「真珠」(「ルスラン」番外編1)

レオニードは依頼人に会うときは、公園を指定する。自分の車を公園から三〇〇メートルくらい離れたところに止め、そこから歩いていく。
公園につくと、人待ち顔でベンチに座っている者が必ずいる。レオニードはその隣にさりげなく座る。そして隣の人物に話しかける。
「俺は釣りが好きなんだが、どこならいい獲物が捕れるかな?」
もし相手がレオニードに殺人を依頼するつもりであれば、ここから本題に入る。標的に関しての情報を得、報酬の金額が折り合えば、相手は金を紙で包んだものをさりげなくベンチの上に残して去っていく。
相手がいなくなってしばらくしてから、レオニードも紙包みを持って公園を立ち去り、自分の車に戻る。
そして一週間ほどたつとモスクワで一人、人が死ぬのである。ライフルで撃たれて。
今回の依頼人は、比較的若い男だった。レオニードと同じか、あるいは少し若いくらいだった。
「マリーナジュエリーズ株式会社の女社長を二千ドルで頼む。」
「三千にしてくれ。俺は今まで一二人の狙撃を成功させてきて、一度も失敗したことがない。それから、報酬を追加させないし、二度とあんたにも会わない。それでどうだ?」
こう言うと大抵相手は承諾する。今回もそうだった。相手は面倒くさそうに鞄の中で紙包みを包み直したようだ。
男が公園を去った後、レオニードも紙包みを持って公園を出て、自分の車のところまで戻った。車に乗り紙包みを開いてみると、三千ドル分の紙幣とともに、一枚の写真と紙切れが入っていた。紙切れには、マリーナジュエリーズの販売店兼会社事務所の住所が書かれていた。写真の方は黒髪の若い女が写っていて、半分ほど切り取られていた。おそらく切り取られたもう半分の方には、依頼人本人の顔が写っていたに違いない。背景は宝石店の正面のようだから、これもおそらくマリーナジュエリーズの販売店だろう。
女の標的は初めてではなかったが、こんな女子学生みたいな小娘は初めてだった。
レオニードは背も体格も平均的、顔も平凡で髪も短め。要するにごく平均的なロシアの男だった。ただ、彼には卓抜した特技があった。それが遠隔狙撃である。
レオニードは陸軍にいたころ、射撃の腕を認められ、特殊狙撃隊に配属されていた。また彼は、オリンピックの選考会に出たこともあるのだ。
そういうわけで、ロシア国内が混乱し始めて銃が闇で取引されるようになると、狙撃で報酬を得るようになった。もちろん見つかれば重罪である。
レオニードの手口はこうだ。まず、標的の行動範囲を調べ、標的が人気のないところに行ったらすかさず消音器付きのライフルで狙撃する。その後、すぐにライフルを解体し、釣った魚を入れる箱にライフルをしまう。箱はアメリカ合衆国から取り寄せたもので、ライフルが収まるように中を改造してある。
その後、何食わぬ顔で地下鉄かトロリーバスを使って逃走するのである。あたかも釣りから帰ってきたようないで立ちで。
逃走に車を使うことはなかった。どこで渋滞に巻き込まれるかわからなかったし、それにレオニードの車は第二の商売道具だったから、車が警察によって目をつけられるわけにはいかなかった。
このやり方のお陰で、今のところ特に怪しまれることはなかった。
レオニードの表向きの職業はタクシーの運転手である。モスクワ中の道を熟知しており、狙撃するのに適した場所や逃走する道順はすべてレオニードの頭の中に入っていた。
レオニードは休日になると、郊外にある家庭菜園用の小屋に行って土いじりをし、釣りを楽しんだ。妻とは数年前に別れた。原因は妻の浮気だった。
当時、そのことを知るとすぐにレオニードは相手の男の元へ仕返しに行った。相手の男が酔っているところを狙ったのだが、喧嘩の強い男で、レオニードは簡単に反撃されてしまった。結局、レオニードと相手の男は、お互いに対する傷害罪で投獄された。
その時レオニードが悟ったのは、第一に、もし相手を確実に攻撃したかったら、やはり自分の特技の狙撃が一番だということである。もう一つは、狙う相手に接近してはいけない、ということだ。相手に反撃されたり、顔を見られたりしないように。そして、余裕をもって逃走できるように。
