすぐにパソコンを終了させて、明人を笑顔で出迎えた。こんなことは久しぶりだった。
「雨で鞄が濡れてしまったんじゃないの?。私が拭いておいてあげるわ。そのままだと革が傷むものね。」
「ありがとう。じゃあ、頼むよ。」
「ついでにクリームも塗っておいてあげる。」
 ポリーナは明人の鞄と乾いた布を持って、彼の部屋に入っていった。明人は居間に行ってテレビをつけたが、彼女の言葉に感激して胸が熱くなり、テレビの内容など目に入らなかった。
 昼間、ポリーナに内緒でタチヤーナに会い、彼女の色香にそそられたりもしたが、そのことを明人は後ろめたく思った。やはりポリーナがこの世で最高の女だ、と明人は改めて感じた。
 次の日の午前中、オクサーナから明人のところに電話がかかってきた。相談にのって欲しいことがあるということだった。
「妻の方には電話してみたか?そういえば彼女の名前をまだ教えていなかったね。ポリーナ=ステパノヴナというんだ。」
「ポリーナさんにはまだ電話していません。どちらかというと、あなたに話を聞いていただきたいんです。多分、ポリーナさんではわからないことだと思いますから。是非ともお願いします。」
 結局オクサーナには、新聞社のビルの中に入っている喫茶店に来てもらうことにした。彼女のためにまとまった時間は取れなかった。
 夕方になり約束の時間が来ると、明人は指定した喫茶店に向かった。オクサーナは既にそこで待っていた。明人はすぐに本題に入るように彼女に言った。オクサーナはおずおずと話し始めた。
「大学の同じクラスの男子学生で、私に好意を寄せてくれているらしい人がいるんです。彼はよく私に話しかけてくれるし、それにこの間、素敵なキーホルダーを私にくれたんです。でも、これだけでは彼の気持ちが確かかどうかはわかりません。
 私としては彼の本当の気持ちが知りたいんです。けれど、日本人の男って、自分の気持ちをはっきり言わないものなんだって聞きました。私はどうしたらいいんでしょうか?彼は本当に私のことを愛してくれるのかしら?」
 明人は身体の力が抜けていくような気がした。この程度の相談で忙しい自分を患わせて欲しくはなかった。だがオクサーナが真剣な表情で自分を見つめていたので、彼女を冷たくあしらうことはできなかった。
「それを聞いただけでは、彼がきみを愛しているかどうかはわからない。だけど彼が本気なら、いずれ大学以外の場所で会おうと言って、きみのことを誘ってくると思うよ。とにかく、まだ彼と知り合って一カ月くらいなんだろう?。焦らずにもう少し彼の様子を見ていてごらんよ。日本人の男だって、大事な場面では言うべきことはきちんと言うから、安心するといい。」
「わかりました。そのとおりにします。」
「また何かあったら、遠慮なく相談していいからね。」
 明人のこの言葉は、多少は社交辞令の意図があったが、若いオクサーナをいたわるつもりもあったのだ。彼女はまだ純粋な心でひたむきな恋ができる年頃なのだ。だからこそ、ささいな事で悩んだり心が揺れ動いたりもしてしまうのだろう。明人は自分にもそんな頃があったことを思い出していた。
 オクサーナは丁寧に礼を述べ、明人は彼女をビルの玄関まで送っていった。
 次の週末、防衛庁長官の関の方に動きがあった。若手の私設秘書がR社の社員と会ったのだ。明人は同僚の大川とともに彼らのあとをついていった。連中は都内のあるボーリング場に入った。明人たちは彼らから三、四本離れたレーンでボーリングをしながら、集音マイクで彼らの会話を録音した。
 わずか一時間で彼らは帰っていった。明人も帰宅し、自分の部屋で録音したテープを聞いてみた。敵もさるもので、背景の音がうるさいボーリング場では彼らの会話はほとんど聞き取れなかった。
 今日はたいした収穫がなかった、と明人ががっかりしているところに、ポリーナが紅茶を運んできてくれた。
「仕事はうまくいっているのかしら?例の事件についての調査はすすんでいるの?」
「だいたいね。あとは連中に決定的な動きでもあれば、記事は書けると思うよ。だから、もう少しで片付くよ。」
 明人は、ポリーナがいつロシアに帰ることができるのかを気にしているのだろうと考えた。
「俺の休暇が取れるまで待ちきれないのなら、きみだけ先にロシアに行っているか?」
 明人はそう言ってからすぐに後悔した。ポリーナ一人でペテルブルグに行かせたら、彼女はこっそりとヤクーシキンに会おうとするかもしれない、と心配になった。
「いいえ。帰るならあなたと一緒でなければ。そうでないと、夫婦仲がうまくいっていないんじゃないか、ってママが心配するでしょうから。」
 ポリーナのこの答えに、明人はほっとした。
「頑張って仕事を片付けて、一日でも早く休暇が取れるようにするよ。」
 ポリーナが部屋から出ていってからしばらくして、オクサーナから電話がかかってきた。彼女は泣きそうな声で、明人に今すぐにでも会って欲しいと懇願した。明人は仕事の資料や取材メモを片付け、仕事ができたからとポリーナに言って家を出た。
 厄介な小娘に関わってしまったと煩わしく思うと同時に、明人はオクサーナのことが心配になった。あのおとなしそうなオクサーナのことだから、おそらく彼女に好意を寄せているとかという同級生にいいようにもてあそばれたのかもしれなかった。
 明人がオクサーナの指定した駅につくと、彼女は歩いて五分程度のところにある自分のアパートに彼を連れていった。オクサーナはそこで一人で暮らしているようだった。明人はためらいながらも、彼女に誘われるままに部屋に入った。
 部屋の様子は、日本人の女子学生の暮らすそれと変わりはなかった。オクサーナは明人に紅茶を出し、彼の向かい側に座ってため息をついた。
「私、彼に騙されたみたいなんです。彼にお金を貸してしまったんです。
 最初は四日前、一緒にお茶の水に行ったんですけど、彼が高価な本を買わなければならないことを思い出したんです。そのとき彼の持っていたお金が本の代金に足りなかったので、私が一万円を貸しました。
 次は一昨日のことです。彼がこのアパートに遊びに来てくれて、二人で食事をしたあと、長いことおしゃべりしました。そうしたら、電車がなくなってしまったと彼が言ったので、タクシー代として再び一万円を貸しました。彼はかなり遠い街に住んでいるみたいだったんです。
 彼とはそれから会っていなかったんですけど、つい先程彼に電話したんです。お金を返してもらおうと思ったわけではなくて、別の用事でなんですけど。でも彼は、忙しいから当分私とは会えないと言いました。だからこれは多分、お金を返せと言われたくなくて私を避けているんだな、と気づきました。」
「たちの悪いのにひっかかったね。でも、気を落とすんじゃないよ。その男の代わりに俺が二万円を弁償してやろうか?」
「結構です。お金が惜しいんじゃないですから。ただ、彼の人柄にはがっかりしました。」
「今度好きな男ができたら、彼の評判を周囲の人間に聞いてみるといい。」
 オクサーナの話を一通り聞いてやったことから、明人はそろそろ帰ろうと立ち上がった。すると彼女は明人の腕をつかんで引き止めた。
「待って。まだ帰らないで。」
 オクサーナは明人を逃がすまいとするかのように、彼にしがみついた。
「今夜は一緒にいてくれませんか。お願い。」
 明人はひどく驚いて、動けなくなってしまった。オクサーナのようなおとなしそうな娘が、こんな大胆な事をするとは思わなかったのだ。オクサーナの体温が伝わってきて、明人は身体中の血がざわめき立つような気がした。
 どうやら自分次第で、彼女を思いどおりにできる状況になっているらしい。オクサーナは失恋の痛手のせいか、自棄になっているようだった。今だったら、やすやすと明人を受け入れてしまうだろう。若い枝のようにしなやかでみずみずしいオクサーナの体を明人は想像した。
 その一方で、明人は冷静になろうともした。分別ざかりにある自分が、若い娘の気まぐれな誘いに乗るべきではないのだ。
 それに、万が一このことを知ったら、ポリーナは自分のことをどう思うだろうか。親切な男を装って若い娘に近づき、相手を油断させてから手を出したのだ、と明人のことを軽蔑するかもしれなかった。
 そこで明人はオクサーナの身体を引き離した。
「すまないね。やはり帰らせてもらうよ。」
 オクサーナはまだ何かを言いたそうだったが、明人はそれを振り切って彼女のアパートを出た。もう二度と、オクサーナと会うつもりはなかった。  明人が家に戻ったとき、時刻はそれほど遅くはなかったのだが、ポリーナは彼とはほとんど口をきかず、一人でさっさと床についてしまった。明人はそんな妻に寂しさを感じた。休みの日にもかかわらず自分が家を空け、彼女をほったらかしにするから、彼女の心が離れていってしまうのだろうか、と思い情けなかった。
 数日後の十月十九日の朝、明人が出勤しようとすると、書類鞄の中身がいじられていることに気づいた。
「ポーリャ、俺の鞄を触ったのか?」
「ええ。昨日銀行でお金をおろしてきたので、あなたの財布にお札を入れてあげようとしたの。そのときにうっかり鞄を落として中身をぶちまけてしまったわ。ごめんなさい。」
「そういうことならいいんだ。」
 明人が新聞社の自分のデスクに着いたとき、同僚の大川がその日発売された週刊誌を持ってきて、あるページを開いてみせた。そこには関防衛庁長官に関する小さな記事が載っていた。内容は、彼がかつて官僚だったころに合衆国に赴任したときの思い出話だった。
「世間はだれも、奴のやっていることに気づいてないな。」
「そうみたいだな。」
 二人は顔を見合わせて笑った。いずれ自分たちが関の正体を暴いてみせる、とあらたに闘志を燃やした。
 その日、ポリーナのもう一人の友人であるリュドミーラから明人のもとへ電話がかかってきた。立場を同じくするリュドミーラになら、ポリーナは自分の本音を打ち明けているかもしれないと思い、彼はリュドミーラと会うことにした。
 場所についてはリュドミーラが品川にあるホテルの喫茶店を指定してきた。夜になり約束の時間に一時間近く遅れて、明人は待ち合わせの場所に行った。
「遅れて申し訳ありません。仕事が長引いてしまったもので。」
「あなたもお忙しいのね。本当に大変ですね。」
 リュドミーラが機嫌を損ねていないようだったので、明人はほっとした。
 リュドミーラは有名デザイナーの服に身を包み、茶色がかった金髪をきちんと結い上げていた。彼女は物腰も優雅で、話し方もゆったりとしていた。明人は彼女を見ていると、時代ものの洋画に出てくるような伯爵夫人を連想してしまうのだった。
「お話を伺いますよ。もしかしてポーリャのことですか?」
「いいえ。私の夫のことなんです。この国では、ほかにこんなことを相談できる人はいなくて。」
 リュドミーラの夫について何ら関心をもっていなかったことから、明人は彼女に会いにきたことを後悔した。それでも一応は彼女の話を聞くことにした。
「夫はいつも帰宅が遅くて、しかも休日もしばしば出勤しているのです。私が仕事を控えるように言っても、耳を貸してはくれません。どうにかならないものでしょうか?あの様子だといずれ身体を壊すか、精神を病んでしまうのではないかと心配です。」
「日本の労働者はそういうものなんですよ。」
「日本人の働き蜂ぶりは聞いていたけど、あそこまでとは思いませんでしたわ。」
「仕方がないですよ。そこまで働ける人間でないと、日本の企業雇ってはくれませんからね。彼はあなたのために頑張っているのだから、あなたも辛抱してあげなさい。」
「私のためとはいってもね、明人さん。私は彼の身を案じながら帰りを待ち続けるだけの毎日なんですよ。この見知らぬ国で独りぼっちで過ごす時間は、とても長く感じられるわ。だから時々、空しさを感じてしまいますのよ。何のために彼と結婚したのかしら、と思って。」
 明人はいたたまれないような気がした。自分はリュドミーラの夫ほど仕事にかまけているつもりはなかったが、もしかしてポリーナも同じようなことを感じているのでははないだろうか。
「ポーリャも俺のことをそんな風に考えているのでしょうか?」
「彼女は、あなたのことについては特に何も言っていません。」
「そうですか。でも、俺も彼女をあまり構ってやることができないから、あなたと同じ気持ちでいるかもしれませんね。たまにはポーリャを誘ってどこかに行かれるといいですよ。二人ともいい気晴らしになりますよ。」
「いずれはそうさせていただくわ。でも、彼女では慰められないこともありますわね。」
 リュドミーラは悩ましげな視線を明人に向けた。
「今夜はせっかく来ていただいたのだから、遅くなっても構わないでしょう?」
 そこがホテルの建物の中であることを思い出した瞬間、明人は腰が抜けそうなほど驚いた。貞淑な人妻といった風情のリュドミーラが男に誘いをかけるとは、全く考えてもいなかった。
「妻を裏切ることはできません。」
「堅いことをおっしゃるのね。」
「あなたは自分の夫を裏切ってもいいんですか?」
「私のことを放っておく彼の方が悪いんだわ。」
 驚きが去ると、今度は明人の心の中で迷いが生じてきた。自分さえその気になれば、今目の前にいる女をホテルの客室に連れていって、自分の好きなようにできるというのだ。リュドミーラのような上品ぶった女が、男の腕のなかでどんな風に乱れていくのか、見てみたくなってきた。
 しかし、明人は結局は思い止どまった。ポリーナの気持ちが離れかけているかもしれないこのときに彼女の友人とおかしなことになってしまったら、ポリーナを失ってしまうことになるかもしれない。
「今の話は聞かなかったことにしましょう。じゃあ、これで。」
 明人は伝票を持ち、リュドミーラを残してその場を足早に立ち去った。家に帰る途中、明人は何度も笑いを浮かべた。妻の愛に不安を感じている自分が、他の女からは身を任せたいと迫られるのは滑稽なものだった。
 明人はもはや我慢ができなくなった。妻の自分への愛を確かめずにはいられなくなってしまった。そこで帰宅した明人はベッドに入ると、傍らに横になっていたポリーナに口づけし、彼女の胸に触れた。しかし、ポリーナの方は気が乗らないようだった。
「もう眠いから、やめて。」
 明人はかまわずに、ポリーナの服を脱がせようとした。自分は二人の女の誘惑を振り切って妻のところに戻ってきたのだ。そんな自分を満足させるのが、妻の義務だろうと思った。
 ポリーナは明人の手を払って、彼に背を向けた。焦りを感じた明人は、ポリーナの身体を揺さぶった。