これらの方針を守って、レオニードは今まで十二件の依頼を成功させてきた。
さて、レオニードは今回の仕事に取り掛かるべく、標的であるマリーナの身辺を調べ始めた。マリーナは昼間はサンクト=マルガリツカヤ通りにある宝石店の二階にある事務所で働き、夜は一人で暮らしている高級アパートにまっすぐに帰る、という生活をおくっているようだ。
マリーナは黒い瞳をもち、どこか東洋的な雰囲気のする顔立ちに、すらりとした身体つきだった。レオニードにはそこが新鮮に思われ、マリーナを尾行するうちに彼女に魅かれていった。それだけでなく、彼女を殺す前に一度抱きたい、とすら思うようになっていった。
こういう場合は相手の女を強姦して殺してしまえば、手っ取り早いのかもしれないし、同時に依頼も果たせる。だが、体液や体毛が証拠として残ってしまうことから、レオニードにとってこの方法は取りかねた。
となるとやはり、真正面から近づき、なんとかして彼女をものにするしかない。そういうわけでレオニードは今回初めて禁を犯すこととなった。
レオニードはサンクト=マルガリツカヤ通りの店に入り、店員に社長を呼ぶように言い付けた。店員はなにか苦情を言われるのではないかと心配し、あわてて社長を呼びに二階に上がっていった。
間もなくマリーナが姿を現した。繁盛している宝石店の社長らしく、客に対して優雅なほほえみを向けた。
「いらっしゃいませ。なにか御用でしょうか。」
レオニードは胸をときめかせながら、適当なことを言った。
「ああ、そうだな。女に指輪を贈るとしたら、どんなのがいいかな?」
「相手の女性の髪形とか、どんな服装がお好みなのかを教えてはいただけませんでしょうか。」
「なんだって?」
「髪形や服装で、その女性がどんなデザインの指輪をお好みか、ある程度はわかりますから。」
「なんだか難しい質問だな。また出直すよ。」
レオニードは慌てて店を出たが、マリーナと初めて言葉を交わせたことが嬉しかった。こんな気持ちは数年ぶりだった。レオニードは次の日も彼女の店を訪ねた。彼女との関係をもっと進展させるつもりだった。マリーナはこのときもレオニードをにこやかに迎えた。
「いらっしゃいませ。本日も指輪をお探しですか?」
「ああ、そんなのはどうでもいい。」
「とおっしゃいますと。」
「あなたの方がずっと美しい。だから、昨日指輪を贈ろうとした女のことなんか、もうどうでもいいんだ。」
「ご冗談を。」
「冗談ではないよ。どうか今度、食事に付き合って欲しい。承知してくれるまで何度もお願いするよ。」
「困りましたね。それなら、昼食ならご一緒してもいいですわ。」
マリーナは笑顔を崩さなかったが、しぶしぶながら承知した。店先で捏ねられると他の客に迷惑がかかるからだ。
レオニードは喜々としてマリーナをサンクト=マルガリツカヤ通りにあるファーストフードの店に連れ出した。
「俺のことはリョーニャと呼んでくれ。社長さん、きみは?」
「マリーナです。」
「きみは随分若いみたいだけど、どうやってあそこの店の社長になったの?」
「あの会社は継父が買収して、そして私に任せてくれたのよ。」
「きみの本当のお父さんはどうしたの?」
「既に亡くなったわ。実は私の父は日本人だったの。だから私は十二歳まで日本で暮らしていたわ。東京の郊外の街に住んでいたのだけど、父は休暇になると私を海に連れていってくれたものよ。父とはいっしょに釣りをしたわ。」
「ああ、釣りなら俺も好きだな。休みの日にはよく郊外で釣りをするよ。そうだ、よかったら今度きみを俺の小屋に招待するよ。釣った魚をきみに御馳走しよう。」
次の日もレオニードはマリーナを昼食に誘い、今度は会社の経営について尋ねた。レオニードはマリーナの会社そのものには興味がなかったが、自分のことを話してぼろをださないようにするためには、ひたすら相手を質問攻めにするしかなかった。
「シベリア産のダイアモンドは政府が独占していて、思うように店には入ってこないの。だから私は、将来的には日本から真珠を輸入して、それを店の主力商品にしようと思っているわ。」
「真珠ねえ。真珠って何であんなに高価なのかなあ。真珠は光らないし、地味な宝石だよな。」