「何故、最近冷たいんだ?日本での暮らしがつまらないか?。それとも俺に不満があるのか?もしかして、他の男のことを考えているんじゃないだろうな?」
「そんなことないわよ。だから乱暴しないで。」
「だったら、ロシアで暮らせるようにすればいいのか?。ペテルブルグは無理だけど、モスクワだったらうちの会社の支局がある。そこに行かせてもらうように頼んでみるよ。だから、以前のきみに戻ってくれないか。」
 ポリーナは慌てて起き上がった。
「確かに国に帰りたいという気持ちはあるわ。でも、あなたがそんなことをする必要はないわよ。私のことは放っておいて。」
「そんな馬鹿な。俺はきみの夫なんだよ。きみのことを心配して当然じゃないか。最近のきみは何を考えているのかわからないよ。俺に言いたいことがあるなら、遠慮なく言って欲しいんだ。」
「もう遅いから、そういう話は今度にして。」
 ポリーナは再び明人に背を向け、毛布を被って横になってしまった。これ以上彼女を問い詰めると激しい口論になりそうだったので、明人も毛布を被って横になった。だが、不安で胸がざわついて、なかなか眠りにつくことができなかった。
 今までのポリーナに関する漠然とした不安が、夫婦生活を拒否されたことで危機感に変わった。このままではいずれポリーナを失ってしまいそうな気がした。
 そういうわけで次の日の午前中、タチヤーナから電話がかかってきたときは正直言ってありがたかった。こうなった以上はすべてを正直に打ち明けて、彼女の協力を仰ごうと明人は考えたのだ。ポリーナの過去も性格もよく知っているタチヤーナならば、おそらくいい解決方法を教えてくれるに違いなかった。
 夜もだいぶ更けてから明人が待ち合わせ場所の池袋の公園に行くと、タチヤーナはすでにそこに来ていた。
「ターニャ、思ったより早かったね。」
「体調がよくないって言って、店は早引けしてきたのよ。」
 そしてタチヤーナは近くで客待ちをしていたタクシーにさっさと乗り込み、明人にも乗るように言った。明人は少しの間迷ったものの、結局は彼女の言うとおりにした。この時間になって開いているレストランを探すのは難しかったし、それに彼女とはロシア語で話すから、運転手に話を聞かれることはなかった。
 タチヤーナは自分の住んでいるアパートの場所を告げ、運転手はタクシーを出発させた。
「最近、ポーリャの様子はどうかしら?」
「実はね、彼女のことできみにどうしても相談に乗ってもらいたいことがあるんだよ。」
 タチヤーナはその答えを予想していたかのように頷いた。
「彼女がよそよそしいってことでしょう。わかるわよ。だってヤクーシキンが毎日のように彼女にメールを送っているらしいんですもの。彼ったら、ポーリャは今でも自分に未練を持っているはずだ、彼女の本音を聞き出してくれ、って私に頼んできたわよ。」
「そうか。奴のお陰で俺たちの夫婦仲はおかしくなってしまったんだ。許しがたい野郎だ。そういえば、来月ポーリャと一緒にペテルブルグに行くつもりでいるんだ。だからそのときにでも奴に会って決着をつけてやらなければならないな。だからターニャ、奴の連絡先を教えてくれないか。」
 それを聞いて、何故かタチヤーナはひどく慌てた。
「そこまでしなくてもいいのよ。大丈夫よ、私に任せておいて。私はもう少ししたら一度帰国するから、私の方からヤクーシキンに言っておくわ。あなたがポーリャのことを絶対に手放す訳がないから、彼女のことはきっぱり諦めろって。」
「本当にそうしてくれるのかい?ありがとう、恩にきるよ。」
「それからね、もう一つ助言させていただくと、彼女に対してはこのことは一切言わない方がいいわね。彼女は嫉妬深い男が嫌いなのよ。だからあなたは何も知らないふりをして、今まで以上に彼女にやさしくしてあげるべきよ。
 そのためにも、今までの嫌なことは今夜いっぱいで忘れてしまった方がいいわね。ねえ、今夜は私のアパートに来ない?私があなたを元気付けてあげるわよ。」
 そう言ってタチヤーナは明人の首にしがみつき、彼の頬に口づけした。
 明人は今度は驚かなかった。疑問に思う気持ちの方が強かった。何故、わずか四、五日の間に三人ものロシアの女たちが自分を誘惑しようとするのだろうか?明人はそんなことで自惚れるような男ではなかった。彼女たちの態度に、何かただならぬものを感じていた。
「ターニャ、正直に答えてほしい。きみが俺に誘いをかけるのは、何か訳があるんだろう?」
「何を言っているの?私はただ、あなたを慰めてあげたいだけよ。それがポーリャのためにもなるんだし。」
「いや、絶対に何かあるはずだ。」
 明人の真剣な表情を見て、タチヤーナは彼の首から腕を離した。
「どうやら見抜かれてしまったみたいね。わかった、本当のことを話すわ。
 私は結婚しているのだけど、夫は窃盗事件を起こして今、刑務所に入っているの。あと二カ月で出所する予定だから、彼と新しい生活を始めるために、お金が必要だったのよ。」
 そこまでの説明だけだったら、明人にも納得がいった。おそらくタチヤーナは自分と関係を持った後、ポリーナに対する口止めとして金をせびるつもりだったのだろう、と彼は推測した。だが、タチヤーナは意外な言葉を付け加えた。
「だから私は、ポーリャの頼みを引き受けてしまったの。」
「彼女が頼み事を?それは一体どういうことなんだ?」
 明人の表情が険しくなったのを見て、タチヤーナは慌てた。
「すべてわかっていたのではなかったの?」
「きみが金目当てで俺を誘惑しているだろうことは予想がついた。でも、ポーリャが関わっているとは知らなかった。どういうことなのか、すべて話してもらおう。」
「どうしよう?困ったわ。」
 タチヤーナはしぶしぶながらも説明した。
「あのね、ポーリャはあなたと離婚したい、って言っていたの。ペテルブルグに帰りたいからなんだって。でも、手ぶらで帰国するのはいやだから、慰謝料の名目であなたからまとまったものがもらえるように、私にあなたと関係を持って欲しいって頼んできたわ。そして、もし慰謝料を手にすることができたら、その三割をお礼に私にくれるとも約束してくれたのよ。」
 思ってもみなかった話に、明人はしばらく声がでなかった。ポリーナが自分と離婚するつもりでいることが、はっきりとわかってしまった。しかも、ポリーナにとって自分はもはや単なる金づるにしか思われていないのだ。こんな惨めなことはなかった。
「じゃあ、リュドミーラたちもポーリャとぐるになって、きみと同じように俺を罠にはめようとしたわけだな。」
 明人はやっとの思いで声を絞り出して尋ねた。
「誰ですって?」
「リュドミーラ=マクシモヴナだよ。ポーリャの友人の。あと、オクサーナもどうせ同じ穴のむじななんだろう?」
「この国でポーリャにそういう名前の知り合いがいるなんて、聞いたことがないわ。」
「それはおかしいじゃないか。だってきみが俺を誘惑してきた裏には何かあると感じたのは、既にその二人に同じように誘惑されてきたからなんだ。しかもここ四、五日の間にだ。」
「本当なの?」
 今度はタチヤーナが当惑する番だった。
「ポーリャがその女たちにも同じことを頼んだということなの?何故、彼女はそんなことをしたのかしら?」
「それはきみが確実に俺を誘惑できるかどうか、心配だったからだろう。きみを信用していなかったんだな、ポーリャは。」
 明人は込み上げてきた怒りをタチヤーナにぶつけるように、皮肉を込めて言った。
「きみは彼女にとって手駒にしかすぎなかったんだ。彼女はきみを友人として大切には思っていなかったんじゃないか。そもそもきみたちは、どの程度親しくしていたんだ?」
「子供のころ、同じ学校に通っていたのは本当よ。でも、一番の仲良しというわけではなかったわね。彼女が大学に入ってからは、しばらく会わなかった。でも、彼女があなたと結婚したとき、私に手紙でそのことを知らせてくれて、しかも日本での住所を教えてくれたから、日本に来たときに彼女と連絡をとってみたのよ。」
「そういうことか。それなら、ヤクーシキンのことはどうして知っていたんだ?」
「それは私の作り話よ。あなたを嫉妬させれば、自棄になって私の誘いにうまく乗ってくれるかもしれないと考えたのよ。ヤクーシキンは数年前に私の愛人だった男の名前よ。ポーリャは彼とは何ら関係がないわ。」
「まったく、きみといい彼女といい、人を馬鹿にするにもほどがある。」
 明人が吐き捨てるように言ったので、タチヤーナはじっとうつむいてしまった。しばらく気まずい沈黙が流れたあと、タチヤーナがおそるおそる口を開いた。
「これからあなたたち、どうするつもりなの?とは言っても、ポーリャの様子だと、あなたたちがやり直すのは無理だと思うわ。」
「俺たち夫婦の問題だ。きみはもう、二度と口を挟むな。」
 やがてタクシーはタチヤーナのアパートのある街についた。明人は彼女をタクシーから素早く下ろし、そして今度は自分の家の方向にタクシーを向かわせた。
 明人が家についたとき、ポリーナはまだ起きていた。明人を出迎えたポリーナは、彼の表情が険しいのに気づき、脅えた様子を見せた。
「ターニャから話を聞いた。彼女の言ったことは本当なのか?」
 明人は、ポリーナが否定してくれることを願いながら尋ねた。しかし彼女は明人の言葉にうなずいてしまった。
「ええ。」
「もしかして、リュドミーラやオクサーナにも同じことを頼んだんだな?」
「ええ。」
「何も弁解しないんだな?」
「ええ。」
 それを聞き、明人はポリーナの頬を平手で思いきり殴った。彼女はよろめいて床に座り込んでしまった。
「何が慰謝料だ?おまえみたいのを守銭奴って言うんだ。望みどおり離婚してやる。帰国する費用だけやるから、あとはみんな置いていけ。おまえの勝手で別れるんだから、身ひとつで出ていけ。こっちも無愛想な女はもうたくさんだ。」
 怒りの言葉をぶつけながらも、明人は心の中ではポリーナが許しを乞うことを期待していた。しかしポリーナは力無く立ち上がると、離婚届の用紙を取ってきて、明人にそれを差し出した。
 離婚届を用意していたところを見ると、ポリーナの離婚の意志は固いようだった。明人は初めて、彼女に激しい憎しみを抱いた。今まで彼女に注いできた愛情のすべてが踏みにじられたように思われたのだ。明人は再び拳をあげ、ポリーナは脅えて顔を背けた。
 しかし、明人は二発目を殴ることは何とか思い止どまった。その代わりに離婚届けをひったくると、自分の部屋に行き机に向かった。ポリーナはおそるおそる明人の部屋にやってきて、明人が殴り書きをするように届けに記入するのを見ていた。
 明人はポリーナが署名すべき欄以外のすべての箇所の記入を終えると、すばやく着替えを鞄に詰め込み、何も言わずに家を飛び出した。もはや一秒でもポリーナの側にはいたくはなかった。
 明人は通りでタクシーを拾い、新聞社の近くにある小さなホテルに向かった。客室に入ると彼はすぐにベッドに倒れ込み、すぐに眠ろうとした。早く現実の悪夢から逃れたかった。
 家を出る前に明人が冷静になってポリーナの様子を見れば、彼女が今にも泣き出しそうに顔を歪めていたことに気づいたかもしれなかった。もっとも彼女はそのことを気づかれないように、ずっとうつむいていた。
 明人がいなくなるとポリーナはベッドに突っ伏して、長い間すすり泣いていた。しばらくして彼女は立ち上がり、涙を拭いて離婚届けに自分の署名をした。次にポリーナは結婚指輪をはずし、鏡台の引き出しにしまった。代わりにテレビの上に置いてあった、結婚式の記念写真を鞄に入れた。
 そして彼女は離婚届の用紙、自分のパスポートや外国人登録証を持ち、再び泣きだしながら家を出ていった。

 翌日二十一日の朝、明人は重苦しい気分の中で目覚めた。
 ポリーナはどうやら最初から金目当てで自分と結婚したらしい。明人は今や彼女を徹底的に蔑むようになり、そんな女を真剣に愛していた自分にも嫌悪感を抱いた。
 昨夜のことがすべて嘘であってくれれば、と思いながらも、明人は何とか起き上がって出勤した。この日は明人にとって幸いというべきであろうか、彼がポリーナのことで悩む暇などなかった。
 まず、関防衛庁長官の側に動きがあった。長官は私用で千葉のゴルフ場に出掛け、先に大川が彼らを監視しにいった。それからしばらくしてR社の日本支社長が同じゴルフ場に向かい、明人が彼らを尾行した。
 連中はしばらくの間はお互いに素知らぬふりをしてゴルフをしていたが、日が沈んだあと、クラブハウスで隙をみて同じ部屋に集まった。もちろん明人たちはこれを見逃さなかった。彼らは関長官とR社の支社長が別々にゴルフ場から立ち去るまでその様子を見届け、数枚の写真を撮った。そして明人は関長官の尾行を続け、彼が都内の自宅に到着したのを確認したあと、新聞社に戻った。そのときはもう、時刻は深夜をまわっていた。
 編集長から許可が下りたので、明人は大川とともに徹夜で記事を書き上げた。そして翌二十二日の夕刊に、明人たちの記事が一面に載った。明人はその記事を改めてじっくりと読んでから帰宅した。慌ただしい二日間だった。
 明人が家についても誰もおらず、がらんとしていた。ポリーナは本当に出ていったらしい。この時点ではまだ彼女のことを嫌悪していたので、明人はむしろ解放感を覚えた。今は仕事を成功させた喜びに浸りたかった。不愉快なことは思い出したくもなかった。
 翌二十三日、明人たちのスクープ記事のお陰で世間が騒ぎだした。夕方のニュース番組でついに検察庁が動き出したとの報道がなされたのを、明人は新聞社のテレビで見た。
 翌二十四日も明人は出勤した。ポリーナが出ていってしまったので、休暇を取るのはやめて当分仕事を続けることにしたのだ。この日の夕方、公安の刑事が明人に会いに新聞社にやってきた。
 彼はそのことを奇異に感じた。これが特捜部の検事ならば、関長官の収賄疑惑について嗅ぎ付けた自分たちに情報源について何か聞いてくることは考えられた。
 しかも、刑事は明人だけと話をしたいと言った。そこで彼は刑事を新聞社の建物の中にある喫茶店に連れていった。刑事は人気のない隅の席を選び、彼らは向かい合わせに座った。
「公安部刑事一課の酒井といいます。御存じでしょうが、公安は収賄事件を担当するところではないんですよ。
 ところで、二宮さんは三日前にロシア人の奥さんと離婚されていますが、理由は何なのですか?」 「何故、そんなことを話さないといけないんでしょうか?」
「いいから、話して下さい。そのあと、こういう質問をしたわけを言います。」