「まあ、なんてことを言うの。」
マリーナは眉を吊り上げた。本気で怒ったようだった。
「真珠にだって光沢はあるわよ。それに真珠は鉱物ではなくて、貝でできた宝石なのよ。いいわ、今度私が持っている上等の真珠を見せてあげるから。
海から遠いこのモスクワでは、海へのあこがれを誘って宣伝すれば、必ず真珠は売れる、と私は考えているの。絶対成功させてみせるわ。」
一方、レオニードが毎日来るのを苦々しく見ていた者がいた。マリーナジュエリーズの取締役で社長秘書をしているツェリコフという男だった。
もともとサンクト=マルガリツカヤ通りのこの店は、ツェリコフの父親のものだった。しかし父親は一年前に難病に倒れ、そのために店の経営も傾いてしまった。
そんなときに、会社の株式を譲ってくれとやってきたのが、マリーナの継父だ。アセーエフというこの男は、いくつかの事業を成功させている、いわゆる新ロシア人だった。
やむを得ずツェリコフは株式の何割かをアセーエフに売った。そのときから店の経営にアセーエフが干渉してくるだろうことは、ある程度は覚悟していた。しかし、アセーエフはよりにもよって大学を卒業したばかりの自分の継娘を社長として送り込んできた。しかもその娘は日本人との混血ときていた。さらに、会社の名前も彼女の名前に因んだものに変更されてしまった。
株式を売った金で、ツェリコフは父親をドイツの病院に入院させることができた。しかしその甲斐もなく、父親は二カ月前に死んでしまった。
こうなってしまったからには会社の経営権を取り戻したい、とツェリコフは思った。幸い、アセーエフ自身は宝石販売の仕事には興味がないようだった。しかし株式はマリーナの名義になっており、彼女は宝石を販売する仕事に並々ならぬ情熱を燃やしていたから、株式をツェリコフに返してくれそうになかった。
そこでマリーナさえいなくなれば、自分が社長になりいずれは株式も取り戻すことができる、とツェリコフは考え、レオニードにマリーナ殺害の依頼をしたのだった。
ところが、このライフルの狙撃手は腕が確かで信用もできると街の情報屋に聞いたのに、期待に反してマリーナを口説き始めてしまった。腹立たしく思ったツェリコフは、レオニードがマリーナと別れてタクシーの仕事に戻ろうとしたところを尾行して、彼にそっと言った。
「早くやってくれ。」
公園で会ったときは相手の顔はよく見なかったが、声と体つきからマリーナ殺害を依頼した当の本人であろう、ということはレオニードにもすぐにわかった。
「そうだな、報酬を追加してもらおう、」
「そんな、おまえ、追加はしない、って言っていたじゃないか。」
「あと五百ドルでいい。そうでないと、マリーナにおまえのことを言うぞ。」
ツェリコフと話しながら、レオニードは考えた。おそらくこのまま依頼を果たさなくても、相手は金を返せとは言ってこないだろう。相手にも後ろ暗いところがあるからだ。しかし、もしかしたら別の殺し屋を雇ってマリーナを狙うかも知れない。
一万ドルもらえるならともかく、三千ドルならマリーナと付き合うことの方が価値がある、とレオニードは思った。
「カメンスカヤ通りの二十四番バス停のあたりで、明日早朝四時に。俺があんたを車で拾うから、そのときに追加分を受け取るよ。」
ツェリコフは悔しそうに顔を歪めて返事をしなかったが、レオニードはその日の仕事を終えてアパートに戻ると、ライフルの手入れをした。
翌朝の四時三十分ごろにレオニードがカメンスカヤ通りに行ってみると、ツェリコフは指定の場所にいて、いらいらしながらレオニードが現れるのを待っていた。
もちろんレオニードはツェリコフに近づこうとはせずに、数百メートル離れた建物の陰からツェリコフを狙ってライフルを撃った。今回の標的は自ら狙撃しやすいところに来てくれたのだから、楽だった。
その後二、三日はツェリコフの葬儀があって、マリーナはサンクト=マルガリツカヤ通りの店には来なかった。マリーナが再び出勤するようになったころを見計らってレオニードが彼女に会いに行くと、意外なことにマリーナの方から彼を食事に誘ってきた。レオニードは有頂天になった。なにもかもレオニードの思いどおりにいきそうだった。