 相手の意図がわからないままに、明人はしぶしぶ答えた。
「彼女がロシアに帰ることを望んだからです。」
「あなたはそれでもよかったんですか?」
「帰りたいというものは仕方がないでしょう。わたしとしては、彼女が日本に馴染めるように気を配っていたつもりでしたが。」
「なるほど。無難な説明ですね。
 ところで、世間は二宮さんが書いた記事のお陰で大騒ぎになっていますね。関長官は今、事情聴取を受けていますが、いずれ証拠が固まれば逮捕されるでしょう。」
 そこで酒井は声をひそめた。
「実は、関長官の事件の裏で大変なことが行われたらしいんですが、そのことをご存じでしょうか?」
「いいえ。」
「本当に ご存じないんですか?」
 相手の勿体ぶりに明人は苛立ちを覚えた。どうやら相手は明人を挑発しようとしているようだった。
「一体、何が起こったというのですか?それがわたしと何か関係があるとでも?」
 酒井はしばらく明人の様子を探るように見つめた後、説明し始めた。
「特捜部が関長官の秘書室の電話を押収し、留守番電話の録音記録を調べました。すると、正体不明の女が長官を脅している内容の録音が見つかったのですよ。その女は長官の収賄の事実を公表しない代わりに、先月北海道で行われた日米合同軍事演習の機密資料を寄越せと言っていたのです。
 実際、機密資料の保管を担当している防衛庁の職員に確認してみたところ、二十一日の深夜、長官の秘書から電話がかかってきて、軍事演習の資料を至急見せてもらいたい、と言われたそうです。
 そこでその職員は次の日の早朝、いつもより早く登庁しました。その人が職場についたとき、既に長官と秘書が一人来ていたとのことですが、彼らはひどく慌てていたようなのです。その職員は保管庫から資料を取り出し、数時間ほど長官に貸したそうです。
 そういうわけで、長官が戦闘機の購入を確約してR社から賄賂を受け取っただけではなく、演習の機密情報を何者かに漏らした可能性が出てきたことがわかったのです。そこでこのわたしも捜査に加わることになりました。
 わたしはまず、このことについて長官に尋ねてみました。が、長官も秘書もこの件については黙秘すると言いました。
 そこで次にわたしは長官の収賄疑惑をスクープした新聞記者の方に目を向けてみました。長官が機密の資料を借りに来た段階で彼の犯罪について知っていたのは、長官の側近とR社の連中を除けば、この件を調べていた新聞記者だけですから。そこで、この事件をスクープしたあなたたちのことを調べさせてもらいました。
 すると、あなたがロシアの女性と結婚していたことが判明したので、我々はこのことに注目しました。以前もロシアの外交官によって防衛庁の機密が探られたことがありましたからね。それに、電話の女にはどこかの国の訛りがあったんです。
 あなたはもしかして、収賄の事実を公表しないことを条件に機密情報を長官から脅し取り、奥さんを介してそれをロシア側に渡したのではないですか?」
 思ってもみないほどの重罪の嫌疑を今、自分はかけられているのだ。明人は顔から血の気が引くような思いがし、慌てて叫んだ。
「そんなことは、絶対にしていない。」
「だったら何故、わざわざロシアの女性を奥さんをお迎えになったのですか?」
「それは、美人と結婚したかったからだ。特にロシアという国にかかわりがあったわけでもなんでもない。」
「奥さんがそんなにも美しい方だったのなら、何故離婚してしまったのです?離婚はこの件のほとぼりが冷めるまでの偽装だったのではないですか?」
「違う。」
「じゃあ、離婚なさった理由について、本当のところを話して下さい。」
 離婚した理由の詳細を口にすることは、明人にとってはひどく屈辱的に思われたが、ためらっている暇はなかった。今は何よりも疑いを晴らさなければならないのだ。
「彼女がロシアに帰ることを望んだのは、本当のことです。彼女の気持ちは俺からも離れていました。その証拠に、彼女は自分の友人に俺と関係を持って欲しいと頼んだのです。自分に有利な条件で離婚話を進めるために。」
「それで、あなたは本当にその友人なる女性と関係を持ってしまったのですか?」
「いいえ。妻の企みに先に俺が気づいてしまい、怒って彼女を追い出しました。これが離婚の経緯です。」
「そうですか。それでは、その友人なる女性にそのことを確認させてもらえうますか。」
 明人は少し迷った後、タチヤーナのことだけを話すことにした。彼女一人の供述でポリーナの企みを証明するには十分だと考えたし、ポリーナが他の二人の女の協力を仰いでまで自分と離婚したがっていたと話すのは惨めだった。
「タチヤーナ=クラヴチェンコという女で、池袋のHという店でダンサーとして働いています。」
「ご協力ありがとうございます。早速彼女を尋ねて、裏をとりますよ。」
「タチヤーナの供述が得られれば、俺に対する疑いは晴れるんでしょうね?」
「二宮さん自身はそうなるかもしれません。でも、奥さんに対する疑いはまだ残っています。もし、この件にあなたが関与していないとしても、奥さんがあなたに気づかれないように動いていた可能性はあります。奥さんがあなたの取材メモを盗み見て、長官を脅したのかもしれません。」
「それもありえません。俺は取材の内容をほとんど妻に話さなかったし、彼女の方は日本語ができませんでしたから。もちろん、一年間日本に住んでる間に片言の日本語はできるようになりましたが、俺の書いたメモを読めるほどではなかったんです。」
「日本語がわからないふりをしていたのかもしれませんよ。」
明人は酒井の執拗さに呆れた。
「そんな馬鹿な。わからないふりなんかしていたら、日本で暮らしていくのに不便じゃないですか。」
「その点もいずれはっきりさせないといけませんね。
 いいですか、二宮さん。職務上の正当な理由があったのなら、長官が軍事演習の機密資料を見たって構わないんです。ですが、関はその理由については黙秘すると言った。おそらく関は電話の女の要求に応じたに間違いがないんですよ。わたしはどうにかして糸口をつかみたいのです。」
 最後に酒井はペテルブルグのポリーナの母親の住所を聞いて帰っていった。明人も自分のデスクに戻ったが、大変なことを聞かされてひどく疲れを覚え、すぐに帰宅することにした。幸い差し迫った仕事はなかった。
 家に帰っても、酒井の話が頭から離れなかった。もっとも明人は彼の話を本気にはしていなかった。あの刑事の推理は見当違いも甚だしい。ポリーナは数十万円の慰謝料をせしめるために浅知恵を働かせるのがせいぜいの女だ。一国の長官を脅すような真似など、到底できるはずがないのだ。
 あの刑事が功績をあげるために必死になる気持ちはわからなくなかった。明人だって同じ気持ちで関長官の身辺を調べ、記事を書いたのだから。だが、あの刑事の努力は無駄に終わるだろう。明人は酒井を少しだけ気の毒に思った。
 その夜明人は早めに床についたが、眠りに落ちる前にふと思いついたことがあった。ポリーナは慰謝料を得るために自分に協力を求めてきたのだ、とタチヤーナは言っていた。ポリーナの目的が真実慰謝料のみだったならば、タチヤーナ一人だけに明人を誘惑することを頼めばよかったのではないだろうか?
 もし彼女がそうしたならば、明人は彼女への不安や彼女の過去の男への嫉妬から理性がきかなくなり、タチヤーナの誘いに乗ってしまったかもしれなかった。それなのに他の二人の女まで焚きつけたから、明人はかえって疑問を抱いて、結果的にはポリーナの企みを嗅ぎ付けてしまった。
 もしかして、ポリーナの目的は慰謝料ではなかったのだろうか?彼女の真実の目的は、明人の怒りを煽って速やかに離婚することにあったのかもしれない。そして彼女がそうせざるを得なかったのは、彼女が本当に諜報活動をしていたからなのか?
 それに、ポリーナは金に執着する女だっただろうか?。着道楽のリュドミーラと異なり、ポリーナはつつましい方だった。実際、二人が暮らした家から彼女が金目の物を持ち出した形跡もなかった。彼女は本当に何も持たずに帰国したようだった。
 ポリーナは無事、ペテルブルグに着いただろうか?明人は離婚届を殴り書きして家を飛び出したあの夜以来初めて、彼女の身を案じた。ポリーナの目的が金ではなかったのかもしれないと考えるようになって、彼女への憎しみが徐々に消えていった。
 次の日は仕事が休みだったので、食事に出る以外は明人は自宅にいて、ポリーナのことを考え続けた。彼はどうにかしてこの疑問の答えを得たかった。そこで明人は思いきってリュドミーラに電話をしてみた。
 本当は直接彼女に会って確かめてみたかったのだが、今の自分には警察の人間が尾行についているかもしれなかった。もしリュドミーラのところまで警察が押しかけたら、彼女は夫に対して立場を無くしてしまうだろう。ポリーナの言いなりに動いたリュドミーラもまたいまいましかったが、明人はそこまで彼女を追い詰めるつもりはなかった。
 幸いリュドミーラはすぐに電話に出てくれた。彼女は電話の相手が明人だと知ると、さも意外だといったような驚きの声をあげた。
「あら、明人さんではありませんか。お元気でしたか?
 先日、ポーリャから電話をもらいました。あなたたち、本当に離婚なさったようね。お気の毒だわ。」
「今日は、ご主人は家にいらっしゃるのですか?」
「いいえ。相変わらず仕事よ。」
「それはよかった。あなたに聞きたいことがあるんですよ。
 この間、俺をホテルに誘い出したのは、ポーリャに俺を誘惑するように頼まれたからなんですね?彼女が俺から慰謝料を得ることができれば、その三割をお礼にやると言われて。」
「そのとおりです。あなたには失礼な話でしたよね。申し訳ありませんわ。」
「彼女があなたにそんなことを頼んだのは、慰謝料だけが目的なのでしょうか?他に何かあるのではないですか。」
「他に何か、ってどんなことかしら?」
 リュドミーラがとぼけているのか、それとも本当に彼女は何も知らないのか、電話では相手の様子がわからなかった。明人はもどかしさを覚えた。
「ポーリャはあなたの他に二人の女を使って、俺を誘惑させようとしました。どうやら彼女は、あなたたちにそういう頼みをしたことを俺に気づかせたかったようなのです。
 彼女の本当の目的は慰謝料ではなく、俺を怒らせて速やかに離婚を実現させることにあったのかもしれないんです。そしてその理由は、彼女が諜報活動をしていた可能性があって、早く国に逃げ帰る必要があったからなんです。
 今、世間では防衛庁長官の収賄疑惑が世間をにぎわしていますね。彼女はどうやら長官の収賄の事実をネタに、自衛隊の機密を長官から脅し取ったらしいのです。昨日、刑事が来て俺にそう話してくれました。
 あなたは何もかも承知でポーリャに協力していたのではないのですか?知っていることがあるのなら、どうか俺に教えて欲しいんです。」
 リュドミーラは電話の向こうで悲痛な声をあげた。
「とんでもない。私はそんなことは何も知らなかったわ。
 もし、真実ポーリャがそんなことを企んでいると知っていたら、私は彼女には関わらなかったわ。私は単なる平凡な女よ。諜報活動なんて大それたことに協力なんてできないわ。
 お願い、どうか私を信じて。私は本当にそんなことには関わっていないのよ。私の今の暮らしをめちゃくちゃにしないで。逮捕されるなんて嫌よ。国に送還されたくもないわ。私は夫のことを愛しているし、彼と離れ離れになりたくない。」
「それだったら何故、他人の亭主を誘惑するような真似をしたんですか?」
「それは、この間あなたに言ったとおりだからよ。」
 夫に構ってもらえない寂しさを明人で埋め合わせをしたかったというのは、彼女の本心だったのだろう。明人はリュドミーラが気の毒になり、彼女を安心させるべく言った。
「警察にはあなたの名前を出しませんでした。だからあなたもこのことは誰にも言わないことです。あなたのご主人に、痛くもない腹を探られないように。」
 明人はそこで電話を切った。リュドミーラの話からは何ら収穫が得られなかった。彼は少し迷った後、オクサーナにも尋ねてみることにし、今度は彼女に電話をかけた。オクサーナは電話の相手が明人だと知って狼狽した。
「この間、ポリーナさんから連絡をもらいました。離婚なさったそうですね。あの、もしかして彼女から私のことをお聞きになったんたんでしょうか?当然、私のことを怒っていらっしゃいますよね?」
「彼女ときみとの関係をすべて話してくれれば、きみを許すよ。」
「わかりました。」
 オクサーナはほっとしたようだった。
「ポリーナさんが先月、私の通う大学の事務局に来たんです。ロシアからの留学生を支援したい、と。そういうわけで私が紹介されました。
 彼女は最初会ったとき、日本での生活で何か困ったことがあったら何でも相談していいと言ってくれたんです。でも、それから間もなくして、やはり自分はロシアに帰りたくなったから、速やかに離婚できるように協力してくれないか、と頼んできました。そして、二宮さんを誘惑してくれれば、慰謝料を請求してその三割をお礼に私にくれるとも言いました。そういうわけで地下鉄の駅で偶然を装ってあなたに近づいたんです。」
「じゃあ、キーホルダーをくれた男云々の話は、俺に近づくための作り話だったんだね?」
「いいえ。そういう同級生がいたのは本当です。彼は間もなく私に交際を申し込んできたんですが、私の方で断りました。彼とはそれ以来、口をきいていません。」
「話はそれで全部かい?」
「はい。」
 明人は、オクサーナがポリーナの諜報活動を知っていたかどうかを質問しようと思ったが、結局はやめた。オクサーナの穏やかな口ぶりからすると、リュドミーラと同様、オクサーナもまた何も知らされていなかったようだからだ。それに、まだ学生のオクサーナを驚かすのもためらわれた。
 明人がしばらく黙っていたので、オクサーナの方が話を続けた。
「私、男の人を誘惑するなんて最初は自信がなかったんですけど、二宮さんは若い娘が好きだから大丈夫だって、ポリーナさんに言われたんです。
 それに、うまくいったら卒業後の私の就職先を世話してくれるとも約束してくれました。ポリーナさんは日本語学科の卒業生だから、日本関係の仕事をしている人を何人か知っているそうです。」
「ちょっと待ってくれ。日本語学科というのは初耳だか、本当に彼女がそう言ったのか?」
「ご存じなかったんですか?」
「きみを彼女の言いなりにさせるためのうそじゃないのか?」
「違うと思います。だって、私はポリーナさんとは二回しか会ったことはないんですが、日本語クラスの宿題を彼女にみてもらったことがありますから。彼女はかなり難しい単語まで知っていました。」