その日の夜になって、レオニードはマリーナの指定したレストランに行った。レストランはツェリコフを狙撃したカメンスカヤ通りに程近いところにあった。
マリーナは先に店に来ていて、レオニードをにこやかに出迎えた。
「こんばんわ、リョーニャ。今日はお約束の物を見せようと思って。」
マリーナは手のひらにのるくらいの箱を取り出して開けてみせた。中には大粒の真珠のついた指輪が入っていた。
「これは日本のパパの形見なのよ。どう、きれいでしょ?。」
「確かに、真珠にも光沢があるんだな。俺が間違っていた。これなら売れるんじゃないか。ところで、真珠って白いものだけなのか?」
「黒いのもあるし、ごく稀に薄い桃色のもあるわよ。日本で取れるのは白と黒だけど。」
レオニードは、黒い真珠というものはマリーナの黒い瞳のようなものだと想像した。
「黒い真珠というのは、石炭が光ったようなものなのか?」
「いいえ、違うわよ。」
「それだと、どういうものかうまく想像できないな。じゃあ、今度は黒真珠を見せて欲しい。」
「いいわよ。必ず見せてあげる。黒真珠もとても美しいのよ。」
それからマリーナは、実の父の思い出を懐かしそうに語り始めた。
「パパは癌で亡くなったんだけど、自分の命が長くないと知ったとき、私のためにこの指輪を買ってくれたのよ。形見とするためにね。当時の値段で三千ドルくらいだって聞いたわ。
三千ドルというのは日本では高い方ではないのよ。でも、入院でお金がかかるときだったから、これが精一杯だったのね。パパがどれほど私のことを愛してくれたかと思うと、本当に嬉しいわ。」
「今のお父さんはきみになにも贈り物をしてくれないのか?。」
「あんな男が?」
マリーナは憎々しげにつぶやき、声をひそめた。
「彼が私にそんなことをするわけないのよ。実は、かつて継父は私に肉体関係を強要していたのよ。ママにわからないようにね。今の会社は、そのことをママに告げ口させないように口止めとして継父が私に任せたというわけ。
だからこそ一層、会社をうまく経営して継父に目にもの見せてやろうと思っている。」
レオニードはそれを聞き、マリーナの継父に嫉妬を覚えたし、同時にマリーナをあわれに思った。
二人はレストランで長いこと話し込み、店を出たときには既に辺りは暗くなっていた。
「リョーニャ、私はあなたに相談にのってもらいたいことがあるの。ここではまずいから、私についてきて。」
マリーナは人気のない裏道にどんどん入っていった。まるでレオニードの気持ちを読んでいるかのようで、彼は嬉しくなってマリーナに抱きついた。
「マリーナ。好きだよ。」
レオニードはマリーナの顔を自分の方に向け口づけした。マリーナはレオニードにされるままになっていた。再びマリーナを抱きしめながら、レオニードの期待は膨らんだ。今夜こそマリーナを自分のものにする、と。
突然、マリーナはレオニードから身体を離した。
「リョーニャ、あなたに相談があるのよ。」
レオニードは肩透かしを食らわされて気まずかったが、愛想よくマリーナの話を聞くことにした。
「いいよ。どうしたんだ?」
「実は私、最近危ない目にあっているの。誰かが私をつけているみたいで。だから護身用にこれを手にいれたの。警察は当てにならないしね。」
マリーナはハンドバッグの中から布で包まれたものを取り出し、レオニードに手渡した。レオニードが布を開いてみると、中身は拳銃だった。マリーナは他の殺し屋にも狙われているのだろうか、とレオニードは不安になった。
「それは私にも扱えるかしら?。」
「そうだなあ。」
拳銃はずっしりと重みがあった。レオニードは周囲に人がいないのを確かめてから、拳銃を持って軽く構えてみた。この拳銃の重さからいくと、若い女にはうまく扱えないような気がした。
するとマリーナはレオニードから少し離れたところに立ち、不自然なほど大きな声で言った。
「私はあなたの思いどおりにはならないわ。」
レオニードが唐突な彼女の言葉に気をとられていると、突然背後からものすごい力が加えられ、彼は地面にたたきつけられた。拳銃はレオニードの手から放り出され、道に落ちた。建物の陰に二人の警官がひそんでいたのだ。
レオニードが起き上がろうとすると、ルスランがレオニードの身体に馬乗りになって彼の顔を何度か殴った。一方、ユーリは手袋をはめて拳銃を拾い上げた。レオニードがぐったりしたところで、ルスランは手錠をかけて言った。
「脅迫の現行犯だ。」
「脅迫?」
「そうだ。おまえはこの女に関係を迫っていただろう?拳銃で脅しながら。」
「そのとおりです。」
マリーナの付け加えた言葉に驚いて、レオニードは彼女の方を見た。マリーナはルスランの方を見ていて、レオニードとは視線を合わせようとはしなかった。
なぜマリーナが嘘をつくのか。レオニードは事態が飲み込めないまま、有無を言わさず警察署に連行された。この段階になるとレオニードは、おそらくマリーナが警察と謀って彼を罠にはめたのだということに思い至った。このときのレオニードなら、ためらわずマリーナに狙いを定めてライフルを撃っただろう。
「俺は彼女を脅迫なんかしていない。拳銃は、使い方を教えてくれ、と彼女が俺に手渡したんだ。」
レオニードを取り調べた刑事は、不敵な笑みを浮かべた。
「そうかな?だったら何故拳銃にはおまえの指紋しかついていないんだ?。」
もちろんこれは時間稼ぎだった。レオニードが警察署に拘束されている間に彼のアパートが捜索され、ツェリコフを狙撃したライフルや弾丸、ライフルを運ぶのに使った釣り用の箱などが押収された。

ツェリコフが狙撃されたと知ると、マリーナはすぐに警察署に行き、ツェリコフの事件を担当しているプラストフに、自分は犯人に心あたりがあると告げた。ツェリコフが撃たれたことによって、マリーナはかえってレオニードを疑いだしたのだ。
「シベリア産のダイアモンドはほとんど輸出用にまわされてしまうんですけど、先月から特別に我が社に卸してもらえるようになったんです。そのことを妬んでいる同業者はいっぱいいるはずです。
我が社は私とツェリコフがいなくなれば、経営者はいなくなってしまうんです。だから我が社を乗っ取るために私と彼を始末しようと考える連中がいてもおかしくはありません。もしかしてうちの従業員がそういう連中と通じていたのかもしれません。
実は最近、怪しい人間が私に近づいて来るようになったんです。リョーニャと名乗る三十歳くらいの男です。私に言い寄っているんですが、私や会社のことばかり尋ねて、自分の姓も仕事も住所も一切教えてはくれないんです。
彼はおそらく会社の内情を私から聞き出そうとしていたのかもしれません。私はうかつにも、彼にいろいろなことを話してしまいました。
彼がツェリコフを殺した張本人かどうかは別として、おそらくツェリコフの死に何らかの関連を持っていると思います。どうかこの男を取り調べてくれるようにお願いします。」
プラストフは最初は重い腰をあげようとはしなかった。
「ツェリコフを殺害したのは、ここ数年モスクワで発生しているライフルによる連続狙撃事件の犯人ではないか、と思っています。わかっているだけで八件の事件が、奴の仕業だと考えられるのです。
被害者たちの間に共通点がないことから、奴はマフィアの間に自分の情報を流して依頼人を見つけ、報酬を得て殺しを請け負う、いわゆる殺し屋らしいのです。
これらの事件では特に有力な情報もなく、犯人の正体はほとんどわかっていません。だから我々警察としては、ツェリコフ殺害を依頼した人物の捜査の方に重点をおいています。いずれあなたにも事情を聞くつもりでいました。
リョーニャと名乗るその男は本当にあなたを口説いているだけで、ツェリコフ殺害とはなにも関係がないのではないですか?彼があなたに危害を加えようとしたことはありますか?あるいは彼が武器を携帯しているのを見たことがありますか?」
「いいえ。」
「それだと我々はどうしようもできません。確かな証拠がありませんからね。」
マリーナは何がなんでも自分の身と会社を守り抜くつもりでいた。そこでマリーナはハンドバッグから紙包みを取り出して机の上に置き、これでどうだといわんばかりにプラストフを見つめた。