 明人が黙り込んでしまったので、オクサーナはさらに言葉を続けた。
「じゃあ、ポリーナさんはあなたの前では日本語を知らないふりをしていたってことなんですか?何だかおかしな話ですね。
 私は最初、ポリーナさんのことを親切な人だと思っていました。でも、夫であるあなたに嘘をついたり、あなたを陥れようとしたりするなんて、本当は悪い人なのかもしれませんね。そんな女の人とは別れてかえってよかったのではありませんか、二宮さん?」
 小娘のくせに生意気なことを言う、と明人は腹立ちを覚えた。オクサーナに何と返事をしてやろうかと考えていると、玄関の呼び鈴が鳴った。
 明人がさっさと電話をきって玄関に出てみると、訪問者は酒井刑事だった。下手に追い返すと再び疑いをかけられるに違いなかったから、明人はしぶしぶながら酒井を居間に通した。
「ポリーナさんはどういう人だったんですか?写真を見せてもらえませんか?」
 ソファに座ると酒井は尋ねた。明人はテレビの上に置いてあった結婚式の記念写真を指し示そうとして、それがなくなっていることに気づいた。そこで明人は先月二人で伊豆に行ったときの写真を部屋から取ってきて、酒井に渡した。こういうとき、ポリーナは本当に自慢できる妻だった。
「確かに、お美しい方ですね。そういえば、タチヤーナさんにも会ってきました。彼女もなかなかいい女ですね。ああいう女に誘われたら、わたしだったら断りきれません。二宮さんが羨ましいですね。文字通り、両手に花という状況だったんじゃありませんか。」
 酒井の言い方は実感がこもっていて、本心から明人を妬んでいるようだった。
「もし、彼女たちに協力してくれと頼まれていたら、二宮さんはどうしていましたか?」
「協力とは、諜報活動にですか?もちろん、断りますよ。もし彼女たちがそんなことに関わっていると知ったら、すぐに国に帰ってもらいましたよ。」
「警察に届けてくれる、とは言ってくれませんでしたね。まあ、いいでしょう。
 タチヤーナさんですが、ポリーナさんに頼まれてあなたを誘惑したことを認めました。ただ、諜報活動のことはきっぱりと否定していましたね。
 それから日本語の件についてもタチヤーナさんに聞いてみました。ポリーナさんはペテルブルグ国際大学の英語学科の卒業で、しばらく英語教師をしていたというのですが、これは日本で再会したあと、ポリーナさんがタチヤーナさんに語った経歴だそうです。でも、ポリーナさんが卒業したのは日本語学科だといううわさを以前どこかで聞いたことがある、とタチヤーナさんは言っていました。」
 おそらく日本語学科の方が正しいに違いない。ポリーナは明人に対しオクサーナとは知り合いでないように装っていたから、オクサーナには本当のことを話したのだろう。
 次に酒井は明人のパソコンを見せるように頼んできたので、彼は酒井を自分の部屋に案内した。酒井はパソコンをしばらくいじった後、明人に尋ねた。
「ポリーナさんもこれを使うことができましたか?」
「はい。ロシアの知人とメールのやりとりをしていましたから。」
「二宮さんは仕事でもこれを使っていましたか?」
「はい。」
 酒井に質問されて明人は気づいた。もしかしてポリーナはこのパソコンを使って自分がメールをやりとりしていたのではなく、明人のところにきたメールを盗み読みしていたのかもしれない。メールソフトには、防衛庁長官の収賄疑惑についての情報提供者や取材相手からのメールが入っていた。
 同時に明人は、ポリーナが口実をつけては彼の鞄をいじっていたことも思い出していた。おそらく彼女が明人の取材メモを盗み読みしていたというのは、間違いがなさそうだった。
 酒井は自分の鞄から小型のカセットレコーダーを取り出した。
「これが長官の秘書室にかかってきた脅迫電話です。聞いていただけますか?」
 録音は途中から始まっていた。おそらく電話を受けた秘書があわてて録音し始めたに違いなかった。女は長官の秘書とR社の社員の接触の日時など、明人がこの一カ月ほど調べてきたことを語り続けた。最後に女は、次の日の朝、六本木に日米軍事演習の資料を持ってくるように指示し、電話を切った。それは、紛れも無くポリーナの声だった。しかも、ロシア語訛りの強い日本語だった。
「この声の主はあなたの知っている人ですか?」
 酒井は明人の目をじっと見つめながら尋ねた。明人は必死に動揺を押さえながら答えた。
「違います。聞いたことのない声です。」
「本当ですか?」
「本当です。」
 酒井は諦めたようにため息をついた。
「私はこう推測しているんです。聞いてください。
 二宮さん夫婦の離婚届は二十一日に提出されています。ポリーナさんらしき女性が窓口に届けに来たことは、役所の職員に既に確認をとっています。
 その後、おそらく夜になってから彼女は関長官の秘書室に電話をかけたと思われます。多分、長官がR社の日本支社長と密会している頃か、そのあとでしょう。もし、密会の前に脅迫の電話がかかってきたら、長官は密会をとりやめたでしょうから。
 電話を受けた秘書はこの録音を長官に聞かせ、長官はポリーナさんの要求に応じることし、翌日早朝、防衛庁に行って機密資料を出させ、複製をとったのでしょう。そして複製を六本木の待ち合わせ場所で彼女に渡した。
 ポリーナさんはそれを受け取った後、どうしたでしょうか?いつまでも複製を自分で持っていたとは考えにくい。彼女には外交官特権がありませんから、警察官に職務質問されたらおしまいです。だから彼女は、すぐに大使館の職員に複製を届けたと思います。
 それからポリーナさんは成田空港に向かいました。このとき彼女は自分の外国人登録証を返還しています。そして、この日の十二時発のモスクワ行きの便の乗客名簿に彼女の名前がありました。
 しかし、それから先の彼女の足取りはつかめませんでした。ペテルブルグ領事館の職員に、彼女が結婚前に母親と暮らしていたというアパートを訪ねてもらったんですが、全く異なる人物が既にそこで暮らしているそうです。
 残念ながら、この件についての糸口はつかめそうもありません。だから二宮さんの良心に訴えたいのです。彼女のことについて何か知っていたら、教えてもらえませんか?」
「わたしはそもそも最初から、何も知りませんでした。」
 明人はこれ以上ポリーナのことを探られたくはなかった。酒井は再びため息をつき、ひどくがっかりして帰っていった。
 酒井がいなくなると、疲れを覚えた明人はベッドに身を投げた。そしてその上で笑い転げた。自分は完全にポリーナに利用されたのだ。しかもポリーナは自分より遥かに度胸のある女だった。利用できるものは何でも利用して国家機密を探り出すなどという真似は、自分にはとてもできそうになかった。
 彼女の背景にどんな事情があったのかはわからない。だが、女の身でここまで大胆なことをやってのけたポリーナに、明人はむしろ畏敬の念を抱いていた。
 とはいえ、そのことは明人にとってはむしろつらいことだった。リュドミーラは、自分は平凡な女で諜報活動などとてもできないと言っていた。ポリーナもそういう女だったらどんなによかっただろう。
 笑い疲れると、今度は苦い思いが込み上げてきた。ポリーナが自分と結婚したのはすべて、こういう場合に自分を利用するためだったのだろうか?彼女が自分を愛してくれたことは一度も無かったのだろうか?