「まあ、我々の方でも何か調べておきますよ。リョーニャが本当の名前なら、なにかわかるかもしれない(リョーニャはレオニードまたはレオンティという名前の愛称)。
そういえば、連続狙撃事件において二回ほど、釣り道具を持った男が目撃されているんですが、彼が釣り道具をもっているところを見たことはありますか?」
「見たことはありませんが、釣りに誘われたことはあります。」
「わかりました。では明日またお越し下さい。マリーナさん。」
マリーナは紙包みを置いたまま警察署を出た。そして翌日、指示どおりに再び警察署に行ってみると、プラストフの他に二人の若い警官が同席していた。
「例の連続狙撃犯は専門的な訓練を受けたことのある者ではないかと私は推理していました。そこで、昨日あなたが教えてくれた情報をもとに陸軍省に照会してみました。このなかに、見覚えのある男はいますか。」
プラストフは、レオニードまたはレオンティという名前を持つ五人の男の、陸軍に登録されていたころの写真をマリーナに見せた。彼女はそのうちの一枚の写真を指さした。
「これが、昨日お話しした男です。」
「そうですか。その男はレオニード=リーシスキー、三十一歳。前科一犯。表向きの職業はタクシー運転手です。陸軍では特別狙撃隊に配属されていました。
さて、これは大変なことになりました。これほどの重大な手掛かりを得た以上、我々としても手をこまねいて見ているわけにはいきません。
そこで、この男を捕らえる方法を考えたんですが、あなたも協力していただけますか?」
「はい。」
既にツェリコフが殺されていることから、マリーナも必死だった。
するとプラストフは布に包まれたものを机の上に置き、布を開いてみせた。中身は拳銃だった。プラストフが以前、とある殺人犯を逮捕して家宅捜索をしたときに、なにかのときに役に立つかもしれないとくすねてきたものだった。
「リーシスキーは殺し屋だ。当然、殺しの依頼をした連中から口封じのために狙われることがある。また、同業者が奴を妬んで始末しようとすることもあるかもしれない。だから、リーシスキーが護身用の拳銃を持っていてもおかしくはない。
この拳銃には今、指紋が一つもついていません。マリーナさん、これをリーシスキーに持たせて下さい。あなたを脅迫した容疑で奴を拘束し、その間に連続狙撃事件の証拠をつかみます。
方法はこうです。まずリーシスキーを人気のないところに誘いだし、自分は最近狙われているようだ、と奴に相談するのです。他の殺し屋があなたを殺せば、奴は依頼人から成功報酬をもらえなくなってしまう。また、依頼人が自分以外の殺し屋を雇ったとなれば、奴の狙撃手としての誇りも傷つくでしょう。ですから、相談にはのってくるはずです。
そこであなたはこの拳銃を護身用に闇で買ったと言って、リーシスキーにこれを持たせるのです。銃に精通している者なら興味を抱いて必ず手に取ってみるし、うまくいけば銃を構えさせることができるかもしれない。
拳銃にリーシスキーの指紋がついたところで、あなたには合図となる言葉をいってもらいます。そうですね、奴はあなたを口説いているように装っているのだから、奴を拒否するような言葉がいいですね。そのとき、ここにいる警官が奴を逮捕します。奴が護身用に携帯していた拳銃であなたを脅迫した、という容疑でです。」
「わかりました。でも、彼に拳銃を持たせたりして、私のことを本当に撃たないかしら?」
「大丈夫です。リーシスキーはいつも必ず遠隔狙撃で殺しを実行してきました。顔を見られたり、余裕をもって逃走できなくなったりすることを恐れているのでしょう。ですから、至近距離で標的を撃つことはないと思います。
それに、ここにいるウスチノフとゼムツォフの二人は署でも優秀な方です。彼らを信用すれば大丈夫です。」
マリーナは布に包まれた拳銃をハンドバッグの中に入れた。

マリーナの殺しを依頼した人物がツェリコフであったことは、プラストフはもちろん、マリーナにとっても予想外のことだった。そのことを知るとマリーナは継父が自分の母親と住んでいる家に行き、ツェリコフのことを話した。
「そんな青年には見えなかったけどなあ。」
アセーエフが言ったのはそれだけだったので、マリーナはひどくがっかりした。マリーナに対するいたわりの言葉がまったくなかった。そんな男と一緒に仕事をさせて悪かった、とか、これからは自分がマリーナを守る、というような言葉をマリーナは待っていたのだ。
マリーナは継父のことについても、レオニードに嘘をついていた。
自分があと二年早く生まれていたら、母でなく自分がアセーエフと結婚したのに、とマリーナはかつてひどく悔しがった。マリーナが大学入試の勉強に専念していた最中に、母はアセーエフと親しくなり、彼と再婚してしまった。
それでも彼をあきらめきれなかったマリーナは、母の目の届かないところで彼を誘惑した。アセーエフは最初のうちは若いマリーナを抱いてはくれた。しかし、マリーナがだんだん自分にのめり込んでくるのを知り、彼女が重荷になってきた。そして、マリーナが大学を卒業すると、関係の清算と口止めのためにツェリコフの店を買収して彼女に任せたのであった。
アセーエフとしては、マリーナがツェリコフを愛するようになってくれれば、と願っていた。そのために若い男のいる店を選んだのだ。もしツェリコフがマリーナと結婚する気になってくれれば、アセーエフは自分がやっている事業のうちいくつかを彼に任せてもいいとすら考えていたのだ。
だから、マリーナが継父を恨んでいるとしたら、それは彼に肉体関係を強要されたからどころではなく、逆に彼が二度とマリーナを抱こうとしないからだった。継父に求められたいという願望から、マリーナは継父に関係を強要されていたという、つく必要のない嘘をレオニードに対してついたのだった。
アセーエフの気持ちが戻らないことにマリーナは打ちひしがれながら、継父の家を出て自分のアパートに戻った。
一方、レオニードはツェリコフを含め五件の殺人事件で起訴されることとなった。マリーナを脅迫したという容疑については起訴されなかった。事件を担当した検事はプラストフの姉の夫だったから、その辺はすべてプラストフの思いどおりにできた。
マリーナの支払った三千ドルは、うち一千ドルがプラストフのもとに、もう一千ドルが検事のもとに入り、そして残りは五百ドルずつがルスランとユーリの二人の警官の手に渡った。
臨時収入を祝って、ルスランたちは祝杯をあげた。
「なあ、ユーラ。軍で殺人の方法を仕込まれて、リーシスキーほどの腕になれば、除隊して街に戻った後でもその方法を実践してみようとするのは無理のないことなんだろうな。」
「退役軍人や戦場を体験した者たちが街をうろつき、軍から横領されたライフルや拳銃が出回っている。この街の混乱はまだ続くよ。だから俺たちの仕事にも終わりはないんだよ。
それにしてもルーシャ、おまえも拳銃の腕は抜群にいいんだから、なにかあったら疑われるかもしれないぞ。気をつけた方がいいな。」
「俺はリーシスキーの足元にも及ばないよ。それに、殺し屋稼業なんてやる度胸もないし。」
ルスランは今回得た五百ドルで、秘めたる恋人のリュボーフィに何か贈りたいと考えていた。しかし無欲なリュボーフィは、おそらく何もいらないと断るかもしれなかった。そのことがルスランには寂しく思われた。
マリーナは殺し屋に狙われた女社長としてしばらくマスコミに騒がれたが、会社の経営は順調に続けていった。レオニードの裁判で彼がツェリコフを殺した動機が明らかにされ、レオニードがマリーナを実際に愛していたことがあったことが判明したが、それを知ったところでマリーナには既にどうすることもできなかった。
当然のことながらレオニードは死刑の判決を受け、数年後に処刑された。彼はついにマリーナを抱くこともできなかったし、黒真珠がどういうものかを見ることもできなかった。

(終)





〜postscript〜
「ルスラン」の番外編のひとつです。
ロシアでは殺し屋が結構多いし、しかもその報酬が安いと聞いて、作った物語です。
私は本当は殺人シーンは書きたくないのです。
もし書くなら、暇つぶしの小説にはしないで、社会問題と絡めて書きたいのです。
この作品では、徴兵制度の弊害を取り上げたつもりです。



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