 明人は、ポリーナが残していった荷物の中に密かに自分に宛てて書き残したものでもないか、と探してみた。しかし、結局は何も見つからなかった。代わりに鏡台の引き出しにポリーナの結婚指輪が残されていたのに気づき、明人は愕然とした。彼が覚えている限り、彼女はその指輪を外していたことがなかった。
 ポリーナは自分との結婚生活の思い出さえ、捨ててしまってもいいというのだろうか。明人は指輪を握り締めたまま、鏡台の側に座り込んだ。切なさで胸が締め付けられた。もっともそれは、自分の持ち物をすべて置いていくように、という明人の怒りの言葉にポリーナが従ったものだった。
 明人はポリーナの居所を捜し出したい、と切に思った。たとえ世界のどこにいようとも、是非とも彼女を見つけだして自分を利用するために結婚したのかと尋ねたかった。
 しかし、明人がそれよりももっと望んだことは、彼女が自分のところに戻ってくることだった。利用されたことはすべて忘れてやってもいいから、再び彼女とともに人生を歩んでいきたかった。もちろん、それがもう叶わぬ夢だということも、明人はよくわかっていた。

 その後、酒井は二度と明人の前に姿を現さなかった。明人が大金を得た様子もなく真面目に勤め続けたことから、警察は明人自身への疑いは捨て去ったようだった。
 一ヶ月ほどたち木枯らしが吹くようになると、明人は寂しさと空しさで耐えられなくなってきた。そこで彼は、リュドミーラに電話した。彼女なら自分の気持ちをわかってくれそうだったし、それに彼女のその後の様子も気掛かりだった。
「あなたにお会いしたいんです。」
「何かあったのですか?」
「別に何もありません。ただ、無性にあなたに会いたいんです。」
 このときの明人は、後で自分でも恥ずかしくなるほどの哀れな声を出していた。そのためリュドミーラはすぐに明人の気持ちに気づいた。
「わかりました。どこでお会いしましょうか?」
「うちへ来てくれませんか?」  リュドミーラが承諾してくれたので、次の日明人は会社を早退して駅で彼女と待ち合わせ、そのまま彼女を自分の家に連れていった。
 リュドミーラは居間のソファに座ると、やや緊張しながら部屋の様子を見回していた。明人は自分の部屋に行って鞄を置き、ネクタイを取った。そして明人は居間に行き、リュドミーラの向かい側に座った。
「こういうことは初めてなんですか?」
「こういうこと、って?」
 浮気、と明人は答えようとして気づいた。自分は離婚して独身に戻り、もはや操を立てるべき妻はいないのだった。そのことが寂しく思われた。
 明人は黙って立ち上がると、リュドミーラの手を引いてベッドに連れていき、彼女を抱いた。ポリーナのことを思い浮かべながら絶頂を迎えた。リュドミーラに自分の気持ちを見抜かれているだろうことは明人にもわかっていた。
 それからしばらくの間、二人はベッドに横たわったままでいた。夫との関係がどうなっているのかリュドミーラに尋ねてみようと明人が思ったとき、リュドミーラの方が先に口を開いた。
「ポーリャの写真は処分なさったのですか?」
「いいえ。彼女の持ち物には何一つ、手をつけていません。」
「じゃあ、テレビの上にあった結婚式の写真がなくなっているのは何故なのかしら?」
「さあ。あれはいつの間にかなくなってしまったんですよ。」
「それなら、きっと彼女が持っていったのかもしれませんね。」
「それはまた、何のために?」
「もちろん、あなたとの結婚生活の思い出の品にするためだと思いますわ。」
「まさか。彼女は俺のことを利用したんですよ。彼女が俺との生活を忘れたくはないなどと思うはずはないんです。」
 そのとき、明人の顔は苦痛で歪んでいた。そこでリュドミーラは、彼を慰めるように言った。
「それは違うと思いますわ。もしそうなら、彼女は全部の写真を処分したでしょうから。
 この間あなたから電話をもらって、私は彼女の気持ちについてしばらく考え続けました。そして、彼女の本当の気持ちに気づいたような気がします。あなたから慰謝料を得るために協力してほしいと言われたときは、ポーリャはあなたのことをもはや愛してはいないのだと思いましたけど、そうではなかったのですね。
 おそらく、きちんと離婚の手続きをしてから帰国したのも、あなたが彼女を憎むように仕向けたのも、すべてはあなたの彼女への未練を断ち切らせるための思いやりだったのかもしれませんわ。
 ねえ、明人さん。ポーリャの意図とは反することになってしまいますけど、もう彼女を恨まないでやって欲しいんです。そうでないと、あまりにも彼女がかわいそうですもの。
 彼女は多分あなたを忘れたくなくて、あの写真を持って帰ったに違いありません。私も同じ女として彼女の気持ちがわかるんです。おそらく彼女は、あの写真をこれからもずっと大切に持っていると思いますわ。」
 それは明人の思ってもみないことだった。しかし、この言葉が明人の心の中に一筋の光を投げかけた。明人は、ポリーナと仲睦まじく暮らしていた頃を思い出した。あのときのポリーナこそが彼女の本当の姿だとしたら、と明人は願わずにはいられなくなった。
「もしあなたの言うとおりなら、少しは慰められるような気がします。」
「それはよかったこと。私がここに来た甲斐がありましたわね。
 私の方は、あなたたちを見ていると私の悩みなど大したことはないと思えるようになりました。私は夫と平穏に暮らせることができるのだから、それで十分だ、と。だから私については、もう心配いりません。」
 そこでリュドミーラは身体を起こした。明人も起き上がって服を着、彼女を駅まで送っていった。
 リュドミーラは穏やかな表情で明人に別れを告げ、去っていった。その後、明人は二度と彼女と会うことはなかった。




(終)





〜postscript〜
日本にお嫁入りするロシア人女性は割りと多いので、
そのことを取り上げようと思い書きました。
また、平凡な男が次から次へと誘惑され、戸惑う姿も面白いか、とも考えました。
結局はスパイ物になってしまいました。
私個人は、外交官ならともかく、
民間人のロシア人がスパイをやっているとは思っていません。
それから、日本ではスパイを取り締まる専門の法律がないので、
現場を押さえない限りほとんど逮捕できません。
そこに酒井刑事の苦労があるのです。



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